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(三)

 その第一報が投げ込まれたのは、日の出を待つ未明のことであった。
「状況はどうなっている?」
 慣れた団服を数十秒で着込み、手洗い桶に張っておいた水に手をつけて、そのまま髪を撫で付ける。それで寝癖が取れるわけもないが、ぎりぎりの体裁くらいは整えておかねばならない。夜明け前の空気はまだひんやりと涼しく、水を含んだ髪の冷たさに、寝起きの頭が急速に覚醒していくの感じた。
 周囲にまだ人通りはない。長い通路を走る直前の速さで歩きながら、フェルハーンは部下の報告に耳を傾けた。
「マエント国境沿いの村には、既にルエッセン騎士団の応援が向かっています。賊の数は五十程度、比較的少数ですが、物見によりますと、どうもマエントの兵の姿をしている様子で……」
「本当に国境を越えてか? 彼らがわざわざ我が国に何か事を起こすような問題でもあったかな」
「私は存じませんが、昨日今日で、何か揉め事があったということもあり得ます」
「そうだな」
 首肯しつつ、フェルハーンは南の国境の地図を頭の中で展開した。
 キナケスが庇護している国――悪く言えば属国として半ば支配下に置いている国は全部で4つ。ディアナが亡命していた北のイースエント、東の端のルーツライン、あとは南にふたつ。南西にあるセルランド、そして南東に位置するのが今問題に上がっているマエント、先王ホランツのふたりめの正妃の出身国でもある。
 そのマエントとの国境で、小規模な戦闘が行われていると報告があった。襲撃に遭ったのはキナケス最南端の村。それほど大きな村でもなければ敵の数も二桁、通常であれば管轄の違う騎士団団長に過ぎないフェルハーンの耳に現在進行形で入ってくるほどの情報ではない。先ほど名の上がったルエッセン騎士団が管轄区域内の治安保持の名目で出動すれば事足りる話である。
 だが、収集された中に、無視できない情報があった。マエントの兵の目撃情報である。むろん、遠く離れた地からの伝聞にも近い話だけに、信憑性には些か欠けており――どうしたものかと思案している内に、今度は正式な招集命令が下された。
「マエントへ使いは出してあるのか?」
「偵察部隊は既に。国として正式に問い合わせはまだかと」
「まぁ、そうだろうな……」
 ただでさえ、国境は常に緊迫した状況にある。盗賊の類を捕らえるのに軍を動かす時でさえ、予め相手国へ断りを入れておくなどの配慮は怠れない。相手が例え庇護国であろうと、傍若無人に振る舞っていてはいつか足下が掬われるだろう。下手な刺激は与えないに越したことはない。
 そう、キナケス側でさえ気を遣っている国際問題。本来なら、弱小国側の方がより敏感であるはずだ。
 それが今回、断りも了解もなく、一国の正規軍が国境を越えているという。
「偽物か?」
 独り言に近い呟きを発し、フェルハーンは即座に首を横に振った。
 情報は揃っていない。今はまだ、考えるのですら早計だ。
 長い廊下の突き当たり、ひときわ大きな扉の前で、フェルハーンは一旦足を止めた。軽く目を閉じ、深呼吸を何度か繰り返す。そうして整えようとしているのは、呼吸ではなく感情だ。
 遂に始まったのかもしれない、そう、直感が告げている。
「フェルハーン・エルスランツ・クイナケルス、ただ今参上致しました」
 室の奥、視線を投げかける面々に、文句のつけようもない完璧な礼を取る。ここに集まるのは人間ではない。人間の皮を被った魔物だ。人の裏をかくことに慣れた、欲深い、人という名の魔物の巣窟。
 長い内乱をくぐり抜けてきたフェルハーンは、権力を持った人間を、根本から信用することの愚かさを熟知している。それと認めた相手にさえ、極限の所では気を許したりしない。ましてやここに集う面子には、一分の隙すらも見せるわけにはいかなかった。
