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 レンとアリアは慌てて室内に駆け込み、ヴェロナはその境で深々と腰を折った。
「申し訳ありません。私がおふたかたをお誘い致しました」
 ぎよっとしてアリアはヴェロナを見遣る。弁解の欠片もない潔い言葉は確かに真実ではあるが、それはほんのさわりの部分であるに過ぎない。誘いに乗ったのは、アリアたちの判断である。
 だがこの場合、アリアとレンは客の扱い、歓待の方法に問題があったと罰せられるのはヴェロナひとりとなってしまう。慌てて、アリアとレンはヴェロナに倣い深く頭を下げた。
「ディアナ様、ヴェロナどのは私たちを気遣って下さいました。職務を忘れたのは私たちの方にございます。ヴェロナどのにはお咎めなく……」
「ふむ、判っておるようだな」
 あっさりと認めて、ディアナはにやりと口の端を曲げた。
「では、主人として罰を与えぬわけにはいくまい。お前たち、ここから歩いて戻るように」
「えーっ!!?」
 異口同音に叫んだふたりに、ディアナはじとりとした視線を向ける。
「……不敬罪を適用してもよいのだぞ」
「アリガタク、ハイメイイタシマス」
「よろしい」
 第一区画の西寄りに建てられているこのグリンセス領主館からディアナの館まで、軽く見積もって三、四キロメートル。遠いと見るか近いと見るか、非常に微妙な距離であるが、面倒なことには変わりない。街に所用で出かけるときは目的に応じた軽装ででかけるものだが、この日は領主館の訪問、それなりに見栄えの良い、悪く言えば見かけだけで動きにくい服装である。ひとめで王宮の侍女と判ってしまう以上、往来で着崩すことも大股で闊歩することも――世間体の上で避けねばならないとくれば、愚痴の一つも言いたくなるというものだ。
 ひとり、満足気に笑い、ディアナは後ろを振り返った。
「叔父上、それではわたくしは戻らせていただきます」
「わざわざお越しいただき、感謝いたします」
 先日とは打って変わった上機嫌。「話し合い」の内容を一刻も早く聞いてみたい衝動に駆られたアリアは、ようやく罰の本質に気付いて唇を尖らせた。侍女にあるまじき百面相だが、長年の癖はそうそう抜けないものである。
「ああ、そうだな」
 おもむろに頷いて、ディアナはヴェロナに向き直る。
「わたくしの家の者は、ここら一帯の地理には慣れておらんのだ。お前への罰とは言わんが、よければ中央の通りまでこやつらを案内してやって欲しい」
 叔父――リュンデル・グリンセスはぎよっとして目を剥いた。代わりに喜色を浮かべたのはレンである。
 言われた当人、ヴェロナはいたって落ち着いた様子で、優雅に微笑みを浮かべて一礼した。
「かしこまりました」 
「うむ。よろしく頼む」
「お、お待ち下さい!」
 慌てた声に、四つの視線が糸を引く。
「この者は我が屋敷の使用人。処罰はこちらで致します」
「叔父上の耳は機能しておられるか」
 呆れたように、ディアナは肩を竦める。
「『罰とは言わん』そう申したであろ。第一、いつ戻るか判らぬ主人を待つ部下を、丁寧にもてなしてくれただけでしょう。感謝こそすれ、咎める要素などありません。わたくしは調子に乗った部下を戒めただけ。されど不必要に虐げる気もありません故、道案内を頼んだのです」
「殿下。部下や使用人は厳しく育てるべきですぞ」
 忠告めいた、その実自分の考えを主張しているだけの言葉に、アリアは俯いたまま口端を曲げた。厳格な指導と過剰な刑罰は似て非なるもの。その境界の定まらぬ男の、なんと狭量なことか。
 アリアが薫陶を受けたその主ディアナは、さすがにはっきりとした嫌悪は示さなかった。代わりに、冷めた平坦な口調で、義務のように言葉を紡ぐ。
「そうですか。ではどのような罰を与えるおつもりですか?」
「使用人は主人が用を終えるまで、壁の如く静かに立ちつくして待つのが原則。それをよく理解せず、過剰な接待と誘惑を行い、果てには殿下にご不快を与え申しました。故に、当家の材を不必要に消費した罰として夕食を抜き、今夜一晩、立つことに慣れる訓練をさせる所存です」
 さすがに、ディアナは眉を顰めた。アリアとレンは顔を見合わせたが、処罰対象であるヴェロナは大した反応もなく白けた表情で主を見ている。
「先ほどから何度も、わたくしは不快など感じておらぬ、と言っているでしょう」
「殿下は寛大な方でいらっしゃる。しかし、皆が皆そうとは限りませぬ。故に、どなたにも失礼がないようにしつけるのが館の主としての勤めにございます」
「口上は立派で結構。しかし、行き過ぎは要らぬ反感を買うもの」
 ディアナは正面から叔父を見つめて、本当の忠告を口にした。
「わたくしにこちらの家での教育に口を出す権利はありませんので、叔父上の思うようになさるがよろしいでしょう。ただ、働く者もまた人間であることをお忘れなく」
 そうして、ヴェロナにちらりと視線を送る。
「とりあえず、わたくしからはお前に礼を言っておこう。侍女どもも名残惜しそうにしている。仲良くしてやってくれ」
 対応に迷ったのだろうか。数秒の間を空けて、ヴェロナは儀礼的に完璧な礼をディアナに返した。否とも応ともとれぬ、意図の読めない所作はある意味、この場では最も正しいものなのだろう。
 リュンデル・グリンセスは苦々しげな顔をしている。
 アリアから見た彼の第一印象は、「気弱な金持ち坊ちゃんの成れ果て」であった。陰で暗躍しようと目論むも悪者になりきれない、そういった権力に対する執着と弱さをもった凡庸な男に見えたのだが、どうやら些かの修正が必要であるらしい。単なる道化と見るには、根のない傲慢さ、或いは矮小な特権意識の落とす闇が深いようである。
 ディアナは対応を間違った、とアリアは思う。下手な悪感情を刺激しないのを第一に置くのであれば、ヴェロナは犠牲にすべきであった。他家の事には口出しせず、自分に影響が及ばない範囲ではリュンデルの好きにさせておく、そうして反目を避けることが相手の警戒心を下げることに繋がるのだ。
 無論それは、ディアナ本人にも判っていることだろう。だが大人びてはいてもディアナはまだ十九歳。権力とは縁遠い位置に居る人間を目の前で見捨てる事は、感情的に不可能だったのか。人としては褒められた青さではあるが、権謀術数渦巻く環境にあってはそれがそのまま弱さとなる。
 だが、その弱さは忘れて欲しくない、とアリアは思う。忘れず、それを覆える強かさを持って欲しいと。
「殿下」
 濃密な沈黙に合わせるように、アリアは努めて冷静に呼びかけた。
「夕方より、語学の学習がございます。キャンセルなさらないのであれば、そろそろ帰途に向かわれた方がよいかと思われますが」
「ああ、そうであったな」
 気を取り直したように表情を和らげ、ディアナは叔父に向き直り礼を取った。
「叔父上、先ほどはわきまえぬ発言、失礼しました。若輩者故、ご容赦いただきたい」
「ああ、いえ、殿下。下の者にも気配りなさる懐の深さ、感銘を受けましたぞ」
 リュンデルはディアナにとって、後見の一族とはいえ厳密に言えば臣下の身。王族に頭を下げられては、さすがに文句も飲み込まざるを得ないだろう。殊勝な言葉には多少の優越感を覚えたか、リュンデルは人の良さそうな顔で微笑んだ。
「殿下のお心に免じて、この者には夕食を抜く罰で収めておきましょう」
「かたじけない。わたくしも、叔父上に倣い、部下の躾というものを改めて考えたいと思います」
 完全な社交辞令、もしくは当てこすり。胃に重たいものを感じて、アリアは気付かれないようにため息を吐いた。アリアたちが控えの室で待っている間、このような腹の探り合いが延々続けられているのかと、考えるだけで目眩すら覚える。ディアナの胃腸は鋼鉄で出来ているのかもしれない、とアリアは主人に妙な尊敬の念を覚えた。
「表には既に馬車を用意してあります。名残惜しくはありますが、勉学とあれば引き留めるわけにもまいりませんな」
 幸いにも、長々と薄ら寒い遣り取りを繰り返す気はなかったらしい。リュンデルは扉の前で控えていた使用人に顔を向けた。
「それでは殿下、本日は貴重な時間を割いていただき、ありがとうございました」
「叔父上方には日頃より目をかけていただき、感謝の念に堪えません。わたくしの手に足りることであれば、またお話を伺いに参ります」
 表面上、完璧に麗しい笑顔で、ディアナは叔父に謝辞を述べた。そうして、アリアとレンを促し、踵を返す。
 恭しく礼をしたグリンセス領主館の使用人が、ディアナの歩みに合わせて扉を開け、振り返ることなくディアナは室を後にした。アリアは僅かに迷いながらも、結局視線を合わせずに深々と礼をして主人の後に続く。ヴェロナに謝りたくもあったが、リュンデルが居る以上、余計な詮索の元は作らない方が賢明だと考えたのだ。――いずれまた、謝る機会もあるだろう。
 

