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 (八)

 鬱々とした空気の流れる王都にも、季節は眩しくも痛いほどの暑さを連れて巡り来る。日に日に、陽の昇る時間は早まりつつあった。
 東の地平線を掠めていた陽光が白く変わる頃、アリアたちは一日の活動を開始する。館の主たるディアナも既に目覚めているが、この時間に敢えて部屋から出てくることはない。高所得者階級、もしくは権力者層の父母をもつ令嬢の大多数を見れば、それは賞賛に値すべき規則正しさだったが、館の主人が活動を始めればそのぶん、周囲を不必要に刺激してしまうことを理解しているのだろう。
 手桶の水を庭に撒き、アリアは冷えた手を軽く合わせながら空を仰いだ。巨大な湖を有する王都は、あからさまに乾燥した印象こそないものの、それでも内陸故に朝晩は驚くほど冷え込んでいる。昼間の、嘆くほどの暑さが嘘であるかのように、吹き抜ける風は素肌に心地よい。深く息を吸い込めば、濃い緑の匂いが胸に満ちる。
 騒々しい一日の始まる、直前のひとときの余韻。それがこの日、突然何の前触れもなく、虚しくもけたたましく破られた。
「アリアーっ!」
 悲鳴と怒声と呼名を混ぜ合わせて混乱で割ったような、なんとも表現しがたい声が屋敷を切り裂いた。興奮に上擦った代物であったから、ディアナの休む室には響いていないだろう。だが、裏口付近で働いていた使用人は皆驚いたように、一斉に声のした方に顔を向ける。心情的には完全に無視したい類の――強いて言えば嫌な予感を誘う調子外れの音程に、アリアは思わず開けかけた扉を閉め戻してしまった。
「ちょ、アリアっ、来てよ、お客様!」
 別のルートから自分の室に戻ろうと踵を返したその背中に、さすがに無視できない文句が突き刺さった。声の主が同僚のレンだということは考えるまでもなく判っていたことだが、彼女の興奮する理由はというと、考えたくもないというのが正直なところである。
 渋々、アリアは再び扉に手を掛けた。外に比べれば暗い館内の、不必要に長い廊下の先に、大きく手を振る人物を認めて苦笑する。その横に立つ背の高い人物は、幾つかの予想のうちのひとりだった。
「朝早く、予約もなしに申し訳ない」
 落ち着いた、深みのある低い声。控えめな微笑と優雅な辞儀には、さすがにアリアも見惚れて顔を熱くする。その為に一泊動作が遅れ、彼が完全に頭を上げてから慌てて礼を返すはめになった。
「わざわざ、お越しいただけるとは……その、こちらの者が」
 言葉を切り、興奮のあまり頬を紅潮させているレンを半眼で睨みやる。
「……こちらの者がお客様に対し、ろくな応対もせず、申し訳の言葉もありません」
「いや、個人的に伺ったまで。畏まらないで欲しいと私が頼んだのです」
 その男――ヒュブラ・ロスは遠くに響く鐘の音を僅かに気にしながら、早速のように用件を口にした。
「フェルハーン殿下から話を聞いたのだが、その後はどうだろうか?」
 隣でレンが目を剥いて凝視してきたのを黙殺し、アリアは例の品――ザッツヘルグからの奇妙な魔法付きの贈り物が保管されている室に案内した。ヒュブラを見て、何者かと奇妙な顔をする家令に説明し、内密に事を進める。はっきりとした実害がない以上、ディアナを不必要に煩わせることはしたくなかった。
 フェルハーンには言えなかったことだが、実質、謎の魔法は完全に無効化されている。アリアが品に籠められた僅かな魔力を、根本から吸い取ってしまっていたからだ。魔法式らしき文字が残っていようと、原料となる魔力がなくては勿論、ただの落書きにしかなり得ない。或いは、送られた品が魔法鉱石で作られているものなら、魔力の再充填ということもあり得るが、自然放置の状態で勝手に魔力を溜め込むには相応の年月がかかるため、問題視するに値しないだろう。
