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 心持ち緊張したように背筋を伸ばす使用人一同。ディアナがそう望んだため数は多くないが、それでも合わせれば50人ほどが館で働いている。その中で魔法の使える者は3人。強いて数を増やすとすれば自分を入れて4人になるか、とアリアは指折り確認した。
 魔法施設。その言葉に惹かれるものがある。そうして、アリアはちらりと主の顔を伺った。視線の先、ディアナの目は笑っている。
「……まぁ、その為に来たのだからな」
 独り言にしては大きな音をため息にのせ、ディアナは義兄を改めて見直した。
「そこに居るアリアをお連れ下さい。わたくしが魔法に関する手ほどきをしておる者であれば、義兄上の手を煩わすこともなかろうと思います」
「ほう、そうか。ディアナが自ら、ね。それはすごい」
 向けられた混じりけのない笑みに、アリアはぎよっとして後退る。男に免疫のない身としては、惚れ惚れする美貌を拝むのも恥ずかしければ、冗談にせよ期待の籠もった目を向けられるのも心苦しい。
 よく言えば注目して、悪く言えば値踏みするように、フェルハーンはアリアの上から下までをゆっくりと眺めた。外見にあまり秀でたところのないアリアとしては、既に逃げ出したい心境である。途中、フェルハーンの目に一瞬宿った不思議そうな色はしかし、すぐに微笑と共にかき消えた。
「よろしく、アリア殿」
 構える隙もないほど自然にフェルハーンはアリアの手を取り、やんわりと両手で包み込んだ。アリアの顔面に一気に血が昇る。3割の恥ずかしさと7割の――もうひとつの理由が拒絶反応を生み、そうして思わず、アリアは反射的に手を振り払ってしまった。
「あ」
 声を発したのは、レンだった。だが、その場にいた全員が同じ事を持ったに違いない。
 アリアにとって驚くことではあっても、フェルハーンは特段、彼女に無礼を働いたわけではない。単なる挨拶と言ってしまえばそれで終わる行為だ。馴れ馴れしい、或いは人懐っこい握手と言われればそうなのだろう。だが、手を振り払うというアリアの行為は目上の、更に遙か上の身分に居る人に対する非礼以外の何ものでもなかった。不快を与えるには十分である。
 しまった、と思ったときには既に遅く、アリアは紅かった顔から瞬時に血が引いていくのを感じた。
「アリア……」
 気まずそうな、心配を含んだレンの声が耳に痛い。
 だが些か過剰とも言えるアリアの反応に、フェルハーンはむしろ可笑しそうに笑い、口元を手で覆った。
「からかうのも程ほどになされよ。義兄上は本当、エルスランツの男とも思えませぬな」
 呆れたように評したディアナに、フェルハーンは優雅に一礼を返した。
「わたくしの侍女に手を出すなど言語道断。いかな義兄上とも言えど、出入り禁止にさせてもらいますよ」
「それは困るな」
 困った様子など微塵にも感じさせない朗らかさで、フェルハーンはわざとらしく肩を竦めた。
「エルスランツは誠実な男と純真な乙女の産地だ。もっと信用してもらっても罰は当たらないと思うな」
「どこの世にも例外はあるもの。憂うべきかな」
 切って捨てたディアナと、途端に情けない表情を浮かべたフェルハーン。館の使用人として、アリアは笑いをかみ殺すのに苦労する羽目になった。王の右腕とも言われるフェルハーンの思わぬ気さくな様子に、彼に初めて会う者はどちらかといえば目を丸くしている。仮にも王宮に雇われる使用人、貴族の応対には慣れているはずであるから、ディアナとフェルハーンの態度の方が王族としておかしいのだろう。
「……話を戻そう」
 咳払いをひとつ、フェルハーンはやや強引に切り替える。口論では形勢不利とみたのだろう。
 その後、多くの冗談と、幾つかの真面目な遣り取りの後、アリアはフェルハーンに連れられて館を後にした。わざとらしく見送りに出たレンの、嫉妬の籠もった視線が痛い。
