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「はっきりとは判りません。ただ、霧から逃れ出た者が申すには、時々、どこかで火花が散り、火柱が立ちのぼっていたと。濃霧を覆う結界のために、被害は外まで及んではいませんでしたが……」
「濃霧の中で、火柱か。確かに、滅茶苦茶な力の使い方だな」
「ええ。レダンも同じ事を。力の方向性が無茶苦茶で、おそらくは本人も混乱している、自分が止めに行くので、霧の中に迷い込んだ兵を外へと誘導させて欲しいと」
「そういうのは、判るものなのか?」
 魔法の威力、その力の洗練具合等、フェルハーンの目には明らかに映る。だが、ただの魔法使いには、自分の中の魔力をある程度捉えることは出来ても、他人のものを識ることはできない。せいぜい、強力な魔力が在るかどうかを感じ取れる程度だと言われている。
 ヒュブラは、少し考えるように首を傾げた。
「そうですね。例えば、魔法鉱石に蓄えられた魔力が知り合いのものであるとすると、なんとなく、力の方向性から判ることもあります。おそらく、こういった魔力を感知する力というのは、持って生まれた能力ではなく、集中力と精度を上げる訓練の賜なのでしょう。師弟間のように、普段から互いの魔法に慣れ親しんでいれば、それがより一層、はっきりするかと思います」
「そうか。では、お前の見た感じ、濃霧に紛れていた魔力はどうだったんだ?」
「濃霧を晴らすことは、かなり困難であると判りました。解除魔法は試してみましたが、一時的に周囲の霧を薄くする程度でした」
「そう。そうなると、レダンは自分の養子について、かなり謙遜したってことかな」
「才能という意味では、或いは」
 魔力に溢れた、しかし、制御する腕の未熟な少年、といったところなのだろう。だが、戦場という非日常的な空間が緊張と不安、精神的な不安定を呼んだのだとしても、この事態は、未熟という言葉で済ませて良い域は完全に越えている。
 辺り一面の炎を見回し、とフェルハーンは乾いた息を吐き出した。
 ヒュブラという、火系魔法の第一人者の張った結界ですら、現状、炎と風の猛襲を防ぎ切れていない。暴走の果てに限界を超えているのだとしても、あまりにも異常に過ぎる。それも、瞬間的な力ではないのだ。フェルハーンが炎の中心、おそらくは見知らぬ少年の方へ向かって数分、勢いは、いっかな衰える兆しさえ見せようとしない。むしろ、狂乱の度合いが増しているように、フェルハーンには感じられた。
 炎の手に抱かれ、身を焦がしながら崩れていく木々、人の形をした炭の塊、骨組みだけを残した天幕の成れ果て、灰となって散る草花。生命を全て焼き尽くした光景の中、ふたりは粘度の高い魔力をかき分けて進む。
 額から流れた汗を拭い、ヒュブラは、険しい目を一点に向けている。彼の、魔力を感知する精度は確かに高い。聖眼を持つフェルハーンもまた、彼と同じ場所に、鮮やかな噴出点を見い出していた。
 深く息を吸い込めば、焼かれるような熱さが喉を通る。故にか、次第にふたりは口を開くこともなく、ただ、木々の裂ける音だけを耳に、それが義務であるかのように足を進めるようになっていった。
 やがて、数十分も歩いた頃か。全てを燃やし尽くし、平らな地面だけを残した一帯に、フェルハーンはひとつの黒い影を見た。携帯していた水を口に含み、表面化しかけていた動揺を胸に落とす。
「……あれか」
 音は、ない。唇だけで呟くと、ヒュブラは短く頷いた。一旦足を止め、フェルハーンは喉を鳴らす。そうして、炎の奥、人の形をしたものに目を凝らした。
 炎を纏い、蹲る、線の細い少年。そして、彼が縋りつく、人であったものの塊。
