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 どこであるにせよ、厄介な場所であることには変わりない。しかも綿密に隠されていることから察するに、ろくな使い方はされていないだろう。移動先が安全で無害な場所である確率は極めて低い、と考えざるを得ない。
 仕方ない、とギルフォードは覚悟を決めた。
「装置ではこれが限界ですね?」
「悪いが、その通りだ」
「では、私が直接探ります。エラーの起こった時間を固定する役目にひとり、後は微細な感知のサポートにひとり、お願いします」
「……相当、負担になるぞ?」
「それしか、方法はありませんから」
 苦笑して、ギルフォードは移動陣の縁に手を掛けた。
「乱れの生じた時間軸を固定、魔法の流れを追います。場所の特定はこの際省いて、出口の穴の存在だけを追います」
「――大変だな、これは」
 ため息混じりにフロイドが了承する。他の所員も頷いたのを認めて、ギルフォードは魔法式を唱え始めた。

 *

 風の音は時に人の声にも聞こえる。しかし、そうだとしても一向にアリアには問題なかった。強い風が吹くということは外に近い場所があるということでもある。
 それまでより大胆に、声とも音ともつかぬものに従い、アリアは通路を突き進んだ。やがて道が開け、周囲の様相が変わり、それに伴いアリアの緊張と期待は否応なく高まっていく。変化があるということは嬉しいことだったが、それは良くも悪くも、どちらにも転びようがあるということだ。状況を確かめるまで、油断は出来ない。
 ほどなくして、古びた、しかし頑丈な造りの扉が目の前に現れた。声は、その先から響いている。風は、扉の上部と下部に設けられた通風口らしき穴から強く吹いていた。
「……腐臭?」
 土と黴の臭いに混じって鼻腔を通り過ぎる別の臭いに、アリアは眉根を寄せた。獣の屍体から漂ってきたものと同じだが、それよりも強く大気中に拡散している。嫌な予感、或いは確信に、アリアはため息を吐いた。
 扉に手を掛け、一気に引き開く。鉄製の扉はそれ自体がかなりの重量であったが、やはり人が使用しているのか、思ったよりも動きは滑らかであった。
 おそるおそる、扉の内側に侵入し、アリアはそこで立ち竦んだ。
 突然開けた視界、広い空間に林立する鉄格子。嫌でも目に入ってくるその光景に、アリアは思わず口元を手で覆った。ぞっとするものを感じて、身震いをする。
「なに、ここ……」
 牢獄、否、それ以下の実験生物のような扱いで鉄格子の中に閉じこめられている生物がいる。幾度となくアリアが撃退した狼のような獣の姿もあった。牢の殆どは空であったが、使われていないというわけではなさそうである。牢の中に放置されている干涸らびた塊は、もともとは何らかの生物だったのだろう。
 何度も深呼吸を繰り返し、アリアは意を決して部屋の奥へと足を進めた。足音がやけに反響する。天井が高くなったことに気付き、一度は周囲を見回したものの、あまりに凄惨な状況に、さすがにあれこれと調べる気はおこらなかった。
 アリアの持っている松明と同じものが壁際に設置されていることもあり、それまでの通路より遙かに見通しが良い。余計なものまで見えてしまうのは苦痛だったが、その為にすぐに次の扉を見つけることが出来た。奥に階段が設えられ、アリアの立っている位置より一階分高い位置にそれは存在した。風は、その高さと同じ位置の孔から吹いている様子である。
 外に通じるものに安堵を覚え、アリアは大きく息を吐く。
 声が聞こえたのは、その直後だった。
「た……すけ……」
 近くの鉄格子がガタガタと揺れた。
「……っれは、悪く、ないっ」
 掠れた、呻きにも似た声が響く。地の底からはい出てきたようなくぐもり濁った声音に、血が逆流するような恐怖を覚える。
 アリアは、咄嗟に松明を向け、そして一瞬後に激しい後悔を覚えた。
 ――生ける屍。
 魔物だとも、魔物と人の間の存在だとも言われる、死を形取った忌むべき存在を思い出す。松明の灯りに照らされたその生物はまさに、人でありながら明らかに生命を感じない虚ろな姿だった。
 あからさまに腐っているわけではない。本の挿絵にあるような、肉の落ちた異形ではない。だがはっきりと、生きていないとだけは判る。獣とは違い、体表面を覆うのが毛ではなく皮膚であったぶん、それははっきりと見てとれた。
 それが動き、嘆き、呪詛を吐く。これは、どういうことか。
 もとは立派であっただろう服も、整っていたに違いない髪も今は泥と汚物にまみれ、彼が何者であったのか判別する基準にはなり得ない。それ以上に正視することに絶えられず、アリアは無意識のうちに数歩後退った。
「だ……して、く、れよ……ぉぉ」
 カチャリ、と金属が鳴る。アリアと彼を隔てる鉄の柵が、哀しげに小さく揺れた。あまりにも人間臭い彼の行動に、アリアは思わず目を伏せる。長い逡巡、そうして、意を決して小さく問いかけた。
「あなたは、誰……?」
 濁った目が、ゆっくりとアリアに向けられる。
「名前は?」
 重ねて問うが、返ってきたのはひび割れたうめき声だけだった。既に、考える力は失われているのかもしれない。何者か判らない彼の、繰り返される嘆きが耳に粘りつく。
 まとわりつく腐臭に大きく息を吐くことも出来ず、アリアは首を横に振った。ここがそもそもどこであるか判らない以上、長居するわけにもいかない。出口を探さなければ、とアリアは踵を返す。
 その背中に、新しい言葉が追って縋りついた。
「……――リカ」
 一瞬、人の名かとアリアは振り返る。
「セー……リカァぁ」
「!?」
 具体的な地名に、アリアは目を見開いて彼を見つめた。生理的な嫌悪感を、驚愕と好奇心が凌駕する。
「セ……、カ、ァァアアアッ」
「どういうこと!?」
 憤りとも絶叫ともつかぬ、悲鳴にも似た咆吼が牢の中をこだまする。
「セーリカが、どうしたの!?」
 柵を揺すり、アリアは問う。しかしそれ以降、彼が意味のある言葉を吐き出すことはなかった。ただただ、或いは悲痛ともとれる唸りだけが響く。
 頭振り、アリアはそろそろと牢を離れた。そうして、広い空間をぐるりと一周見回すべく歩き回る。生理的な嫌悪感から一度は忌避した室内の探索だったが、改めて行う必要性を感じていた。
 とはいえ、それまでと同じように何か具体的なことを示すものは何もない。見渡す限り、あるのは鉄格子で出来た檻と松明の並んだ壁、そして干涸らびたいくつもの塊。人間だったものを閉じこめておきながら、監視する者の為の椅子ひとつすら見あたらなかった。隠し部屋があるのか、監視する必要性すらないのか、――おそらくは、後者だろう。
 閉じこめられている人の数を数え、そうしてアリアは出口に通じると思われる扉に目を向けた。狭い階段を昇り、まじまじとそれを眺めやる。そうして、やはり、と眉を顰めた。
「無理か……」
 鍵穴はない。だが、見たこともなく複雑な結界が扉の表面をくまなく覆い尽くしている。むやみに触れれば命は無かったか、或いは封をした者に報せが行く仕組みなのだろう。運良く解錠できたとしても、この悪趣味な牢獄を管理する何者かに気付かれるのは間違いない。痕跡から侵入者を特定される可能性を考えれば、到底賭けに着手する気にもなれなかった。
 だが、判ったこともある。まず、この建物には相当の力を持つ魔法使いが関与していること。そしてその魔法を駆使して扉を封じているということは、逆に言えば物理的な鍵は存在しないということになる。
 施された魔法式の解明が出来れば、解除方法を探す手だてとなるだろう。そう考え、アリアは扉に触れずに、目で扉の結界の式を確認した。全て覚えるのは不可能だが、式である以上、ある程度の法則は存在する。
 時間をかけて一通り頭に叩き込み、アリアは組んでいた腕をほどいて体を伸ばした。自分のための出口を探すべく、気持ちを切り替える。そうして階段から下りるべく踵を返し、
「え……」
 目に映った光景に、アリアは絶句した。後退り、壁で背中を打つ。
 ――地下部分の一面に、いつの間にか獣の群れがひしめき合っていた。

