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 石畳を進む車輪の鈍い音に、フェルハーンは弾かれたように振り向いた。表情を取り繕う暇もない。外部の音を気にとめなくなるほど話に集中してしまったことを恥じ、あからさまに安堵した様子のヨゼルに気まずさを覚える。
 近づく馬車からちらりと覗いた顔を認めて、フェルハーンは短く息を吐いた。
「往来で大声をあげるものではないよ、ディアナ」
「通りがよいだけで、音量自体はさほど大きくありませぬよ」
 三人の間に漂う微妙な空気に気付かぬ訳ではあるまいが、ディアナは殊更に艶やかな笑みで男達を見回した。
「車の上から失礼する。わたくしはディアナ・グリンセス・クイナケルス。そちらはシクス副騎士団長のヨゼル・バグス殿とお見受けするが、相違ないか?」
 まさか、自分に声が掛かるとは思ってもみなかったのだろう。ヨゼルは弾かれたように顔を上げ、思い出したようにぎこちなく礼を取った。
「殿下にはお初にお目に掛かります。シクス騎士団副団長、ヨゼル・バグスと申します」
「ヨゼル殿の話は義兄上よりよく聞いている。騎士団に無くてはならない方だとか。わたくしが言うのもおかしな話かも知れないが、今後も義兄上を宜しく頼みます」
「はい。全力を尽くします」
「感謝する」
 頷いて、しかしディアナは形良い眉を顰めた。
「頭を上げられよ。公式の場でもあるまいに、子供ほどの年齢の小娘にいちいち形式張る必要はない。わたくしより王位継承権の高い義兄上にはそのようなこと、せぬだろう」
 フェルハーンはディアナの言葉を受けて、皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。
「わたくしの口調が尊大なのは勘弁して欲しい。癖でな、治らんのだ」
 ヨゼルは困惑に目を泳がせる。その挙動不審な様を見て、フェルハーンは仕方ないというように肩を竦めた。ディアナの態度は気さくと言えば聞こえは良いが、キナケスで一般的とされるものからは明らかに逸脱している。これでは、会う者が一様に混乱するだろう。
「ディアナ、あんまり無茶を言わないように。普通の姫は、臣下の遜った態度を見ないと満足しないものだよ」
「どこの莫迦ですか、それは」
「どこって、結構どこにでもいると思うけどな」
 ぼやき、フェルハーンは後ろを振り返った。
「臣下の反応としては、まぁ、これは例外」
 儀礼的に頭を下げただけで、それからは何の反応も示さずただ立ちつくしていたアッシュを小突く。胡乱気に団長を見たアッシュは、しかし他には何のリアクションも示さず、義務のように挨拶を口にした。
「殿下には初めてお目に掛かります。アッシュ・フェイツ、シクス騎士団で中隊長を務めております」
 語先後礼の最敬礼。教書に載せたいほどの完璧な挨拶だったが、素っ気なさだけはどうしようもない。アッシュに他意はないだろうが、後の会話を拒絶したい場合の手本としては、これ以上のものはないだろう。フェルハーンとヨゼルは示し合わせたように同時に天を仰いだ。
 奇妙な沈黙の中、ディアナは面食らったように何度か瞬いた。
「……義兄上も面白い人物を護衛に付けますな」
「背後霊じゃないんだから、もっと愛想良くとは言ってるんだけどね」
「ふむ……」
 頷きかけて、ディアナはふと思い出したように顔を上げた。
「ん? ……もしやお主、魔法院に出入りしているか?」
「時々、であれば」
「この間、わたくしの侍女に会ったか?」
 この問いに驚いたのはフェルハーンの方だった。どういうことかと――目を輝かせてアッシュを見遣る。ヨゼルも興味深そうに部下の方を向いた。なにせ私生活のにおいのしない男である。女と会っていたなどという話は、数多居る噂好きの口の端にすら乗ったことがないだろう。
 三対の視線を受けて、だがアッシュは煩わしそうに目を眇めた。
「出くわしただけです」
「化け物じゃあるまいし、出会ったの間違いだろう」
「どちらも同じです。……それで、ディアナ殿下。そのことが何か?」
「いや。とても強い魔法使いだと言っていたのでな。よければまた手合わせ願いたいと思っていたのだ」
「お断りします」
 短い否定の言葉に、ディアナはしばし間を空けて苦笑した。なんともコミュニケーションスキルの低い男である。フェルハーンは口元を引きつらせた。
 アッシュの洞察力は高い。多くの人は、手合わせを頼まれた時点でまず「誰と」と問い返す。ディアナは見るからに気の強そうな女性ではあるが、戦闘に縁のある体型ではないからだ。そうして、ディアナ自身が相手と知った後には、「冗談」或いは「興味本位」と捉えるだろう。フェルハーンにしても、ディアナが高位の魔法使いであり、戦闘魔法に長けているという前情報がなければ、そう考えた確率が高い。
 そのあたりの一般的な認識を排除して、あくまで態度や口調、表情からディアナ自身冷静に手合わせを申し込んでいると判断したことは賞賛に値する。だが、思考過程を完全にすっ飛ばして結論だけいきなり口に出すのは如何なものか。
「お前ね、もっと言い方あるだろう」
「美辞麗句の装飾を連ねろと?」
「そうじゃなくて。もう、全く困った男だな」
 やれやれ、といった風に、フェルハーンは頭を左右に振った。
「まぁ、ディアナ、こいつの口はいつもこんななんだ。悪気はないから勘弁してやってくれ。ついでに言えば、いくら君でも、アッシュと手合わせは止めた方がいいと思うよ。破壊力が尋常じゃないから」
 同意を求めるようにヨゼルを見ると、彼もまた大きく頷いていた。ディアナは男達を見て残念そうに、だが楽しげに口の端を曲げた。
「そうですか。では仕方ありませんな」
「悪いね」
「代わりに、ひとつ頼まれてはくれませんか?」
「ん?」
 フェルハーンが首を傾げると、ディアナは悪戯っぽい笑みを閃かせて手招きをした。そうして、近づいたフェルハーンの耳元に顔を寄せる。
 内緒話のように囁かれた言葉に、フェルハーンは一度目を見開いた。
「よろしいか?」
 ディアナはにやりと笑う。確認ではなく念押しに近い。フェルハーンもまた、そっくり同じ笑みを浮かべた。
「他ならぬ、ディアナの頼みだからね」
 このとき、顔を寄せ合っていたにも関わらず通りがかる人の誤解を全く招かなかったのは、ふたりの表情が悪巧みに彩られていたからに他ならないだろう。
 フェルハーンがアッシュの名を呼んだとき、アッシュはあからさまに眉間に皺を寄せた。ヨゼルはほっとしたように胃の腑を押さえている。
「アッシュに頼みたいことがあるんだけど」
「……拒否権は?」
「ないよ」
 にこやかに切り捨て、フェルハーンは「団長命令」を言い渡す。
 聞き終えてアッシュは、盛大なため息を吐いた。

