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(五)

 白い陶器のカップが暖かな日差しを弾いて、アリアは眩しげに目を細めた。動いていると少し汗ばむ陽気だが、座って談笑するぶんには心地良い。
「アリアさんも、こちらのクッキーは如何ですか?」
 優しげな笑顔を向けてくるのは、ヴェロナ・グリンセス。ディアナの従姉妹だが、母親はディアナとは違い、前グリンセス公の所謂隠し子であったため、同じ一族にあるものの、扱いは天と地ほどに違っていた。彼女は同じく従姉妹であるはずのドマーク・グリンセス現領主の娘の侍女として働いている。
 この日、アリアとレンは、グリンセス公の館を訪れたディアナに付き従い、初めて王都の領主の居住区を訪れた。他家に訪問したとなると、従者も一介の客人扱いとなり、細々とした雑用は館で働いている者が行うこととなる。その自然な流れで手持ち無沙汰になったアリアとレンは、ディアナが話を終えるのを待つべく控えの間で立ちつくしていた。まさか、勝手にうろつき回るわけにもいかない。
 そこに、声をかけてきたのがヴェロナだった。
「ありがとうございます。いただきますね」
 ある意味屈辱的な身の上にも関わらず、同じ侍女仲間として屈託なく接してくれるヴェロナに、アリアもレンも自然に好意を覚えた。まだキナケスへやってきて数ヶ月、特に屋敷からあまり出る機会のないレンにとっては、対等に接してくれる相手はかなり貴重な存在である。
「このお茶は、うんと南の方から取り寄せたものなのですって。でも、匂いがお好きでないとグリンセス公が避けられたので、捨てられるところをもらっておきましたの」
 微笑と共に満たされたカップからは、ほんのり花の香りがした。ヴェロナに誘われて出たのは、控えていた室から続く庭、葉色も濃い緑の匂いと相まって、目を閉じれば春を思い出す。
「こんないいお茶葉を捨てるなんて、贅沢な話ですねぇ」
 アリアよりも順応力の高いレンは、遠慮もなく二杯目の香茶を啜り、やや呆れたように感想を口にした。
「ディアナ様は、あんまり種類とかには拘らないからなー」
「そうなのですか?」
「美味しければ、同じものを出し続けても文句は言われないんですよ。楽と言えば楽なんでしょうけど」
 ね、とレンは苦笑混じりにアリアに同意を求めた。認めるにやぶさかでなく、アリアは大きく頷いてみせる。ヴェロナは、ふたりの表情を見比べて可笑しそうに笑った。
「寛大な方で羨ましいわ。それに、お屋敷には、沢山人が来られるんでしょう?」
「沢山というか、物珍しさというか……。まぁ、来る人は確かに多いんですけど、中身すっからかんの美辞麗句が聞こえてくる度に、なにかこう、背筋が寒くなって仕方ないんです」
「ふふ。でも、フェルハーン殿下がよくご訪問なさるって、皆羨ましがってますわよ」
 皆とは、王都の第一区画に点在する六領主の館で働く使用人仲間のことを指すらしい。ディアナの館は第一区画でも奥にある王宮の更に端に存在するのであまり他との繋がりはないが、王宮と第二区画の境にある六領主の館の使用人たちは、互いに行き来することもあるとのことだった。無論、自分の領地領主が一番と、牽制し合っていることもあるが、情報網が完全に途切れるほどのことはない。
 よく言えば同じ境遇同士の井戸端会議、名付けるなら使用人ネットワーク。そこで交わされる内容は、紳士淑女の夜会で囁かれるものよりはるかにあけすけで、且つ下世話なものが多いだろうこと、想像に易い。
 きらり、とレンの目が光った――と、アリアは引きつった笑いを浮かべた。
「ねぇ、ヴェロナさん」
「はい?」
「お友達とお茶をされるとき、また私たちも参加させてもらっても構いませんか?」
 レンは非常に噂好きだった。ただ、むやみやたらと真偽を確かめず吹聴し回ったりはしないので、ディアナはそれを黙認している様子である。アリアとしても貴重な情報源、ましてや咎めたところで上滑りは必至、自分に害がない以上、暖かく見守るのも同僚のつとめというものだ。
 好奇心たっぷりの視線を受けて、しかしヴェロナは怯むことなく笑顔で頷いた。
「素敵ですわね。是非、お誘いいたしますわ」
「本当? 嬉しい。楽しみにしてます。ね、アリア」
 突然話を振られて、アリアは目を丸くした。そういえば先ほども、「私たち」と言われていた気がする。
「え、えーと……。私は魔法院の方にも行かなきゃいけないし……」
「魔法院!?」
 ヴェロナが奇声に近い悲鳴を上げる。
「アリアさん、魔法院に出入りなさっているの!?」
「え、ええ、まぁ、空いている時間ですが……」
「素敵!!」
 ポットを置き、身を乗り出してヴェロナはアリアの手を掴んだ。
「魔法院と言えば、あの方ですわ! ギルフォード様! あの方にはお会いしてまして?」
「あ、は、はい……」
「素敵な方だと思いません? あの美しいお顔ったら! それにとても優しくていらっしゃって……。あの空色の目に見つめられたら、私、失神してしまいそうですわ……」
 とりあえず頷いて、アリアはヴェロナが興奮し終えるのを待つことにした。喋れば喋るほど、ドツボに嵌る気がしたからだ。横からじっとりとした目線を向けてくるレンの表情も怖い。
「へー……そんなに格好良い人がいるんだ」
