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「え、は、はい」
 単純に考えれば、アリアに高価な物を贈ったとしても何の利益もない。だが、アリアの後ろにはディアナがいる。彼女を懐柔できればその価値は計り知れないものとなろう。近しい者を手懐けて最終的に大物――この場合はディアナを絡め取るという方法は、古来より幾度となく使われてきた手段である。
 なるほど、とアリアは大きく頷いた。人を疑うのは苦手であるが、自分が犯した失態を最終的に被るのは主人であるディアナである。気を引き締めるに、これ以上の理由はない。
 ただ、敬愛する主人のために。
 そう誓うように、アリアは小石を握りしめた。

 *

 このところ落ち着いたとは言え、昼過ぎはディアナの最も忙しい時間である。
「アリア、交代」
 何の前触れも、ノックもなく入り込んできたレンは、一息吐いたというように扉近くの椅子に座り込んだ。鏡を前に髪を整えていたアリアは、呆れた目で同僚を見遣る。
「なに、その崩れ方」
「あんたも夕方にはこうなってるわよー。もう、今日は朝から最低!」
「誰が来たの?」
「王宮の教育係のばーさん。でも、もう帰ったけどね」
 王族の姫の主な仕事と言えば、社交である。数々の例外はあるにしても、――将来的にディアナが深窓の令嬢で収まっている可能性はないに等しいとしても、今のところディアナは人脈を作ることに忙しい。亡命時、いくら幼少だったとはいえ、国を捨てて逃げ出した王族への反応はけして芳しくはないからだ。
 昨日の夜会への誘いなどは論外にしても、興味本位で、或いは探りを入れるために、ディアナに面会を申し出る者を素気なく追い払うわけにはいかない。中にはフェルハーンのようにいろいろと世話を焼いてくる者も居る。ディアナ自身、人を見分けるために特に初対面の相手は積極的に会うようにしているようだった。
 鏡に映る自分を見つめながら、アリアは思う。ここは本当に、人の思惑が絡みすぎていて、息苦しい。
 ため息を吐いたアリアの手から、レンが櫛を奪った。
「あんまりしつこく梳かしてると、禿げるぞ」
「……禿げたらカツラにするもん」
 アリアは、あまり自分の髪が好きではない。直毛過ぎてまとめにくい上に、全く艶のない泥水のような濁った灰色とはどういうわけだろうか。編み上げてもすぐに解けて乱れる髪は自然に流しておくしかないのだが、長く伸ばすとそれこそ背中に呪いがべったり張り付いたような状態になる。肩口に届く程度で短く切った髪型は、妥協の上の産物であった。
「染めたら?」
「こまめに染めないと、すぐに色が落ちるんだよ。そんなに頻繁に染料なんて買ってられない」
「ふーん」
 突っ込みどころのない答えに、レンは面白くなさそうに眼を細めた。単にいじりたかっただけなのかも知れない。ここへ来てからディアナの髪を結う役を他の者に取られてしまい、腕が泣いているのだろう。
「それで、午後の一番は?」
「ザッツヘルグの御曹司」
「げ」
「……の、義弟」
 似たようなものだ、とアリアは顔をしかめた。昨日の今日で、ザッツヘルグの者はどうやら、懲りるということを知らないらしい。
「まぁ、門前払い食らわすわけにもいかないだろうしね……」
 ディアナの渋い顔を思い浮かべて、アリアは苦笑した。
 キナケスは10の領地に分けられており、王都シクスのあるエンディラを含む4つが王家直轄の領地、残る6つはその地方を拝領した一族の手で実質的に管理されている。その6つの領主一族のひとつが、ザッツヘルグであった。
 領主の権限は強い。王家に次ぐ名門であり、6領主全ての賛同があれば王を退位させることもできるというから、生中なものではない。妃妾候補として王宮に入り込んでくるのは十中八九領主の親族であり、王子王女は大概いずれかの血を引いており、それ故に王位継承の時期になると必ずと言っていいほどもめることとなる。さすがに数年にわたる内紛に発展する事態は稀であるが、いずれにしても血を見る展開になることは変わりないだろう。
 アリアの主人であるディアナも、母親は6領のひとつ、グリンセス家の当主の妹だった。正式な名前はディアナ・グリンセス・クイナケルス。二番目の名を持つのは王族だけで、母親、或いは父親の出身を示すものである。クイナケルスは古い言葉で、それが訛って現在の国名、キナケスになったのだという。
 ただ、6領主と言えど、その格は領地の豊かさに比例して差が出来てしまうのは否めない。ザッツヘルグはエンディラに近い土地の肥えた平野を主な領地とし、北と東、ふたつの街道――大陸公路を押さえているだけあって、かなりの勢力を有している。対してグリンセスは北のイースエントの玄関口、寒さも厳しく痩せた土地は農地に適さず、それに代わるような特産物にも恵まれなかった。王都から遠いこともあり、どうしてもザッツヘルグに様々な面で劣ってしまう。近しい境遇だったエルスランツは王を得て勢力を伸ばしており、そのふたつの領地と接しているグリンセスの肩身が狭いのは当然とも言える。
 レンと別れ、応接室へ向かいながら、アリアは陰鬱な気分を拭うべく努力をしていた。
 後見である家の力が弱いことは、そのままディアナへの負担となる。会うに値しない相手を断れないのは、背後にそういった政治的な関係が糸を引いているからだ。せめてディアナが男であれば、別の方面から切り口が開けただろうにと思うと、どうにもため息が止まらない。
「失礼いたします……」
