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「もう少し、詳しく調べたいところだが時間切れのようだ」
「はい。本当にありがとうございました」
 僅かながらも晴れた表情を返すアリアに、ヒュブラはただ苦笑を返した。
「お時間のことでしたら、館の者に車を出させましょうか。他に何もお返しできることが無く、心苦しいのですが……」
「いや、気持ちだけいただいておこう。近くに馬を繋いでいるので、大丈夫です。それに王宮と王族の警護は私の務め、これも仕事の一環なのであなた方が気にすることはない。はっきりした答えを導けなかったことを、謝らねばならぬくらいだ」
 真剣に、どこか悔しげにヒュブラは軽く目を閉じた。
 社交辞令ではなく本気で言っているらしき言葉に、アリアは素直な敬意を示す。多忙な中、背景を見ればディアナという王族のためとはいえ、一介の侍女を呼びつけるでもなくわざわざ訪ねてくれたのだ。それだけでも、感謝の言葉しか浮かばない。
 後ろ髪引かれる様子を見せつつヒュブラは室を後に、正面玄関の前で、見送りに付いてきたアリアとレンに向き直った。
「明日には、ディアナ殿下も王宮に来られるとか。僭越ながら、エレンハーツ殿下をよろしくお願いしますと、お伝え下さい」
「はい。今日はありがとうございました。――お気を付けて」
 印象的な笑顔と共に、ヒュブラは踵を返す。扉に手を掛けて、彼はそのまま光眩しい道へと足早に去っていった。
 その背中が見えなくなるまで見送り、レンは夢うつつといった表情でため息をつく。
「素敵……」
 曖昧に頷いて、アリアはさっさと扉を閉めた。視界を無理矢理遮らない限り、レンがしばらくは動きそうにないとふんでの事である。無論、そのあからさまな意図が気付かれないわけもなく、レンは唇を尖らせてじっとりとアリアを睨んできた。
「ちょっとくらい、いいじゃないのさ」
「良くない。ただでさえ、やるべき仕事が遅れてるでしょ」
「情緒のない女だねー」
「風景と季節を愛でる感性はあるから、いい。それより、そこどいて」
 無感動に睨み返し、アリアはレンにその場を退くように手で払い示した。ひとこと言いたげな顔つきのまま、レンは数歩横にずれる。その脇をくぐり抜けるようにして、アリアは再び、件の贈物を保管していた室内に足を踏み入れた。
「まだ何かやるの?」
 用件は終わったはず、とレンが不思議そうに首を傾げる。その声を背に、アリアはさりげなく手にしたランプから僅かな魔力を吸い上げた。底上げにもならない程度、体調不良を来すほどではない。
 そうして完全に機能を無効化した後で、改めて「ゼフィル式」と疑われる文字を目で追った。
「一応、魔法院にも持って行ってみようと思って」
「ふーん。ねぇ、私も行っていい?」
「……最近、ギルフォードさん、あんまりいないけどね」
「あ、また、今度にするわ」
 現金な答えに、アリアはただ苦笑する。
「昼に行くの? 夕方?」
「夕方にする。夕方ならディアナ様の用事もないし、今日はユマを連れて行かなきゃいけないから、時間制限ないほうがいいし」
「あ、……そうか」
 ユマは、アリアとギルフォードが市場で保護した少女の名前である。レンは僅かに複雑な色を目に浮かべた。
 ディアナに快く迎えられた少女は、現在館に住み込みで働いている下働きの老夫婦の世話を受けている。保護してすぐ、ギルフォードが調べを出した結果、確かに彼女はリーダの村に母親と二人で暮らしていたという確証が得られた。しかし同時に、本来の保護者たる母親が失踪していることも判明した。村人の証言に依れば、娘がいなくなったのを機に、かねてより懇ろだった男について去っていった可能性が高いとのことである。
