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 やがて、指先に再び手応え。ギルフォードは持ちうる全てをその綻びへと集中した。
「…………っ!」
 全身に、違和感が走る。電撃にも似てそれとは異なる、痛みを伴った痺れが体の中心を貫いた。
「ギルフォード!」
「待て!」
 反発の起こった箇所へと意識を向ける。
「……あった」
「え!?」
「道を開けます」
 ギルフォードは、綻びの座標へと魔法を放つ。魔法院の移動陣と、場所不明の出口とが線で結ばれ、淡い光を帯びて揺れた。同時に移動陣自体も、いつもと同じ移動魔法発動の前兆を示す光に彩られる。フロイドやナナリをはじめ、室内にいた所員全員が歓声を上げた。
 だが、ギルフォードの表情は硬い。出口らしきポイントへ道を繋いだものの、固定することは不可能だったのだ。となればこのまま、ギルフォードが通り道を開いたまま他の誰かを向こうに送るしか方法はない。
「誰か……」
 言いかけて、ギルフォードは歯噛みした。集まっている面子は、古くから居る魔法院の所員、つまり、戦闘を苦手とする研究者ばかりである。流れの歪みの先がどこに通じているのか判らない以上、臨機応変に対応できない人物を派遣するのは好ましくない。
 周りを見渡し、ギルフォードは冒頭から先の言葉を入れ替えた。
「誰か、私と代わってもらえませんか?」
 戦場の最前線から離れて数年経過するものの、この場にいる誰よりかは荒事に免疫がある。そう判断してギルフォードは、今自分が行っている作業の代理を呼びかけた。多少コツのいる作業ではあるが、普段から魔法院で魔力の流れを監視している者であれば、不可能なことはない。
 しかし、顔を見合わせたフロイドは、逡巡の後にギルフォードを見遣り、苦しげに否定の言葉を口にした。
「ギルフォード、それだと、また一からやり直しになってしまう。お前はもう位置を掴んだかも知れないけど、それは他人には判らないんだ。それに、お前ほど集中力も魔力もない。多分倍の時間はかかってしまう。」
 言われて、ギルフォードは目を眇めた。確かに、一旦作業を中断してしまうと、そこで探索の糸は切れてしまう。そうなればまた、同じだけの時間、フロイドに言わせれば倍の時間をかけて歪みの地点を探さなければならない。ギルフォード自身が再探索するのであれば或いは、自分の魔力の痕跡を手繰ることも出来るが、他人には他人の魔力とそうでないものの区別は付かないのだ。
 迷っている時間はないと判りつつ、ギルフォードは苦悩した。出口である場所がどこであるのか、はっきりと特定することは現時点では不可能である。危険な場所である確率は高い。更には、例え直接的に危ない場所でなくとも、アリアの状態や状況が判らない以上、行った先にすぐ彼女が居ない場合、自ら判断し動く必要があるのだ。下手な人物は、派遣できない。
 歪みの先が安全な場所であることに賭けて、魔法院の所員を飛ばすか。
 時間のロスは承知で、一から探索をしなおすか。
 見つめくる動揺を含んだ視線に、ギルフォードはきつく眉根を寄せた。賭に負けた場合の犠牲者を、増やすわけにはいかない。
 苦渋を引きずったまま、ギルフォードは決断を口にすべく、顔を上げた。
 ――その時。
「俺が行こう」
 勢いよく開けられた扉の向こう、簡素な服に剣を佩いただけの男が、無表情のままにギルフォードを見返した。一瞬、誰かと思い、ギルフォードは目を丸くする。男の、騎士団服姿以外をみるのは初めてだった。
 何故彼が、と思いギルフォードは苦笑する。院内にいる魔法使いを止めておくよう指示を出したのは自分自身であった。
「おおよその事情は聞いた」
 魔法院内限局ではあるが、それなりの騒ぎになっている。それを聞きつけてやってきたのだろう。その男、アッシュ・フェイツは、手にしていた上着を羽織りつつ、何の躊躇いもなくギルフォードに歩み寄った。
 そうして、移動陣の周りに並べられた魔法装置を一瞥する。
「どうすればいいんだ?」
「その移動陣の中に立つだけですが、しかし」
「躊躇ってる暇はないだろ」
「ですが、どこにたどり着くのか、判りませんよ。危険な場所である可能性も――」
「誰に言っている」
 こともなげに言い捨てるアッシュを見て、ギルフォードはふと、可笑しさを堪えきれずに口端を歪めた。噂に聞くほどの戦闘能力を有した男、そして魔法も使えるとなれば、確かにこれ以上の人材はない。なにより、アリアと直接顔見知りというのは大きいだろう。――アリアの不審を誘うような人物では、助けにいったところで元も子もない。
 ギルフォードはアッシュに向き直り、生真面目な顔のまま頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
 気負った様子もない、ただいつも通りの不機嫌そうな顔で、アッシュは軽く頷いた。