 屋敷の門を出たところで、フェルハーンはアリアに向き直った。
「歩いていくけど、いいかな?」
 否も応もない。確認ではあるが、アリアにすれば命令と同義である。頷いて、フェルハーンの後ろ、半歩下がった位置を歩き始めた。
 季節は初夏。強い日差しの中に時折吹く風が心地よい。短い夏にも殆ど気温の上がらない北方から来たアリアには、それでも少し暑いくらいだった。北のイースエントはまだ新芽が芽吹いた頃だろうと、去ってきた土地に思いを馳せる。あまり良い思い出はなかったが、故郷には違いないのだろう。ディアナとともにキナケスに来て3ヶ月、懐かしく思う自分がいることは驚きだった。
 ディアナの館は、王都シクスの最奥、王宮の端に存在する。帰国当初は王宮内の一角を与えられたが、ディアナがそれと望み、今の館が与えられた。回廊で王宮と繋がっている他は周囲に建物もなく、館の後ろに断崖絶壁とその先に深い森を従えた閑静な場所である。もとは何代か前の王妃が療養するために建造された離れだったらしい。夜ごと宴に興じる社交的な貴族であれば、真っ先に忌避するような不便さが、ディアナの気に召したのだろう。
 館を出ると、しばらくは整備された庭園が続く。そこを抜け、第一区の中央に位置する執政区に向かうあたりで、漸く人の姿を見るようになった。重厚な建物がぽつりぽつり姿を現し、制服を着た官僚が慌ただしく出入りしている。
 いつものように執政区を左右に分ける中央の大通りに足を向けたアリアを、フェルハーンが慌てたように呼び止めた。
「そっちじゃないよ。歩いていくつもりかい?」
 首を傾げる。歩いていくかと了承を取ったのはフェルハーンの方だ。王宮のある第一区はかなりの広さにも関わらず、その下の第二区へ通じる門は本当にひとつしかない。王宮周辺に魔法施設など存在しない以上、フェルハーンが案内すると言った場所は第二区以下でしかなく、つまり、ただひとつの門に通じる道を目指すのはおかしな事ではないはずだった。
「ああそうか、君は利用したことがないんだね。丁度良い、あれも説明しておこうか」
 アリアの視線を受け、ひとり納得したようにフェルハーンは大きく頷いた。
「魔法施設――魔法院は第二区と第三区の間にあるんだ。さすがに歩いていくのは遠すぎるからね。馬を使うという手もあるけど、全力疾走させるわけにはいかないし、魔法院に十分な厩舎はないからね」
「それは……そうですね」
 ディアナの屋敷から第三区まではおおよそ7、8キロメートルはある。歩けない距離ではないが、いかんせん、侍女の服を着た女連れでは時間が掛かりすぎるだろう。ディアナの身の回りの世話から水仕事まで、人手の足りないときは何でもこなしてきた北の生活に比べ、着ているものは随分と動きにくいものになってしまっている。人の目もあり、まさか裾を抱えて走り回るわけにもいかない。
 窮屈な現状を思い小さく息を吐き、そこでふと、アリアは眉根を寄せた。
 客観的に見て、この現状は何かおかしい。
「どうかした?」
「いえ、あの――……」
 不思議そうにのぞき込んでくるフェルハーンを見て、アリアは違和感の正体に気がついた。
「で、殿下。もしや殿下自ら案内下さるのですか?」
「え? はじめからそう言ってたと思うけど?」
 当たり前のように返された言葉に、アリアは目と口で三つの丸を描く羽目になった。
 一介の侍女を自ら案内する王族――しかも、直系。あり得ない。
「――そんなこと、していただけくわけには参りません!」
「気にしない、気にしない」
 悲鳴に近いアリアの叫びは、フェルハーンに届く前に笑顔で払い落とされた。
「王宮とか第一区とか、形式張っていていろいろ面倒なんだ。私だとその点、顔だけでフリーパスだから、手っ取り早いんだよ」
「殿下の御名で通行証を発行なさればよろしいだけでは?」