 アリアは、数点の贈り物をヒュブラの前のテーブルに並べた。見せるために、敢えて魔力をそのまま残しておいた品である。
「確かに、魔法式のようだが……」
「はい。しかし、とてもまともな式とは思えませんが」
 硝子細工の美しいランプを手に取り、ヒュブラは表に裏にと四方八方から念入りに眺めやった。その真剣なまなざしに、何故か当たり前のように付いてきたレンがため息を吐く。息に色があるとすれば、キラキラしいピンク色だったこと間違いない。
 やがて、置かれた品全てを検分し終えたヒュブラは、考え込むように眉根を寄せて俯いた。困惑と苛立ちをない交ぜたような険しい表情に、アリアは一歩後退る。百歩譲っても、楽観的な回答は得られないだろうと額に汗が滲む。
 愁眉を開かぬまま、ヒュブラは首を横に振った。
「ゼフィル式魔法、かもしれない」
「ゼフィル式……?」
 聞き覚えのない言葉に、アリアは首を傾げてヒュブラを仰ぎ見た。魔法式の公式の発見者の名前を取って、「誰それ公式」と呼ばれることはあっても、魔法そのものは一種類だと記憶している。魔法院に出入りして少なくともひと月以上経つが、ギルフォードを含め誰一人として、「ゼフィル式」魔法とやらの存在を口にしたことはない。当然、数多ある文献や書籍にも、そう言った記述は一切見られなかった。
 アリアの視線を受けて、ヒュブラは困ったように片方の眉を下げた。はっきりと躊躇いを見せつつ、しかし結局、彼はため息と共に口を開く。
「厳密には確立された魔法ではないんだよ。今主流となっている魔法の発動方法とは別に、古代ではどうも、対立するような使い方の魔法が存在したらしく、それがゼフィル式、と呼ばれている」
「古い遺跡にそのような記述があったから、そのようなものの存在だけ判っているが、内容は不明、というものですか?」
「いや、名前だけというほど未知のものではない。キナケス北方の古い墓から発見された数冊の書物に、解読しがたい魔法式が書かれたいたという。しかし、現状を見れば当然ながら、現在それらは行方不明、内容も広まらぬままだから、何故昔存在した魔法が今は完全に忘れられているのかなども判らない」
「では、何故これがそれだと?」
「裏から見て、更に上下を逆にすれば、より、今使われている魔法に似て見えるだろう」
 目を見開いてアリアは、ヒュブラの見ていたランプを手にとって逆さに向けた。そうして、下――ランプの口から透かすようにのぞき込む。見にくい上に歪みがあるため、どうにも判りにくいが確かに、「滅茶苦茶な魔法式の文字に似たもの」程度の代物が「記述の間違った魔法式」として認識できるまでに整った。無論だからといって、魔法が作動するに正しい文になったかといえば、首を横に振らざるを得ない。
 だがそれが、何故ゼフィル式という魔法だと言えるのか。問いかけるようにアリアは再びヒュブラに向き直った。
「私も詳しくは知らない。だが、ゼフィル式の魔法式を目にしたことがある。それは簡単に言えば、今使われている魔法とは全く逆の流れの魔法という印象だった。意味の判らない文字の羅列、だが、どこか知っている文章を後ろから読んだような式でね。普通の魔法式の書かれた紙を上下逆にして、更に裏返して透かして見たときのような文字に似てる、と思った記憶がある」
「どういう魔法なんですか、それは……」
「対魔法使いの魔法、なのだろうと思う。即ち、魔法の流れを狂わせる類のもの。一部では発見自体が嘘だとする説もあったが、それは否定された。数年前、あるひとつの魔法が使用されたからだ」
 そのひとつに思い当たる名称を思い浮かべ、アリアは眉根を寄せたままヒュブラを凝視した。
「『沈黙の魔法』と呼ばれている。――その顔は、知っているようだね」
「はい、ギルフォードさんからお伺いしました」
「魔法院の、彼か」
