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 エレンハーツ、とアリアは口の中で繰り返した。先王の、病弱な第三王女。現在王位継承権第一位だが、事実がそれに伴うことはまずないとされている薄幸の王妹である。静養の為にずっと離宮に住んでいるという話だったが、何故このようなきな臭い時期に、敢えて王都にやってくるのか。
 疑問が通じたわけでもあるまいが、ヒュブラは僅かに目を伏せて、痛ましそうに呟いた。
「殿下のお亡くなりになった母君は、マエント出身だからな……」
「マエント絡みで揉めてますからねー……。どのくらい滞在されるんでしたっけ?」
「情勢を見つつ、という所でしょうが、お体の事を考えると、あまり長くは無理でしょう」
 言って、ヒュブラはアッシュに目を向ける。
「あまり暇はないかも知れんが、手合わせでもしようじゃないか」
「……お手柔らかにお願いします」
 アッシュの首肯に合わせたように、ヒュブラは軽く微笑んだ。そうして、ゲイルに向き直る。ゲイルは考えるように宙を見上げたが、しばらくして緩く首を横に振った。
 ヒュブラは、短くため息を吐いて肩を竦めた。
「もう少し話したいところだが、残念なことに時間がない。またな」
「はい」
「お嬢さん方も、またお目にかかるのを楽しみにしていますよ」
「はい!」
 やや上擦った声で、レンは勢いよく頷いた。アリアは社交辞令の域を出ない範囲で丁寧に礼をする。
「それではまたー」
 気の抜けるようなゲイルの挨拶を合図に、ヒュブラは踵を返す。そのままふたりを見送り、姿が殆ど見えなくなったところで、アリアは短く魔法式を唱えた。
「解除魔法か」
 耳聡く聞きつけて、アッシュが呟いた。
 解除魔法は、自分の身にかけられた魔法を解きたい時に使用する魔法である。低レベルのものであれば式は短く、魔力も殆ど消費しない。無論その場合、相手の力が自分を上回るときには成功しないが、某か魔法がかけられているということには気付くことが出来る。
 アリアがこの魔法を使うのは、自分自身を毒する魔法を警戒しての事ではない。アリアを媒介して盗聴する魔法のような、間接的にディアナを害する可能性のある魔法を駆除、または発見する為である。アリアにしてみれば癖のようなものだと言って差し支えない。
「面白い反応をする奴だな」
「面白い……ですか?」
「ヒュブラに初めて会った奴は、大概ああだ」
 顎をしゃくった先、背を向けて佇んでいるのは勿論レンである。アリアはそれしかないとばかりに苦笑した。
「素敵な方だと思っているのは、多分同じですけどね」
 整った顔立ち、耳によい声、たるんだ印象のない姿勢の良い美丈夫と、落ち着いた大人の魅力溢れるヒュブラだったが、アリアにしてみればそこに呆けるというほどでもない。好みの問題という側面もあるが、それ以上に違う方面で気になることが多かった。
 夕方、人の殆ど使用しない――誰が乗っているとも判らない覆面馬車が通るような道を、ザッツヘルグ領主館とは逆方面に歩いている、それだけで怪しむには充分である。無論、彼らがどんな理由で妙な行動を取っていようと、それがアリアに直接影響を及ぼしてくることはないだろう。だが一度持った警戒心は、魅力的な笑顔にも疑惑という紗をかけてしまった。
「エレンハーツ殿下の付き添いとして来られたのが初対面、という状況だったら、私もぼんやりしたかもしれませんけど」
 アリアの呟きに、アッシュは幾分驚いた顔をして、そして口元を歪めた。
「なんですか、その反応」
「いや、感心してる」
 どうにも、アッシュの表情は判りにくい。
「こんな道で、ザッツヘルグの人間を連れて歩いてるのが変だ、と言うんだろ」
 あっさりと言われた言葉に、アリアは反射的に頷いた。皆の知るところの人物相関図さえ把握していれば、この程度の疑問は浮かんで当然といったところだろう。
 アリアは、恐る恐るアッシュに問いかけた。