「うーん。それは面倒だし、このところ決済することも少なくて、一番暇なのは私だったから。……あと、空いてるのはアッシュくらいだけど、さすがにあいつに女の子の世話は任せられないし、ネイトは、いや、今は新人指導が……」
 困ったような口調でぶつぶつと、意味不明の言葉を連ねるフェルハーン。迷っているのは振りだけで、実は話をうやむやに落ち着かせようとする演技だとぐらいはアリアにも判る。彼の方が、あからさまに怪しい素振りをしているからだ。
 違う意味で破天荒なディアナだが、まだしも王族らしい方だったのだと、アリアはがっくり項垂れた。
「というわけで、私に案内されるのが一番だと思うよ」
 何が「というわけで」かは判らないが、逆らっても無駄だとは本能で悟らざるを得なかった。
「駄目? それじゃ、最後の手段、『王族命令』」
「…………」
「じゃぁ、納得できたところで出発、といこうか」
「……はい」
 それ以外に何と言えただろうか。
 貴族の令嬢であれば、頬を染めて喜色も顕わに彼の手に引かれただろうが、アリアにしてみれば気の重いだけの事態である。自ら主に訴えたのを棚に上げて、アリアは早くも後悔を始めていた。
 フェルハーンの後に付き、歩く道が見知らぬ方面であったことも不安を煽る。
「ここからは執政区。役職付きの官しか出入りできない。今後、ここを利用するときの為に、後で通行証を届けさせよう」
 面倒だと言っていたくせに、と声に出してつっこめない身分差が悔しい。
「基本的に出入りは正面じゃなく、こっちからの方が良いかな。正面は仕事用だから。――ああ、彼女は問題ない」
 最後の一言は、警備騎士に向かっての言葉である。フェルハーンより年上であろう、くすんだ赤毛を丁寧になでつけた男がちらりとアリアを一瞥した。奇異というよりは好奇心の色が強い。この後、何度この視線を受けるのだろうかと考えるだけで、どうにもため息が出る。
 執政区の建物の中は、外から見た印象よりも遙かに近代的だった。外観だけをそのままに、何度か作り直されているのだろう。アリアにとって全く仕組みの判らない――魔法技術が惜しみなく使われた通路は、奥まった場所でも十分に明るく、どちらかといえばひんやりした空気が流れていた。フェルハーン曰く、「堅苦しい制服を着て歩くのに丁度良い温度」とのことである。
 騒々しさはないが、開放的で活気がある雰囲気は、アリアにとっては好ましい。畏まった王宮内の礼儀やしきたりも、ここではさすがに最低限、といった様子である。いちいち守っていては仕事にならないのだろう。
 やがてフェルハーンに促された入った室は、実に不思議な色彩で満たされていた。奥まった室で、風はない。それなのに絶えず空気が流動している。
 魔法の吹きだまり。そう、フェルハーンは表現した。
「魔力を無駄遣いしているわけではないよ。循環してる。だから流れがあるんだ」
「循環、ですか? そもそもどこから魔力が流れているのですか?」
 ディアナの屋敷にも、魔法を使った便利な仕掛けが幾つも施されている。魔法は魔法使いが使うものである、という認識しかなかったアリアには、このキナケスの魔法技術の進みようは驚異的であった。どういう仕組みで、魔法使いもいないのに魔法が作動しているのかが判らない。知りたいと思いつつも、主人を取り巻く状況が落ち着くまではと、個人的な興味は後回しになっていた。
 急いたようにそわそわし始めたアリアを見て、フェルハーンは咎めるでもなく笑う。
「今からその仕組みを知りに行くんだよ」
 赤面して、アリアはフェルハーンから視線を逸らせた。
「……興味、ある?」
 フェルハーンは、悪戯っぽくアリアを見遣る。
「魔法、使うらしいけど、どれくらいなのかな?」


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