 ふと、目を細めてヒュブラは窓の外に目を遣った。何とも読み取れない表情は、懐かしんでいるとも悼んでいるとも見える。彼もまたギルフォードの妹の事を知っていたのかもしれないと、アリアは目を伏せて俯いた。
 陽光差す眩しい朝には如何にも不似合いな沈黙が落ちる。
 やがて、気まずさと疎外感をない交ぜたような表情で、それまで黙っていたレンが口を開いた。
「その、それで、ディアナ様に贈られた物はやっぱり、拙い魔法がかかってるってことですか?」
 ある意味根本的な問題、解決しなければならない事そのものである。アリアとヒュブラは揃ってレンの顔を見つめ、そうしてそれぞれの表情で苦笑いを浮かべた。
「――話が、逸れましたね」
 照れたように笑い、ヒュブラはテーブルの上の品々に目を落とす。
「これは普通の魔法ではない、だが、ただの出来損ないの落書きでもない、とすれば見知らぬ魔法、つまりゼフィル式と思ったわけだが、先ほど話したとおり、確定はできないのです。申し訳ないが、これがどういった種類でどういった作用を及ぼすものなのかもわからない」
 フェルハーンが薦めるほどの人物にも判らないのであれば、アリアが独自で調べたところで回答にたどり着く可能性は万に一つもないだろう。
「ただし、全く幻の魔法というわけでもないから、可能性として除外するのは危険でしょう」
「やはり、壊してしまうのが一番いいんでしょうか」
「人目に触れない場所に、屋敷のもっとも隅にでもまとめておけば大丈夫だと思うのだが……跡形もなく壊してしまうのが一番でしょう。ただ、ザッツヘルグからの贈り物、というのが気になりますな。やはり、一度相手に問い合わせてみたほうがいい」
「そう、ですか……」
 一方的な贈り物が届く度に、悪態をつきながら義務だけで礼の言葉をしたためるディアナを思い出して、アリアは深いため息を吐いた。ディアナに報告するのも頭の痛い話しだが、その後の展開は想像するにも恐ろしい。ザッツヘルグ側が完全に濡れ衣、もしくは間接的な被害者だった場合でも、事はダルマ式に大きくなっていくだろう。
 こめかみを押さえて唸るアリアに目を落とし、ヒュブラは可笑しそうに笑った。
「難しく考えることはない。厄介でも根本から解決したいのであれば、やはりザッツヘルグに問い合わせる必要があるでしょう。逆に言えば、貴方が管理できるというなら、きちんと処理を施した上で無視を決め込んでも構わないはずだ」
 ヒュブラの言う処理というのは、完全焼灼処分といった、壊す方向のことだろう。だが実際の所アリアにとって、処理方法自体はさほど問題ではなかった。これまでと同じように、アリアがその力で徹底的に魔法式を無力化すれば済むだけの話である。
 何であるのか見当も付かない魔法式らしきもの、が――暫定ではあるが――悪意あるものへと昇格した以上、取り除くことに躊躇わずに済むというものだ。
 ヒュブラの言葉に後押しされたように、アリアはやる気と覚悟を決めた。あとは何事もなかったように過ごすこと、或いはそれが一番敵の動揺を刺激するのかもしれないとすら思い始める。
 正面から向き直り、アリアはヒュブラに深く礼を取った。
「ありがとうございます。少し考えて、慎重に今後の方法を選ぶことにします」
「解決したとは言い難いが……」
「いえ、正直、そもそも何であるかすら判らなくて、それが不気味だったのです。少なくともその、これかもしれないという可能性を教えていただいて、心構えができました」
「そうか? それならいいのだが……」
 ヒュブラ自身がもっとも、腑に落ちないものを感じているのだろう。歯切れ悪く言葉尻を濁したままアリアを見つめていたが、しばらくして彼は仕方ないという様子で肩を竦めた。そうして、再び窓の外へ目を向ける。


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