「ほう、相変わらず耳に早うございますな」
 揶揄を込めた声など、いちいち気にすることもない。
 円卓の、扉から最も遠い位置に座した男が鷹揚に頷き、フェルハーンは手近な席に腰を下ろした。そうして、さりげなく左右に視線を走らせる。
(まだ、それほどいないか)
 執政区の、王宮に最も近い一室である。王宮の端に居を構えるフェルハーンですら、到着に数十分を要してしまった。執政区から遠く、更に体裁を整えてやってくる者などは、おそらく当分姿を現さないだろう。
 円卓は序列をつけず上下身分の関係なく話し合うことを目的に作られたものだが、それにしても各々座る位置はだいたい決まってしまっている。軍が動く会議の場合、王族云々といった出自はあまり関係がない。年若いフェルハーンは扉に近い位置であり、最も奥に座るのは軍部の最高責任者、全騎士団の総団長とも言うべき司令官テイラー・バレイである。
 その左右には補佐のふたり、次いで6領主の王都での代理人が座るはずであるが、まだ半数以上が空席だった。後はフェルハーンと職務上の身分を同じくする6騎士団の団長かその代理が並ぶ。
 ちらりと向けた視線の先に、よく見知った顔を見つけて、フェルハーンは僅かに目を見開いた。
「ブライヤ、来てたのか」
 呼びかけに、男は口の端を曲げた。年の頃は40代前半。武骨な印象の強い大男だが、目は穏やかで沈毅な色が深い。粗野ともとれる大振りな笑顔がフェルハーンには懐かしい、故郷エルスランツの騎士団長である。
 挨拶代わりにか、わざわざ席を一つ下座に移動して、ブライヤはフェルハーンの隣に座り直した。
「たまたま、ですよ。別件で立ち寄ってたんです」
「別件?」
「ええ、まぁ……」
 言い濁して、上座に目を向ける。その先に重苦しい沈黙を見つけて、ブライヤは苦笑した。
 まだしばらく会議は始まらないと判断したのだろう。密談するようにフェルハーンに身を寄せ、だがそれにしては大きすぎる声で「別件」の内容を口にした。
「ルーツラインの国境がやばいんですよ」
 眉を顰め、フェルハーンはブライヤをまじまじと見つめやった。
「まぁ、今のマエントほどに明確なもんじゃないですけど」
「……どういうことだ」
「コートリアの団長に頼まれたんですよ。ルーツラインが怪しい動きを見せているってね。ええ、鵜呑みにしちゃいませんよ。ちゃんと調べました。兵の動きは確認出来ませんでしたが、魔物は増えているとか報告がありまして」
 途端、首を傾げたフェルハーンに、ブライヤは最後の一文をもう一度繰り返した。
 魔物、と称される生物は普通、人の多く住む場所に現れることはない。古代から生存する種族で、禽獣の類にはあり得ない力を持ち、時に魔法を使う個体も存在するが、それらの共通項として「人の多く集まるところでは弱体化し、やがては死に至る」ことが挙げられるほどである。時に人を襲い甚大な被害を与えてくることもあるが、そういう理由で、基本的にあまり見かける存在ではない。
 言いながら、ブライヤ自身も莫迦莫迦しいと思っていたのだろう。何度か瞬きを繰り返したフェルハーンから目を逸らし、唸るように続きを口にした。
「本当ですよ。何人も向かわせましたから、間違いありません。ただ問題なのは、ルーツラインの方も戸惑っているようだってことです。得体が知れない、原因が判らない以上、警備強化と動向の把握くらいしかすることはありませんのでね」
「まぁ、それはそうだろうね」
「で、コートリアからの要請もあったんで、エルスランツから少々騎士を派遣する報告と、うちの領地とルーツラインとの境界の見回りも増やす旨、国の方からルーツラインの国に伝えてもらうように言いに来てたんですよ」
