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 答えの見つからぬまま自分の足音だけを頼りに歩き続けることしばし、アリアは僅かに広い空間を見つけて立ち止まった。大人が数人、横になって休むことの出来る程度だが、敢えて作られていることには何らかの意味が存在するのだろう。
 ここが何処であるのかを示す手がかりをと周囲を見回し、――アリアは思わず息を飲み込んだ。口元を両手で押さえることで、反射的に出かかった悲鳴を押さえ込み、彼女は数歩、後退る。松明を落としてしまわなかったことは、奇跡に近い。
 広間の奥、アリアが通ってきた道と対になる位置に、それは存在した。唸り声も上げず、身動きすらせぬまま、光る双眼だけをアリアに向けている。
(犬? ――いや)
 松明の灯りに照らされる、その体躯。狼にも似た、しかしどこか違和感のある獣の姿に、アリアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 既に自分は、それの目に捉えられている。逃げる行為は無意味だろう。狭い通路、引き返しても出口はなく、隠れる場所もない。まして四本足の獣から逃げ切れるだけの身体能力は備えていない。
 魔法を、と考えアリアは自らその選択肢を放棄した。体内の魔力残量は如何にも心許ない。自己生産できないアリアにとって、貯蓄された魔力の枯渇はまさに致命的であった。
(やるしかない、か……)
 松明以外の得物はなく、他に方法はないとアリアは腹を括った。
 状況に、獣に、アリアははっきりと恐れを感じている。しかし同時に、殺されることはないと判っていた。楽観視しているわけでも、誇大妄想を抱いているわけでもない。それはアリアの中で確信以上の事実だった。
 獣と眼力で争いながら、額に汗を滲ませる。その一方で全身に、掌に、アリアは力を集中させた。
 端から見て、何かが変化したわけでもない。五感に訴える変化は何も起こらない。しかし獣は、その瞬間に確かに異変を感じたようだった。
 微動だにせず、静かに、威圧するように獲物を見つめていた獣が、初めて低い唸り声を上げた。殆ど同時に身を起こし、獲物に飛びかかるべく体を引き、前脚を伸ばす。
 そのタイミングで、アリアは右手を広げ、胸の前に勢いよく突きだした。下げた左手の、松明の炎が壁に軌跡を描く。
 轟、と不可視の力が空間を乱した。獣の咆吼が壁、そして天井を打つ。威嚇の閾値を振り切った、悲鳴にも似た断末魔。大気が揺れ、アリアの体を痺れるような衝撃が打った。
「……っ!」
 痛みや不快感はない。背筋にぞわりと、快感にも似た震えが走るのを感じながら、アリアは右手を握りしめた。獣の体が崩れ落ち、小刻みに痙攣を始めたのを横目に、再び松明を振り上げる。周囲に視線を走らせ、アリアは反射的に身構えた。
 周囲に生き物の気配が満ち始めている。それまでの静寂が溜めであったかのような、急激な増加。じっと隠れていたのか、第六感を貫くような衝撃がそれらを目覚めさせたのかは判らない。
 アリアは、再び右手を握りしめた。
「散れ!」
 驚くほど冷静に、何かを薙ぐように腕を振るう。それは手にしたものを投げる仕草にも似て、しかし実際には真逆の力を収束させる動きだった。
 ――魔力の吸収。その、発展した、或いは凶悪に堕ちた力と言うべきか。しかしアリア自身、自分が他の生物から何を奪って――正確には、抜き取って拡散させているのか、判ってはいない。ただ、生物が一瞬にして死に落ちるほどのものを無理矢理引き出しながら、アリアのものにもなりはしない力、どこまでも非生産的な殺戮能力であることだけが確かだった。
 数メートルほどの近距離という制限はあるものの、魔力の吸収のように、直接手を触れている必要はない。深く集中して、対象に手を向け強く命じるだけ。魔法のような魔法式の構築による実動までのタイムラグすらなく、抵抗、或いは防御手段もない。アリアが、自分自身を化け物と断ずるに、誰も否定できないだろう能力だった。