 応接室の扉を開けると、ディアナは既に客人と向かい合っていた。来るのが遅かっただろうかと若干血の引いた顔で時計をみる。だが時計の針は13時少し前。ザッツヘルグからの来訪者は13時半ごろに到着の予定であるから、むしろ早いくらいだといってもいい。
 予定外の客だろうか。それにしても、事前に連絡ぐらいはあるはず。いきなりやってくるのは、義理の兄でもあるフェルハーンくらいであるし、それが許されているのも彼ぐらいなものである。
 アリアの不審な表情を正確に読み取ったのか、ディアナは客人から目を逸らして苦笑した。
「アリア、お茶を換えてくれ」
「は、はい」
 瀟洒なテーブルには、カップひとりぶん。おそらくはディアナのものだろう。とすれば、余程強引に入り込んできた客ということか。
 何ものだろうか。挨拶を装って幾分不躾に見つめた顔は、見知ったものではない。血色は良いが皺の深い、穏やかそうな紳士と、外見上は好印象であるが、折角のディアナの休憩時間を削らせたと考えると、恨みすらこみ上げてくる。
「それで、叔父上」
 わざとだろうか。ディアナの使った呼称に、アリアは一瞬目を見開いた。
「肝腎のお話が見えませぬが」
「いや、殿下、貴方は何もせずにいてくだされば、それでいいのです」
「おかしいですな。叔父上のお話ですと、完全にわたくしの身に降りかかる問題であると思うのですが」
「難しく考える必要はないのだよ、ただ、そうであるのとないのとでは、貴方を見る目も変わってくるでしょうから……」
「わたくしを判断したいのであれば、殿下だの王位継承者だのという付属品は取り除いて見てもらいたいものですな」
 さらりと吐かれた言葉に、アリアはぎよっとしてディアナを振り返ってしまった。淹れたばかりの紅茶がこぼれなかったのは幸いだっただろう。
 王位継承。確かにディアナはその資格を持つ。この国は第一に直系優先の年功序列。そして3つ以上の領主の承認があって即位となる。その際、王子か王女かはあまり関係がない。才能と運があればよく、一部の勢力の独走を阻む仕組みなのだろうが、それ故に後継者争いをも増長させる。
 現在の王であるハインセックは39才。まだまだ壮年で、何事もなければあと数十年は国を治めるだろう。だが今のところ正妃はおらず、身分がない故に妾扱いされている女性との間に女児がひとり。内乱中の子供ということもあって、正式に王族とは認められていない。母親が王妃に認められれば話は別だろうが、あいにくとキナケスは国王の一存では正妃は決定できないという法が定められていた。6領主の内過半数の同意が無ければいくら寵愛を受けようとも愛人止まりなのである。今のところ賛成しているのは王の出身であるエルスランツと女当主のローエル領のみ。同意どころか、過半数の反対を受けている。
 であるとすれば、現在の王位継承権第一位は先王の第二王女であり、現王の異母妹であるエレンハーツ。病弱で離宮に籠もっていると聞く以外に、アリアたちに情報の入ってこない存在感の薄い王女である。
 王位継承権第二位、実質の一位はフェルハーン。名実共に申し分ないとされるが、二代続けてエルスランツが主導権を握ることを危ぶむ声もある。
 そこで現れるのがディアナだ。仮に今後王位継承権が認められれば第三位を獲得し、反エルスランツの勢力が諸手を挙げることとなるだろう。
 なんとか無難に紅茶を配し終え、壁際に控えたアリアにも聞こえる声で、男は捲し立て続けている。
「ローエルやセーリカからは色よい返事をもらっております。まこと、エルスランツの者が我が物顔でのさばる状態と言ったら……!」
「それで、ザッツヘルグは如何様に?」
「あれは……まだ返事が返っておりませんが、何、やつらも主導権を奪われはらわたの煮えくりかえっているところです。そのうち」
「それならば、今少しここに居りませい。それほど待たぬうちに、ザッツヘルグの使者がここに。よろしければ、話し合う場を設けて差し上げるが……?」
 大輪の華開くが如く艶やかにディアナは笑った。内に潜んだ実体が食虫植物であるにせよ、眼福に値する艶笑である。
 一瞬、うっとりと眼を細めた男はしかし、ディアナの言葉をかみ砕くにゆっくりと顔を蒼くしていった。何か言いかけては口ごもり、言葉の見つからぬまま、意味不明の音だけを口から発している。アリアが見る分にも判るほど動揺の呈は顕わで、あまりに拙い腹芸には憐れみさえ覚えそうになった。
「そ、そうそう気軽な話ではないもので、やはりこういうことは正式な場を持ってすべきですからな……」
「ならば、わたくしに話すも同様でしょう」
「いや、それは……」
 語るに落ちる見本のような男の様子に、ディアナはからかう気すら失ったようである。だらだらと汗を流す男を眺めながら、やがて興味を無くしたように窓の方に視線を流した。
「もうそろそろ時間のようですな。ザッツヘルグの若君がおいでになります」
 直訳すれば「さっさと帰れ」である。
「折角叔父上が見舞いに来て下さったというに、十分なもてなしのできぬまま、申し訳ありませぬ」
「い、いや、急に打診もなく来てしまったことを許して下され」
 ディアナの視線を受けて、アリアは扉を開く。軽快に道をつくった扉の横で頭を下げる間もなく、転げるように男は去っていった。ザッツヘルグを鉢合わせすることを恐れたのだろうか。だとすれば、それはそれで色々と判ることがあるというものだ。
 呆れた視線を男の背から引きはがし、アリアは嘆息する主人に向き直った。
「淹れなおして参りましょうか」
「いや、いい」
 一瞥だけを返し、ディアナは形の良い顎に指を当てて何やら考え込んでいる。


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