「……アッシュさんて、ヒュブラさんと親しいんですよね? 妙な疑い持つなとか、言わないんですか?」
「かつての上官というだけで、特に親しかったわけじゃない。昔、いろいろ迷惑をかけたことがある。それだけだ」
 言って、アッシュは僅かに眼を細めた。
「知り合いだろうと何だろうと、おかしな行動まで好意的に判断すべきじゃない。疑うことは悪くない。だがそれは確信に変わるまで、胸の内にしまっておいたほうがいいというだけだ」
 アッシュは時々説教臭いことを口にする。そう思いつつ笑みを浮かべると、気付いてか、彼ははっきりと眉間に皺を寄せた。
 誤魔化そうとするアリアを軽く小突いて、歩くように促す。返事を待たず踵を返したアッシュを見て、アリアは慌ててレンの袖を引いた。
「行くよ。夕食、間に合わなくなるよ」
「……余韻にくらい、浸らせてよ」
「あのね……」
「フェルハーン殿下も素敵だけど、大人の男の魅力っていいわー……」
「……帰ってからやって」
 しぶしぶ歩き始めたレンを置いて、アリアはアッシュの元に駆け寄った。彼は、少し進んだところで足を止めていた。
「ごめんなさい」
 上司に頼まれただけの道案内である。アッシュとしてはさっさと済ませてしまいたい用事だろう。歩く速度だけでも充分迷惑をかけているのだ、これ以上彼を煩わせるのはさすがに気が引ける。
 ちらりと視線を向けてきたのを許可と取り、アリアは話の続きを口にした。
「アッシュさんは、何か知ってるんですか? その、ゲイルさんとヒュブラさんが歩いていた理由とか」
「いや。そもそもヒュブラが来ていると知ったのも今だ」
「そうですか……。でも、エレンハーツ殿下がお越しになるくらいだったら、警備とかで忙しくならないんですか?」
「数日したら、そうなるだろう」
 先ほどあったヒュブラは、さしずめ露払いといったところか。エレンハーツが来る日のために、方々で根回しをしているのかもしれない。
 様々な可能性に思いを巡らせたアリアに、アッシュが予想外の言葉を投げかけた。
「で、俺のことは疑わないのか?」
「え?」
「俺が本当に団長に頼まれてあんた達を迎えに来たのか」
 言われて、はたとアリアは動きを止めた。確かに迎えに来るまでの経緯は、アッシュの証言だけに依っている。何らかの意図があってアッシュが道案内と称して近づいてきた可能性は否定できない。
 しかしアリアは、そんな彼を全く疑いもせずに信じた。ヒュブラやゲイルに対するアリアの考えを聞いた後で、アッシュがふと疑問に思うのも当然である。
「全く、おかしいとは思いませんでしたねぇ……」
 苦笑して、アリアは首を傾げた。
「なんて言うか、アッシュさんって、腹芸から遠そうですし。誘拐目的とかだったとしても、出会い頭に一発殴って気絶させて連れ去るとか、余計な手間掛けなさそうですし、私たちから情報を集めるとかが目的だったとしたら、そもそもなんだか無理っぽいです」
「……」
 微妙な顔で、アッシュはアリアを見返した。それに気づき、アリアは顔を蒼くする。
「あ、褒めてます、褒めてます。私、腹黒い人苦手ですから、はい」
「……」
「裏表なさそうな人って、いいと思いますよ、ホント」
 誰もお前の好みなど聞いてない、そう言いたげなアッシュの目線が痛い。後ろでレンが笑っている。
 気まずい沈黙が数秒横たわった後、アッシュはぼそりと呟いた。
「……単純莫迦で悪かったな」
「ちーがーいーまーす! そんなこと言ってません!」
 アリアの精一杯の否定もむなしく、アッシュは胡乱気に目を細めて背を向けた。
「ちょっ、人の話聞いて下さいってば!」
 アリアにしてみれば、年の近い、貴重な魔法使いの知り合いである。実践的な魔法の使い手としての経験は、研究者たちの比にならないだろう。機嫌を損ねられては、たまったものではない。
 
 それから中央の通りにたどり着くまでの間、アリアはひとりで世間話を繰り返す羽目になった。


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