 キナケスからみて北東に位置するルーツライン王国と国境を接しているのは、王家の直轄領とエルスランツ領のふたつ。主要な街道である大陸公路はそのうち直轄領の方を通っており、必然的に国境の関はそちらに設けられている。そこの警備を行っているのがコートリア騎士団。常磐色の制服の、国そのものに所属する騎士団である。
「団長は確か、トロラード・ビアーズ……だったかな」
「ええ。グリンセス騎士団出身の槍使いです。強い男ですが、砦の運営や指揮は苦手のようですな。ただ、参謀の副団長がそこを上手くカバーしているようです。今回も先に、ウルラ副団長より書簡で伺いが来ました」
「戦いの指揮と平時の采配は似て異なるものだからね。特に王領の騎士団は、他地方出身者や、トロラードがそうであるように、他騎士団からの抜擢者で構成されているから、6領地の騎士団よりもまとめにくい」
「まぁそれでも、他騎士団に助けを求めるのは珍しいことですがね」
 小さく頷きながら、フェルハーンは男の顔を思い浮かべた。
 通常、共同演習等の例外を除き、各騎士団が交流を持つことはない。それぞれが己の所属するところに排他的なプライドを持っていることもあるが、それ以上に下手な馴れ合いは共に謀りあり、と要らぬ疑惑を招くからである。従って、他騎士団へ団員を出向かせるときには、団長及び副団長が王都に断りを入れに来るのが倣わしであった。
「来るのは面倒でしたが、おかげで殿下に会うことが出来て良かったですよ」
 フェルハーンがエルスランツ騎士団――もとい、エルスランツ勢をまとめていた時代の部下は、弟を見るような目で笑う。
「まぁ、たまにはうちの領地にも帰ってきて下さい。娘ッ子どもが、喜びますわ」
「そうかな。この前、可愛い女の子に手を振り払われたばっかりだけどな」
「おや、誰ですかな、その勇気ある乙女は」
 戯けた調子のフェルハーンの言葉を、ブライヤは冗談と受け取ったらしい。やや大げさに目を見開いて、嘆かわしそうに両手を広げてみせる。その芝居がかった反応に、フェルハーンはただ苦笑した。
「そういえば、――」
 ブライヤが更に言い募ろうとした時である。
 わざとらしく大きな音を立てて、フェルハーンの斜め後ろにある扉が必要以上に目一杯開かれた。
「これは、お並びの皆様、遅れて参上いたしましたこと、お詫び申し上げます」
 これは芝居がかった、というより自分に酔った、と表現すべきだろう。現れた男は恭しく頭を下げ、しかし恐縮した様子など欠片も見せずに室内を睥睨した。
 ツェルマーク・ザッツヘルグ。父であるザッツヘルグ公の代理として王都に在住の跡取り息子である。偶然到着が一緒になってしまったのだろうか。廊下と会議室の境でセーリカ領主館の管理人、つまりセーリカ領主代理が居辛そうに縮こまっていた。
 莫迦が来た、とフェルハーンは思った。だが、身分の上では主要人物に違いない。これで会議が動くだろうと、ブライヤ共々円卓に向き直り、姿勢を正した。

 *

 ザサが見た世界、それは一面の黒炎だった。
 猛り狂う赤と濃密な黒。そのわずかな隙間から覗く藍の空は、まるでこの世の終わりを示しているかのようだった。
「何が――……」
 煽られ吹き付けてくる熱風から顔面を庇い、ザサは掠れた声を上げた。肩口で切りそろえられた銀色の髪に黒く紅い炎が映り、深く暗く照り返す。熱く粘る喉に無理矢理唾液を流し込み、ザサ震える手で馬を走らせた。
 正式な者からの要請に応じ、仲間達が持ち場から駆けていったのはまだ宵の口だった。久々の実戦である。それがひとつの村を救う目的を伴っているともなれば、騎士として奮い立たぬわけにはいかない。一部、仲間の内にあからさまに眉根を寄せた者もいたが、命令には逆らえなかったようである。留守番役を仰せつかったザサを残して、総出で村の救出に向かった。


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