 アリアの手の動きに合わせるように、感覚にのみ訴える、不可思議な異変が周囲を駆け抜ける。その正体が何であるか分からぬまま、振るわれた力の先でいくつもの生命が失われていった。呪詛にも似た咆吼が通路内に満ち、次いでいくつもの衝撃が床を打つ。
 わずか数秒の後に訪れる、完全な無に近い静寂。
 自分の息づかい以外の全ての音が消失してから、アリアは無意識のうちに両肩を強く抱いた。床に落ちた松明が、重く鈍い音をたてて低い位置を照らす。その先に在るものを追い、アリアは蒼褪めたまま深く息を吐き出した。力を使った反動とも言うべき、強い精神的な疲労感をおして、現状把握をすべく通路の先に目を向ける。
 一番始めに生命を絶った獣は、やはり狼に酷似した姿形だった。外傷はなく、血のひとつも流れていない為、凄惨な印象はない。倒れているだけと見れば、そうであるともとれるだろう。しかし、微動だにしない投げ出された四肢の歪な様は、どうにも不自然であると言わねばなるまい。
 白く濁った目が、恨めしげにアリアを見上げている。そんな屍体が、見える範囲で十近く道をふさいでいたが、大きさに違いこそあれ、種としては同じ獣であるようだった。
 廃棄された建物に住み着いたか、と考え、アリアは小さく頭振る。野生の獣が住み着いているのなら、人の出入りなどあろうはずはない。足跡といい松明といい、この建物にはあきらかに、ここ数日以内に人が手を加えた跡があった。ならば獣は、この建物へのイレギュラーな侵入者に対する番兵である、とみるべきだろう。この暗さと狭さは、人間の戦い方を不利にして余りある。多少剣術を扱う者だとしても、入り組んだ道と獣を前に為す術もなく果てるに違いない。
 ここはどういった場所なのだろう、そう本格的に訝しみ、アリアはじっと獣の屍体を眺めやった。
「なんか、おかしいんだけど……な」
 呟いて、再び松明を手に、獣の屍体を照らす。単なる獣、狼と言い切れない不自然さの原因に、某かの情報があるとみてアリアは詳しく調べることにした。このような獣の放たれた場所、到底まともな使い方をされているはずがない。最終目標はむろん出口を探して逃げることだが、その過程を直感と衝動と運に委ねる気はなかった。
 あまり普通でない反応、或いは対応をしているアリアだったが、殊更、冷静沈着というわけではない。不安と恐怖、それに心細さは当然胸中に巣くっている。だが闇雲に逃げまどうという愚かな選択肢を選ぶには、アリアの能力はあまりにも強力に過ぎたのだ。なりふりさえ構わなければ、どんな状況でも最低限生き残ることは出来る、その事実がアリアを無意識にも大胆にさせていた。
「なんて獣か……は、あんまり知ってても意味ないか」
 ぶつぶつとひとり言葉をこぼしながら獣をじっと見つめやる。その外観に、特におかしなところはない。ならばと獣に手を触れて、アリアは眉根を寄せた。
 柔らかい。獣の体表面を覆う毛が思ったよりも、というレベルではなく、体そのものが不自然なまでに柔らかかった。弾力がなく、海綿質にも似た、抵抗のない感触。そこに気持ちの悪さを感じて、アリアは更に眉間の皺を深くした。それ以上、素手で触ることに抵抗を覚え、通路の隅に転がっている壷の破片らしきもので獣を突く。
「……っ」
 途端、滲み出た血とも漿液ともつかぬ液体に、アリアは手にしていた破片を取り落としてしまった。
 腐っている。皮から下だけが水を含んだまま腐敗しているといった様子に、アリアは反射的に口元を手で押さえて目を逸らした。どうすればこんな状態になるのか、――それ以前に、この獣が、つい先ほどまでなんら不自然もなく動いていたことに疑問を覚える。幻などではない。あれは確かにアリアの様子を窺い、力に反応し、身構えて襲い来た。
(蘇生体……? 違う、魔物? 操られただけの屍体?)