 華麗な装飾の扉が閉まると同時に、リュンデルは深々とため息を吐き出した。
「……あの母親にしてこの娘あり、か……。……小娘が」
 忌々しげに歪められた顔。
 その目には、暗い炎がくすぶっていた。

 *

 一方、立て続けに起こる凶事に、王宮内は混乱を来していた。物陰では陰鬱な噂が飛び交い、執政区にはため息が充満している。
 マエント国境の関からもたらされた情報は、フェルハーンの帰城を待たずに王都内に広まっていた。場末では曲がりくねった尾ひれがついてかなり真偽怪しいものに変質しているものの、大筋として戦争を匂わせる不吉なものであることには変わりない。マエントか内部勢力の仕業か、いずれにしても現政権の横っ面を引っ叩いた暴挙の行く先が、話し合いによる静かな解決に導かれる可能性など、カンマ以下の確率もないだろう。
 年月だけは経た、座り心地の悪い硬い椅子に深く腰をかけ、フェルハーンは静かにため息を吐いた。室内全体に漂う雰囲気をそのまま表情にしたような面々を、眇めた目で一瞥する。
「吊し上げですな」
 背後からの声に苦笑したが、咎めるつもりはない。フェルハーン自身、そう感じていたからだ。
 シクス騎士団副団長のひとり、ヨゼル・バグスはそんな団長を見てさもあらん、とばかりに首を横に振った。普段あまり余計な感想を漏らしたりしない人物であるが、さすがにこの雰囲気には耐えかねたようである。一般市民からのたたき上げでここまで出世した人物には、こういった場に慣れろという方が無理なのだろう。
 やたら広い会議室は現在、執政区の各部門の代表、領主代理人、四つの属国からの大使、全騎士団の代表者、そしてそれらの護衛、合わせて百人ほどが集まっている。緊急会議が招集されたのだ。
 会議の内容は無論、ルセンラーク村の消失から始まる一連の事件について、である。
「まだまだ終わりそうにもないな。ヨゼル、アッシュ、君たちは適当に交代で休憩してくれて構わないよ」


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