 今だ遠縁の青年のことを心配している少女に、酷な現実を語ることも出来ず、どうしたものかと考えあぐねていた矢先、ディアナが王宮への召喚されることとなった。ある意味監視対象であるとはいえ、さすがにユマを王宮に連れて行くことは出来ない。単なる保護であるならこのまま老夫婦に世話を頼むこともできたが、アリアたちが彼女の言う青年を捜す約束を負っている以上、容易に接触できない場所に置くことは好ましくないと判断された。――余談ではあるが、青年の居た砦に関する情報は、村人の口からは有効な証言が得られず、未だ詳細は判っていない。
 ギルフォードと話し合った結果、魔法院の所員に事情を話して引き取ってもらえることになったのが数日前。漸く準備が整い、今日アリアが魔法院へ連れて行くこととなった。
「ユマのお兄さん、見つかるといいのにね……」
 実の兄が行方不明だと勘違いしたままのレンが、やるせない様子でため息をこぼす。
 その可能性がゼロに等しいことを知りつつ、アリアは目を細めて頷いた。

 *

 夕刻。ユマが無事魔法使いの夫婦に引き取られるのを見送ってから、アリアは地下へと足を向けた。向かう先は古代に作られたオリジナルの移動陣、普段利用している魔法院内のものが丁度、点検中だったためである。
 暗闇の中、不規則に揺れる魔力の粒子を見つめ、アリアはほう、とため息を吐いた。幻想的な美しさに感嘆する心の奥で、仄暗い嫉妬にも似た感情が渦を巻いている。目を閉じ、無意識に胸に手を当てて、アリアは眉根を寄せた。
 足りない、と感じる。ここのところ本来の仕事、つまりディアナの侍女としての果たすべき役割が多く、思ったように魔力の補充ができていない。魔法院にしても通常より人の出入りが激しく、魔法鉱石から魔力を奪うタイミングがなかなかつかめなかった。
 このまま何の対処もしなければ、もって数日というところか。今は生活に支障なくとも、限界が近くなれば身体症状として顕れてくる。唯一事情を知っているディアナが多忙極めているこの頃、余計な迷惑をかける羽目になることだけは避けたかった。むろん、そうならない為には、早急にどこかで充分な魔力を補充しなければならない。
 思い、目の前の高密度の魔力を見つめれば、自然喉が鳴る。――だが、ここから摂ることはできない。
 基本的に、どんなものからでもアリアは魔力を吸い取ることが出来る。だが、この移動陣のように、王都を巡る魔力の通り道に流れるものを、直接摂ることは困難だった。物に固定されていないぶん、量も力も非常に不安定なのだ。例えて言うなら、一秒ごとに水量も速さも変わる川から、何の道具も使わずに一定の量の水を汲み続けるようなもの。限りなく、不可能に近い。
「……でも、最終手段だろうなー……」
 首を大きく旋回し、骨を鳴らす。項垂れたまま、アリアは自己嫌悪に額を押さえた。
 その耳に、遠い鐘の音を聞く。慌てて、アリアは周囲を見回した。はるか天井の、ステンドグラスからの光はないに等しい。のんびりしている時間はなかったことを思い出し、無理矢理意識を集中させ、移動陣へと足を踏み入れる。
 途端、独特の浮遊感が全身を襲った。さすがに今では慣れたものだが、だからといって快を覚えるものでもない。瞬間的に酔う、というのが正しいだろう。
 いつもどおりに、ディアナの館に最も近い執政区の移動陣を思い浮かべ、定型とも言うべき魔法式を口にする。未だ仕組みの判らないその魔法は瞬時に発動し、アリアは見慣れた場所へ移動する――はず、だった。
「!!?」
 突如、式を唱え終えたアリアの耳に、全身の毛が逆立つような異音がねじ込まれた。耳を塞いでも、脳裏に直接響くように音は拡大していく。声にならない悲鳴を上げ、アリアはその場に蹲った。