 幾つかの可能性を挙げて、その都度首を横に振る。否定というよりは、判らないと言った方が正しかった。
 いずれにしても獣が突然、それも複数体にこのような状態になることはない。仮にあったとしても、ここまでの異変、何らかの形で必ず人の口に上るはずである。ありとあらゆる情報の集う王都に伝わらないはずがない。同時に、今問題となっている魔物の一種であると考えるのにも無理があった。魔物は基本的に、人の出入りのあるところに自然群生することはない。
 となれば、この獣の成れ果ては明らかに人の手が加わった状態であると考えるべきだろう。
 このまま放置するのは危険すぎる、とアリアは判断した。誰が何の目的で作ったにせよ、普通に暮らす人の益にはなり得ない代物、むしろ人を襲う存在ならば害にしかならないとだけは確かである。
 この場所の手がかりを探そうと、アリアは屍体を見つめながら立ち上がった。相変わらず燃え尽きることのない松明を手に、通路の先を照らす。この場所へ落ちてから先、入り組み枝分かれした通路しか見ていないが、空気の流れがある以上、いつか何らかの変化のある場所にはたどり着くだろう。
 一度大きく息を吐き、アリアは慎重に先を歩き始めた。
 何度となく獣と遭遇し、その度に力を使いつつ退けながら長い道を進む。
 枝分かれした道、突き当たりに遭遇してはその都度戻るという作業が繰り返されたため、そのうち完全に距離感は失ってしまった。時間の感覚もひどく曖昧である。疲労がピークに達していることだけは確かだったが、全体的に幅狭く休めそうな場所は見あたらなかった。
 壁に凭れ、アリアは項垂れたままため息を吐いた。服は汚れ綻び、手足からは幾筋かの血が流れている。いくら凶悪な力を持っていようとも、あくまで反応速度は一般人のレベル、さすがに無傷というわけにはいかなかった。
 肉体的な痛みと精神的な疲労感は、時間と共にアリアに重くのしかかってきている。探索を続けるより先に、少しでも体を横たえる場所を確保すべきだとさえ思い始めていた。
「……、まぁ、行くしかないんだよね」
 呟き、陰気に籠もった空気を払うように大きく頭振り、最後に頬を叩いて叱咤する。前向きというよりは自棄に近い。
 そうして再び終わりの見えない道に足を踏み出したとき、ふと、――風が起こった。これまでにない空気の流れに、アリアは弾かれたように顔を上げる。
 そこに再び、湿りを帯びた風。同時にアリアの耳を、人の声が掠めていった。

 *

 彼――フロイドが計測値の異常を見つけたのは、ほんの偶然からであった。魔法院内での定期的な点検作業が、比較的退屈であったことも要因のひとつだっただろう。王都を魔力の流れと移動陣の具合を確かめた後、彼はテスト作動の待ち時間をもてあまし、意味のない思いつきで移動陣利用状況のデータを収集しはじめた。
「……あれ?」
 短い呟きに、同僚のナナリが顔を上げた。不思議そうな目をフロイドに向けてくる。
「何? 誤作動でもした?」
「や、そっちはどうもないんけど……」
 手招いて、手元の画面を指さし示す。
「行き先不明の利用者があるんだ」
「どれ?」
「ほら、ここ」
 フロイドの指の先に、警告を示す赤色の文字が揺れている。ナナリは眉を顰め、装置に手を伸ばした。そうして、警告箇所の詳細データを弾き出す。
「地下の移動陣から、ね。……不正利用じゃなくて、これは、エラーだわ」
「利用者は?」
「特別客人。おかしいわね、こんな日に誰か来てたかしら。しかも、随分遅い時間」


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