 レダン、とフェルハーンの耳を、低く掠れた声が掠めた。
「ヒュブラ、抑えられるか?」
「彼が、正気の内にあるなら」
 遠回しの否定に苦笑し、フェルハーンは一歩前へ進み出た。彼の目は、少年の体の一点が、目を眩ませるほどの白い光に満ちていることを捉えている。
 凄まじく力に満ちあふれ、そして、美しい。ほとばしる朱金の軌跡は、何に代え難いほどに幻想的だった。それまで一番美しいとさえ思っていた、ヒュブラのものとも一線を画す、生命の放出。どんな優れた画家の手にも、きっとそれは描くことすら適わないだろう。
 フェルハーンの足下で、真っ赤に焼けた石が小さな音を立てる。
 気付いたように、少年が顔を上げた。涙もない、感情の全てを削ぎ落としたような、硝子のような瞳が向けられる。彼の腕の中で、抱えていた黒い塊が、儚く崩れ落ちた。
 それが何であったのか、もはや少年に考えるほどの思考が残っていないのか。焦点の定まらぬままに、乾いた彼の唇が、ただひとつの懇願を滑り落とした。
「……殺してくれ」
 ゴウ、と唸る炎。何故、その言葉が聞こえたのか、フェルハーンには判らない。ただ、少年はそれを望み、彼はそれを遂行する義務があると、それだけが確かなことだった。
 二撃目は、ない。少年の意思ではないものが、フェルハーンやヒュブラを敵と見なす前に、事を終える必要があるだろう。それは、聖眼という特別な目を持ち、魔法使いの最大の急所である一点を見ることのできるフェルハーンにしか成し得ないことだった。
 だが。
(……美しい)
 躊躇いが、生じる。――これほどの魔力には、おそらくは二度と、目にかかれないだろう。
 そして、その一瞬の迷いは、多くの者の未来を変えた。すなわち、ひとりの生と引き替えに、逃げ延びたはずの、何十人もの、死を。
 思いを断ち切るように、フェルハーンは首を横に振る。だが、時、既に遅く。
 フェルハーンの手に動揺を見て取ったのか、――その時を待たず、少年の口は、絶望にも似た咆吼を吐き出した。
 響く、呼び声。
 ――その叫びは、炎の魔物を呼び寄せた。

 *

 そして少年は、冷たい石牢の中で、目を覚ます。
 太い鎖が、身じろぎの度に耳障りな音を立てていたが、彼には、どうでもよい事のようだった。腕が折れることも構わず、無造作に、硬い床に叩きつける。否、むしろ、自らの体を痛めつけているようだった。
 精神的な不安定から来る自傷行為、などといった生やさしいものではない。完全なる自殺企図、普通であれば、痛みや死への恐怖のために怖じ気付くことでさえも、彼は全く躊躇わなかった。
 口を開けば、ただ、懇願する。殺してくれと繰り返し、涙のでない目から絶望を落とす。
 だがフェルハーンは、彼の犯した全ての罪の前に、それだけは、許すことはなかった。
「何故、と言いたげだな」
 薄く笑い、フェルハーンは少年を振り返る。十日ぶりに外の空気を吸った少年は、しかし、明るく眩しいものから目を逸らすように、ただ俯いていた。
 少年を戒めた鎖が、しゃらりと音を立てる。
「私は君を、軍部に突き出す気もない。私怨にかける気もない。勿論、殺す気もないよ」
 むしろ楽しげな声に、細い指が、伸びた爪が、己の掌を傷つける。
「君は、美しかった。君の魔力が、頭から離れない。天上というものがあるなら、ああいう世界なのだと思えるほどにね」
「……殺してくれ」
「君は、死ねない。私が君の急所を貫くか、いつか、魔力が尽き果てるまでね」
 殺す気はないと語った口で、殺せるのは自分だけだと強調する。我ながら曲がっている、とフェルハーンは胸の内で自嘲した。同時に、全く別の感情が過ぎったことを自覚する。