 空間が、捩れ、切れる。――引きずられる。何かを求めるような力が、ちぎらんばかりの勢いでアリアを引いた。
 体中を締め付けられるような苦痛がアリアを襲う。反射的に死を予感したのは、あながち間違いではなかったかも知れない。何の対策も取らなければ、それは現実のものになっていただろう。
 咄嗟に、殆ど反射的に、アリアは防御魔法を口にしていた。俗に結界と呼ばれる魔法で、それは瞬時に全身を包み込む。それが不可視の力によって砕かれる度に、アリアは何度も唱え続けた。そうでもしていなければ、気を抜いた瞬間に意識を落としてしまいそうだった、ということもある。
 どれほどの時間、攻防を続けていたのかは判らない。変化が訪れたのは、形容しがたい異音とは別の、妙に澄んだ――硝子の割れる音に近い音を、耳が拾った直後だった。
 唸りが止み、空間がうねる。
 一瞬にも満たない、アリアがその急変に気付く間すらないわずかな時間のうちに、場は一転した。
「っ痛……」
 構える暇もあらば、まともに何かに叩きつけられたアリアは、強い衝撃に顔をしかめた。蹲っていた姿勢が半ば受け身のような体勢であったために、直接の打撲痛以外の被害がなかったのは、この際幸いだったと言えるだろう。状況を鑑みれば、慰め程度のものであったのだが。
 痛む体を押さえつつ、アリアはそろりと身を起こした。打ち付けられたのは湿った石畳の床。泥と苔に、ただでさえ力の入らない手が滑る。未だ目眩の残る頭を宥めつつ、なんとか焦点を合わせた目に映ったのは、棄てられ朽ち果てた、かつては調度品だったもの、だった。勿論、――見知らぬ場所、である。
(どこだろう……、滅茶苦茶に飛ばされたみたいだったけど)
 不揃いの石が塗り固められて、ただ堅牢にのみ重点を置き作られた一室。天井は低く、採光という意味を含めた窓すら存在しない。それでも目が慣れるのを待つまでもなく室内の様子が観察できたのは、弱く燻る松明が周囲を照らしていたからである。魔法が掛けられているのだろう、不思議なほどに、燃えた後の灰も煤も見あたらなかった。
 おそるおそる松明に手を伸ばし、掛け金から外して更に周囲を照らす。壁や隅に、人の手の入った跡はない。だが、床には明らかに、新しく踏み歩いた形跡がある。ただし、その範囲が狭いことから、大人数の出入りはないと推測した。
 黴と腐臭の混じった臭気はあるものの、空気自体は重く淀んではいない。どこかに四六時中開いている出入り口か、それなりに大きな通風口があるのだろう。いずれにせよそう言った場所には鍵の掛かっている可能性が高いが、とりあえず探してみないことには何も始まらない。
 注意深く周囲を見回しながら、アリアは室内を後にした。通路の幅は大人二人がどうにか横に並んで通れる程度、左右の石壁は湿ってぬめりを帯びている。今しがた濡れたという様子ではなく、まして床には雨の漏った水たまりのようなものはない。常に湿度の高い雨の多い地域に飛ばされたか、あるいは水脈を近くに持つ地下なのだろう。
 後者の可能性が高いな、と思いつつ、アリアは天井を照らし見た。巨大な石と石の隙間は苔生し、陰鬱な雰囲気に拍車をかけている。地上にあるとすれば一番上のフロアと見るべきだが、全てが重い素材で、かつ苦しいくらいに密度高く出来ていることを考慮すれば、やはり地下にあると考える方が自然であるように思われた。
「広いな……」
 迷いそうに長い通路は勾配もなく平坦で、時々狭い横道が暗がりの奥に通じているものの、上に昇る階段のようなものは見あたらなかった。某かの目印があるわけでもなし、小部屋が存在するわけでもなし。いったい何のために作られたものだろうかと、不安を締め出すように思案する。


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