 *

 傾きかけた陽に焦りが生じる頃、アリアは前方から向かい来る人物に眉根を寄せた。逆光だが、顔が判らない程ではない。目を凝らし、確かに彼が知った人物であることを確認し、アリアはほっと胸をなで下ろした。
「アッシュさん!」
 隣で目を見開いたレンを置いて、両手を振りながら小走りに駆け寄る。相変わらず少し怒ったような表情のまま、アッシュはちらりと視線を向けてきた。不機嫌だろうが何も考えて無かろうが、この際アリアには関係がない。
「丁度良かったです。誰も通りかからないから、誰か来ないかなーって思ってたんです」
 仮にも王都の第一区画、六領主の館へ出入りする人影は少ない。それでも普通であれば下働きの者が仕事に使いにと歩き回るものだが、アリアとレンが迷い込んだのは通常では使用されない道であったようである。何度か声すらかけ辛い雰囲気の覆面馬車が通り過ぎただけで、他には誰も見かけなかった。
 アッシュとは数度話しただけの知り合いだが、この際人を選ぶ余地などない。
「済みませんが、帰る道、教えてもらえませんか?」
「そのつもりだ。来い」
「え?」
 さすがに案内まで頼むつもりはなかったアリアだが、それ以上にアッシュが躊躇いもなく頷いたことに驚いた。
「どういうことですか?」
「頼まれた」
 短い言葉にアリアが眉を顰めると、アッシュは面白くもなさそうに呟いた。
「殿下が団長に頼んだ。団長は俺に命令した。それだけだ」
「今日は、フェルハーン殿下にお会いする予定は無かったはずですけど……」
「偶然会っただけだ」
 そこで一旦口を閉じたアッシュは、しばらくして眉間に皺を寄せた。
「殿下に妙な話をするんじゃない」
「はい?」
「あんた、前に俺と出くわしたことを、何でいちいち殿下に報告するんだ?」
 アリアはぎよっとして後退った。30センチ近く上から渋面で睨まれるとかなり怖い。言われた内容に覚えがあるとなれば尚更である。だが、怒られるほどのことだろうかとアリアは首を傾げた。
「報告って言うか、……魔法院はどうだったと聞かれたので、初めて所員以外の人に会いました、と言っただけですが」
 本当は、魔法鉱石を使ってみての感想を問われたことから発展した話であったが、そこまで詳しく述べる必要はないだろう。
「アッシュさんに教えてもらったことを言うときに、名前出したくらいですが、何か問題でも……?」
「団長が妙な勘ぐりをする。とにかく、今後一切俺の話は出すな」
「はぁ……」
 フェルハーンの勘ぐりとやらがどういった代物なのか、アリアには想像も付かないが、とりあえずアッシュに逆らう理由もない。これ以上根掘り葉掘り聞いて怒らせることも面倒だったため、アリアは素直に頷いておいた。
「行くぞ」
 短く言い捨ててアッシュが背を向けると、それまで黙っていたレンが肘でアリアを突いてきた。表現しづらい表情で、頬を掻いている。
「あれ、さっき言ってた人?」
 潜められた声に、アリアは一定の距離を置いてアッシュの後を追う。
「無愛想だねー」
「……聞こえるよ」
「苦手だなー、ああいうタイプ」


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