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 通路に細くも眩しい一筋の線が浮かび上がっていた。ゆらゆらと、対面の壁に影が過ぎっては光が揺れる。
 やり残した仕事を思い出し、ヴェロナ・グリンセスが寝起きしている部屋を出たのが日付の変わる前後。月の細い夜だけに、手燭の灯りでもなければ歩くことさえ覚束ない。それだけに、その光は闇に慣れた目にあまりにも鮮烈だった。
(話し声……)
 この場所がどこで誰の室に近いのか、長年住み働いてきたヴェロナには考えるまでもないことである。最も立ち入る機会が少なく、最も近寄りたくもない一角、つまりは館の主であるリュンデル・グリンセスの詰める部屋だった。
 女でも連れ込まない限り、滅多なことで夜更かしなどしない館主がこの時間に何を、とヴェロナは純粋な疑問に眉根を寄せる。寝室でなく執務の為にあつらえた重厚な部屋、好んで立ち入る場所ではない。領主代理の仕事に対して不真面目ではないが、殊更熱心でもないリュンデルが、仕事を残して働いているという状況はまず考えられなかった。
 争っている様子はない。だが、時々荒げられて聞こえる声はあきらかにリュンデルだった。
「……どういうことだ? お主の言うようにやったが、一向に何も起きんぞ?」
 好奇心のままに近づくヴェロナ。苛立った声が、扉越しに響く。
「一度にすれば小娘に気付かれる。少しずつ魔法式を送り込めばいいと、お主は言わなかったか?」
「申し上げました」
「では、何故あの小娘は未だに魔法が使えるのだ!? どうして五体満足で王宮に上がった? 魔法を使う能力を無くす方法、実績もあると言ったのは誰だ!?」
「……」
「まさか、あの魔法がばれたのではあるまいな!?」
 興奮した様子で、鋭い音が後に続く。椅子を蹴り倒したか、何かを固いもので殴り飛ばしたか、とにかく苛立ちを拡散させる無意識の衝動によるものだろう。
 基本的には温厚な紳士、しかし権力と金を計算に入れ始めると途端に狭小な自尊心、そして卑屈な優越に支配される程度の男だ。紳士の皮が外れた表情は、領主一族の名が泣くほどに卑しく引きつっていることだろう。容易く思い浮かべて、ヴェロナは口の端を曲げた。
「殿下を上手く王都から引き離せたまでは良かったが、これでは後詰まりではないか!」
「落ち着け、リュンデル」
 三人目の声に、ヴェロナはぎよっとして目を見開いた。
「こやつに任せ切りだったこちらにも非はあるだろう」
「しかし、兄上」
「今更責めても仕方あるまい。それに、あの生意気に魔法を使う小娘の鼻っ柱をへし折っておく手段だっただけで、元の計画には差し支えない」
 割合に落ち着いた声音はまさしく、ドマーク・グリンセスのもの。現グリンセス領主その人で、リュンデルの兄、そしてヴェロナの伯父にあたる人物である。
 遠いグリンセスの領地に住む彼が何故ここにと、ヴェロナは口元を押さえて扉を凝視した。グリンセス公が王都へやってきたなどという話は聞いていない。ましてや、いつもなら当然滞在先になるはずのこの領主館に、連絡のひとつもないなどというのはおかしすぎる。今話題の東方、ティエンシャを除くセーリカやエルスランツの者が王宮を訪れるならともかく、グリンセス領には今のところ、動乱が波及した様子はない。状況の把握というなら、逆にリュンデルが領地に戻って報告するほうが自然だろう。
 忍んでやってきたのだとしても、領地から王都までの道中、完全に人目から隠れ通せるほど警備の目は甘くない。ならばどうやって、そして何の目的で彼はここにいるのだろうか。
 ヴェロナは、そろりと扉に近づき、壁に背を当てて聞き耳を立てた。
「……彼には既に、奴を引き離しておく役割を果たしてもらったのだ。ついでに請け負ってもらったことが上手くいかなかったからと言って、責めるわけにもいくまい」
「それは、そうですが……。しかし、あの小娘は、こちらの言うことなど聞きそうにありませんよ」