 *

 時間は、少し前に戻る。
 魔法院では、かれこれ30分以上も探索が続けられていた。一瞬の切れ目すら許さないほどの集中力を必要とするにも関わらず、ギルフォードはその間ひとりで魔法の行使を続けている。彼の額から流れ落ちた汗が床を湿し、短い呻きが大気を打つ。時間を追う事に、彼の顔は険しくなっていった。
 疲労の色が強い。補助を行っているフロイドが、何度も気遣わしげにギルフォードを伺い見る。微弱な、殆ど一瞬の魔力の変化を探すことなど、彼には不可能であるように感じられた。これは点検作業ではない。整備された一定の流れを持ち、他からの干渉を殆ど遮断するシステムのある、整然とした魔力の網の目から問題点を探すのとはわけが違う。それを凪とするなら、ギルフォードが今手を伸ばしているのは大嵐の海。四方八方からの妨害が押し寄せる中、彼は針の穴のような綻びを探している。
「……はっ、」
 息の塊を吐き出し、ギルフォードの体が大きく傾いだ。
 フロイドよりも早く、耐えかねたか、ナナリが彼の体を支えるべく彼の方へと駆け寄った。
「少し、横になって」
「……大丈夫、です」
「せめて、ちょっとでも休憩して」
「いえ……」
 強く目を瞑り、そしてギルフォードは再び移動陣へと両手を突く。
「今、おかしな流れがありました」
 掠れた、しかし力強い声で、ギルフォードは断言する。フロイドとナナリは一度顔を見合わせ、次いで再び魔法式を唱える彼の背中へと視線を転じた。
「エラーの地点から、0.5秒、……この先に、確か」
 集中し、意識の手を伸ばす。
 他人に見える作業ではない。断続的な魔力の流れの中に己の力を保持したまま放ち、探る行為だ。妨害となる自然界の魔力に対する保護魔法の補助は受けられても、結局は主体となるギルフォードが探し当てるしかない。


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