 そのまま、無言の内に辿り着いた泉の縁に少年を座らせ、フェルハーンは懐から一本の鍵を取りだした。
「名前は?」
「……」
 俯いたまま、少年は答えない。肋の浮いた背が、強い拒絶を示していた。
 短くため息を吐き、フェルハーンは少年の腕に絡みついた鎖を探る。そうして、手にした鍵で、その戒めを解きはなった。
「物乞いよりも酷い有様だね」
 笑い、汚れを落とすように、少年を泉へと誘導する。
「気付いていると思うけど、私の魔物が監視しているからね。逃げることも、例えば枝を折って自分の腹を刺そうとかしても、無駄だよ。まぁ、そんなことしたって死ねないのは、自分でも判っていると思うけど」
 明らかな嘲笑に、少年は歯噛みしたようだった。それでもさすがに、逆らうことは不可能だと悟ったのか、痩せた体を泉に浸し、フェルハーンの指示の通りに体を洗う。血や泥を流すその行為が、罪を流すわけではなかったけれど。
 閑静な森の中に、水音だけが響く。全てが焼け落ち、半径何キロもの焦土となった領境とは違う光景を見上げ、フェルハーンは瑞々しい草の上に腰を下ろした。
「――君はこれから、訓練を受ける」
 ばしゃり、と。断続的に撥ねていた雫が、音を止める。
「魔法の制御に戦闘訓練に、軍事的な戦略の知識も与えようか」
「……」
「それで、何になる、と言いたげだね。成れるよ、君は。一流の殺戮機械にね。なにせ、死ねないんだ。多少の訓練には慣れた大人ですら逃げ出すような、無茶苦茶な訓練を強いたって、大丈夫だろうからね。もしかしたら、その途中で、死ねるかも知れないよ」
「これ以上、人を殺せと」
「そう。私はね、君を気に入ってるんだ。自分の意思じゃなかった、そんなつもりはなかった、なんてくだらない逃げ道を作ろうともしない潔さがね。君はちゃんと、自分のしでかしたことを受け止めている。死んだって時間は戻らないけど、今後自分が暴走する危険を無くす唯一の方法だって、判ってる」
「なら」
「言っただろう? 私は、君のことが好きだよ。なにせ、――私以上の、化け物だからね」
 少年の顔が歪む。その顔に愉悦を感じている自分を、フェルハーンは誰よりも汚いと思った。
 そうして、牢で少年を見下ろしたときに浮かんだ感情を、今更のように思い出す。
「美しい、バランスを崩したが故の歪な力だ。私が、手放すとでも思ったのかい?」
 目に映る、異常なほどの輝き。聖眼という人の手には余る力をも上回る、異質な能力。及びつかないほどの圧倒的な力の前にフェルハーンが感じたのは、嫉妬と憧憬と、――深淵をのぞき込むような昏い優越感だった。
 自分以上の化け物。彼が居る限り、自分はまだ、人間に近いのだと思える、卑しい感情。そう、自覚している。
 だがこの時、王宮の人間関係に疲れ、自分の能力を持て余していたフェルハーンには、絶対的に必要な贄だった。
「憎いかい?」
 応える声はなく、水音が再び森にこだまする。
「君は、強くなる。もしかしたら、私よりも。そうなったら、殺してくれても良いよ」
 本心からの言葉だった。だが同時に、そうはならないだろうことも、フェルハーンは感じていた。
 少年はおそらく、フェルハーンを憎むことなどないだろう。より深く、自分を呪うが故に。そして彼は永遠に、己の罪に苛まされるのだ。
 憐れだと思い、目を伏せて低く嗤う。
 少年の、その業の深さを知って尚、生きることを強要しているのは彼自身に他ならない。自分は誰よりも、彼に同情する権利などないのだと、フェルハーンは今まさに自分に架した罪に向けて、ただ、自嘲した。


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