 先ほどから何度か話題に挙がっている「小娘」が誰のことを指すのか、しばし考えてヴェロナは唇を噛んだ。彼らが気に掛けながらもわざと蔑む相手、そしてその呼び方に呼び起こされる記憶がある。
「なに、体さえあればなんとでもなる」
 微妙な言い回しに、ヴェロナはぎくりと体を強ばらせた。
「見た目が小娘で、中身が魔物でも構わんだろう、な。それは可能であったな?」
「少々骨は折れますが、無論可能です。ただ、人間らしい感情があるかは保証しませんが」
「黙って座らせることが出来れば問題はない」
「そのうち、気がふれたとでもして、王宮の奥に引っ込ませれば良いのです」
「……ですか。ならばこちらに断る理由はありません。失敗の後です。なんとかいたしましょう」
 ヴェロナは、三人目の声を必死で頭に刻み込む。くぐもってはっきり誰とは判らないが、全く聞き覚えのない声ではない、そう感じた。
「それにしても、あれは解除魔法でも消えないはず……」
 三人目の男は、戸口付近に立っているのだろうか。呟きとも独り言ともつかぬ声は、グリンセスの兄弟よりもはっきりと聞こえていた。
「ましてや、物を壊したところで、行き場を失った魔力が……、誰ぞ入れ知恵でも……」
「何をぶつぶつ言っている」
「……、……いや、失礼」
 ふ、と男は嗤ったようだった。
「少々腑に落ちないことを考えていただけです」
「言い訳か?」
「どうとでも。しかし、こちらのミスや何らかの偶然が働いたというわけでない場合は、それなりに厄介なことになりそうです」
「そのあたりはお主に任せてある。好きにするといい」
「そのお気持ち、ありがたく。では――」
 言い区切り、直後、床が高く鳴った。ヴェロナはぎくりと体を強ばらせる。勘というより殆ど確信的に、身の危険を察知した。
「鼠の駆除でも致しましょう」
 愉悦の混じった、低い声。扉のこちら、間違いなく、ヴェロナに向けて発せられたものだった。
 逃げなければと思う。しかし、翻すべき体は全く言うことを聞かなかった。
「――!?」
 緊張、動揺、焦り、それらが確実に平常心を失わせていたとしても、指一本動かせないという状況には陥らないだろう。しかしこの時、ヴェロナは少し開いた唇を閉じることさえ不可能になっていた。
 カチャリ、と静かに扉が開く。ヴェロナの視線は扉付近の床、そこに、磨き使い込まれた革靴が映し出された。男物。あいにくと、個人を特定するような独創的なものではない。
「――ヴェロナ!? この、――どういうことだ!」
 引きつった声は、リュンデルのものだろう。彼の表情は判らない。だが、口元を引きつらせて憎々しげに睨んでいるだろう事は、声音から充分に察せられた。
「小娘に、毒されたか」
 違います、と言おうとするも、ヴェロナの口からはただ呼気が漏れ通った音しか発せられなかった。声帯すらなんらかの制約を受けて動かなくなっている様子である。唾ですら飲み込むことも出来ず、一筋の雫が口元から伝って床に吸い込まれていった。
「話せるようにしますか?」
 内臓だけが動いている状態です、と男は平坦な声で言った。体の状態を具体的に知ることができたとしても、なんのありがたみもない。
「いや、結構だ。この女がたいした情報を持っているとは思わない」
「では、ひと思いに?」
「ここで殺るのはまずいだろう。あそこで実験材料にでもすればいい」
「よろしいので?」
「嬲るなりなんなり、好きにするといい。お前もそれでいいな、リュンデル」
「ええ、兄上。――そろそろ、飽きましたから」
 カッと、屈辱にヴェロナの顔に朱が昇る。比率で言えば、恥辱より怒りの方が高かっただろう。
 殺してやりたい。だが、物理的に不可能な今の状況が悔しかった。激情を逃がす為に拳を作ることさえ、できなかった。
「――ふん、いい目をする」
 唇だけで呟かれた一言。
「では、ありがたく、この娘はいただいていきます」
 喜悦の走った声に、ヴェロナはただ絶望を覚えた。


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