 *

 厄介なことになった。
 生唾を飲み込みつつ、アリアは階段の下を睨んだ。絶体絶命とは思わない。基本的に予想外の一撃でなければ問題はないのだ。だが、如何にも数が多すぎる。
 獣たちが今すぐにも襲いかかってくる様子はなかった。それまでも薄々感じていたことだが、獣たちはけして、積極的に襲っては来ない。アリアが自ら攻撃をした時、もしくは近距離で仲間が斃されたときは別だったが、出会い頭に突然、という襲撃は数えるほどしかなかった。役目としては、排除というよりも足止めに近いのかも知れない。
 だが、アリアには当然、ゆっくり構えている時間はなかった。襲われないことをいいことにこの場で座り込んでいても、状況が改善することはない。むしろ異変を察して、この牢獄を管理している者がやってくる可能性が高いだろう。見つかった後のことは、想像もしたくなかった。それはこの陰惨な牢の数々が如実に語っている。
 今は対面に位置する壁、侵入してきた扉に目を向け、アリアは頭の中で必死に計算を繰り返した。
 獣を斃す方法は考えなくて良い、だが、一瞬で全てを殲滅させることは不可能である以上、防御も必要となってくる。考えるべきは全て殺す方法ではなく、最小限の魔力消費で防御しつつ、突破口を開く方法だった。
 だが、獣の低い呻きがアリアの集中力を削ぐ。気が急いているのを自分でも感じていた。精神的にも肉体的にも、既に限界値を超えている。冷静にと気を張ってはいたが、この思わぬ事態に自分を誤魔化すことさえ難しくなっていた。思考の隙間から、平常心がこぼれていく。
 しばし動きを止め、アリアはただ、強く拳を作った。そうして、大きく深呼吸を繰り返す。
(――気を抜くな!)
 萎えかけた気力を、アリアは自ら頬を叩き覚醒させる。
(生き延びたんだ、生きるために、最後まで戦う義務がある。そう、誓ったはずだ!)
 言い聞かせて、アリアは再びキッと階下を睨みつけた。その攻撃的な視線に気付いたのだろうか。最も近くにいる獣が数匹、歯をむき出しにしてアリアに唸りを上げた。
(立ちすくんでる場合じゃない!)
 意を決して、アリアは右手に意識を集中させた。一撃で、できるだけ多くの敵を倒さなければならない。獣たちは低い姿勢で、攻撃に対する構えを取っている。多くの殺気をはらんだ不穏な空気が、広い室内を一気に埋め尽くした。
 その均衡を破るべく、アリアは右手を大きく振りかぶる。
 獣の後脚に力がこもる。
 触発、その瞬間、まさに、アリアの力が掌を離れる直前。
「!?」
 突然、重々しくも低い、地響きを伴った轟音が室内に響き渡った。何事かと咄嗟にアリアは身構える。
 一瞬の間をおいて、獣が数匹、まとめて空中に跳ね上がった。強い衝撃に打たれたように肉片が飛び散り、ひしめき合った獣たちの上に降りかかる。次いで、螺旋状に巻いた炎が、一直線に獣を薙ぎ払った。蛋白の焼ける臭いと煙が流れた後に、獣の群れを割った道が出現する。
「な、に!?」
 驚きに、集中力が途切れて力が消え失せる。
 アリアの真正面、通路へと通じる扉は大きく開かれ、埃とも土煙とも突かぬ粉塵が舞い上がっていた。そこに、人の形をした、ひとりぶんの影。
「アリア、来い!」
 はっきりと意志を持った呼びかけに、アリアは信じられない面持ちで目を見開いた。
「走れ、こっちだ!」
 獣の注意は、今や突然の侵入者の方へと向けられていた。殺意と敵対心の集中を受けながらも怯む様子もなく、長大な剣を持った手が、いっそ無造作にそれらに向けて振るわれる。
 声は恐怖を裂き、一閃は暗闇を割く。生きた者の存在が、アリアに光明を落とした。逆らう理由もなく、注意の逸れた獣たちの間を無我夢中で駆け抜ける。
 剣を振るいながらどこにそんな余裕があるのか、間断なく降り注ぐ炎が、アリアを守るように周囲の獣を襲い退けた。流れるような魔法式の詠唱、そして正確無比な出力のコントロール。平常時のアリアであれば、間違いなく魅入って動けなくなっていただろう。
 さすがに今はそんな暇もなく、アリアは全力疾走で通路に通じる扉をくぐり抜けた。直後、重々しい音と共に勢いよく扉が閉められる。殆ど一連の動作で、突き出された腕から光の網が一気に展開し、あっという間に結界が施された。
 途端、獣たちの咆吼がくぐもったものへと変化する。おそらくは獣が飛びかかっていたのだろう、強くぶつかる音も響いたが、薄く光を纏った扉はもはやびくともしなかった。
「大丈夫か?」
 肩で荒い息を繰り返しながら、アリアは短く頷いた。薄明かりの中、見知った顔を認め、堪えきれずに顔を歪めて彼を見る。
「泣くのは後だ」
 間髪を入れず、感動も容赦もなく言い切られた言葉に、むしろアリアは嬉しさを覚えた。――いつもどおりの、彼だ。全く持って揺るぎない、疑いようもなくはっきりした現実の存在に、安堵の思いがこみ上げる。
「どうして、ここに?」
「迎えに来た。長くは持たない。急ぐぞ」
 話は後だと言わんばかりに、彼、アッシュは背を向ける。見えるわけでもあるまいが、反射的に大きく頷いて、アリアは彼の後を追った。
 迷うことなど知らぬように、アッシュは迷路のような通路を走り抜けた。出くわす獣とも魔物ともつかぬ生物を、何の躊躇いもなく鮮やかに切り捨てる。その動きに、一切の無駄はない。狭く見通しの悪い道に足を取られることも、突然の襲撃に慌てることもなく、屍体の山を築きながら進み行く。
 アリアはただ、走る。前を行くアッシュの魔法や剣捌きに見とれる余裕があるほど、彼女は安全だった。
(強い……、それに、慣れてる)
 内心、アリアは舌を巻いていた。今アッシュに賞賛を浴びせても睨まれるだけだと判っているので、余計なことを言う気はない。だが彼の戦闘方法を見るに、感嘆せずにはいられなかった。


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