 栗色の髪と黒い目の、ディアナ曰く「黙って立っていれば美女」のレンは、噂好きの多分に漏れず、いい男にも目がない。ディアナの館の中で、フェルハーンの来訪を一番心待ちにしているのはおそらく彼女だろう。
「その人独身? 何歳? もっと他には誰かいないの?」
「あのね……」
 男を物色しに行っているわけではない。頭痛さえ覚えて、アリアは無意識にこめかみを押さえた。
 しかし、下手な答え方をしようものなら、魔法院へ連れて行けとせがまれること必至。アリアは「無難であること」を最大目標に慎重に言葉を選び、遠回しに嗜めた。
「魔法院の所員は、殆ど年配の人だよ。ギルフォードさんだって、居ない時の方が多いよ。第一、研究室にみんな籠もってるから、あんまり人とすれ違わないし。あそこは勉強しに行くところであって、人に会いに行く場所じゃないから」
 嘘は言っていない。ギルフォードに師事しているような状況であることを言わなかっただけだ。
 レンは、半眼でアリアを見遣る。真偽を見極めるような目に、アリアはむっとして睨み返した。
「王宮に居る親衛隊じゃないんだから、顔でなんて選ばれないよ。魔法にどれだけ興味があるか、それだけだから、レンの期待するようなことはないからね」
「でもアリアさん」
 ヴェロナは、可愛らしく首を傾げた。
「魔法院には、魔法使いの方々がいらっしゃるのではなくて? 騎士団の方々も、よく出入りなさっていると聞きますわよ」
「……それはそうですけど」
 別の切り口かららの鋭い指摘に、アリアはややたじろいでヴェロナを見返した。
「まともに喋ったことがあるのって、せいぜいひとりかふたりですし……」
 アリアの脳裏に、この間出会った仏頂面が浮かび上がった。くっきりとした二重まぶたの目は少し下がり気味、眉は反対に鋭角に上がっており、引き結ばれた口元も相まって、怒っているようにしか見えないその顔。おそらく、レンの美青年探知網に引っかかることはないだろう。
 万が一ヴェロナが知っていても、興奮されることもないだろう。そう打算を頭の中で巡らせて、アリアは思いついたように彼の名を口にした。
「アッシュ・フェイツ? ええ、知ってますわよ」
 案の定、ヴェロナの声は冷静且つ平坦なままである。
「そこそこ有名人ですわね。シクス騎士団でも五指に入る強さをお持ちの方ですわ。エルスランツ騎士団出身で、フェルハーン殿下がシクス騎士団長に就任なさるときに、引き抜いてこられたとか」
「え、そんなに強い人なんですか!?」
「詳しくは私も知りません。容姿は及第点なのですけど、あの無愛想と無礼は論外の域に達しますわね。語るに及びませんわ」
 否定する気も材料もなく、アリアはただ圧倒されたように頷いた。
「ああ、そうですわね。フェルハーン殿下もそうですけど、彼もエルスランツの人間らしくありませんわねぇ」
「あ、それ、それ」
 レンが手を打ち、ヴェロナの言葉を止める。
「その、『エルスランツらしい』って、どういうこと? ディアナ様も仰るんですけど」
「ああ、そうですわね。お二方はイースエントからいらっしゃったから、ご存じないのも無理ありませんわ」
 訳知り顔に頷いて、ヴェロナはにっこりと笑った。
「もともと、キナケスは小さな国が集まって、時には征服されて出来た国ですの。厳密に言えば他民族国家ということになりますわね。ですから、各領地に住む人はそれなりに特色があるんです。国の北西の領地ローエルの人は穏やかな人が多く、北のグリンセスは我慢強いとか、そんな感じですわね」
「……でも、ローエルらしいとか、グリンセスらしいとか、そういうのは聞いたことないですけど」
「ふふ、それだけエルスランツが特殊なんです。国の北東エルスランツ領は、元々キナケスと最後まで対立していた民族の住んでいた土地で、今でも独立不羈の精神が強いんです。ここの領地出身の方は大抵、誠実で礼儀正しく、且つ貞操観念が強いことで有名ですわ」
「なんか、堅苦しそうね……」
「そうですわね。でも、鍛冶の一族で、火を神聖視しているせいかしら。実はもの凄く情熱的なんですって」
 言いながら目を輝かせ、ヴェロナは自分の頬に手を当てて身を捩らせた。頬までほんのり染まっているあたり、「情熱的」の指すところなど知れたものである。
 紅い顔のまま、ヴェロナは演説を続けた。
「今のエルスランツ公は陛下の叔父様でいらっしゃるのだけど、その方がまた素敵なおじさまで……」
 アリアとしては、はぁ、としか言いようがないのだが、レンは一緒になって盛り上がっている。順応力というより、この場合は興味の方向の差なのだろう。ひとり、置いてけぼりを食った形で、アリアは冷めた香茶をすする羽目になった。
 レンにとっては濃密な、アリアにしてみれば空疎この上ない時間が終わりを告げたのは、それから半時間のち。
「……楽しそうだな」
 呆れと揶揄を折半したような声に、アリアは救いを求める目を向けた。はっとしたように口を噤んで、レンとヴェロナはおそるおそるといった呈で声の方に視線を流す。
 磨かれたガラス扉の向こう、ディアナは皮肉っぽい笑みを浮かべていた。その後ろに居る男は、先日ディアナの館に突然やってきたディアナの叔父――リュンデル・グリンセスだろうか。苦虫を10匹まとめて噛み潰したような、紳士にあるまじき表情で三人を睨んでいる。


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