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(九)

 雪が、降る。
 暗く重い空から、白い涙がほろほろとこぼれて流れゆく。なんとなしに眺めながら、アリアはかじかんだ手に息を吹きかけた。一瞬の温もり、だがすぐにそれは身を切るような冷気の前に霧散する。
 アリアの腹がくぅ、と鳴った。だがそれはいつものこと、満腹という言葉など、アリアには想像すら出来ない。肋の浮いた胸も骨と皮だけの手足も、見慣れすぎておかしいとは思わなくなっている。
 それでも今日はまだましな日だった。山を歩く途中で、雪の上を走る獣を捕らえることが出来たのだ。無論、捕らえることが難しいのではない。冬に、比較的人里に近い場所で獣を見つけることが、奇跡に近いのだ。
 獣を手にアリアは、僅かに残っている木の芽を摘みながら家に向かう。麓の村から離れた、今にも崩れそうな粗末な小屋、それがアリアと、兄の住む場所だった。
「ただいまー」
 殊更に元気良く、アリアは軋む扉を開けた。
「今日は、すごいよ。ほら。肉の付いてる動物取ってきた」
「怪我はない?」
「心配ないよ。ちょっと待っててね、今スープ作るから」
 綿の出た、薄汚れた布団の中から、キースが顔を覗かせる。青白い顔は、しかし優しく微笑んでアリアを見つめた。
「おいで。また無茶して来たんじゃない? ほら、力あげるから」
 言って、軽く咳を落とす。痩せた手が、アリアに伸ばされた。成長前の少年という年齢を割り引いても頼りない指先が、同じように細いアリアの指に絡められる。
「……今日は、熱、ましなんだね」
「うん。調子いいよ。だから、魔力も余ってるから、必要なだけ取ってくれて構わないよ」
 頷いて、アリアは指先に力を収束する。淡い光が浮かび、アリアの中にキースの力が流れ込んできた。ゆっくりと、取りすぎないようにと細心の注意を払う。キースその人にも似た甘く優しい魔力が、じわりと広がっていく。
 過剰な魔力を持つ兄と、魔力を生産出来ない妹。アリアと双子の兄キースは、ふたりでひとつの人間だった。お互いのどちらが欠けても、生き残ることはできなかっただろう。母親の胎内でどんな奇跡が起こったのかは判らない。ただ、生まれたときからふたりは互いに足りないところを補い合う存在だった。
 母はふたりを産み落としたときに死亡、父親はアリアの不思議な力に恐れをなし、逃亡。村の人間は、不吉な子供だとして領内から追い出した。それ以来、アリアとキースは支え合って生きている。
 ――これからもずっと、そう、アリアは思っていた。
 握り合った掌に、舞い降ちる雪。
「……屋根、直さなきゃね。本格的に冬になる前に」
 呟いて、アリアは天井を見上げた。
 雪が、降る。
 白い涙は白のまま、落ちて溶けて、消えるはずだった。
 紅蓮の炎が、村を覆い尽くし。
 アリアの指先が兄の命を奪う、その時まで。

 *
 
 いつの間にか、眠っていたらしい。
 自分で上げた悲鳴に驚いて、急速に眠りから引き戻されたアリアは、荒い息を吐きながら額の汗を拭った。あまりにも鮮明でリアルな夢。過去の心的外傷は、数年経た今でもアリアを縛り続けている。
(あんな力、使ったからだ)
 重い頭を振り、アリアは仮眠用のソファーから足を下ろした。全体的に怠さは残っているが、ふらつくことはない。魔法院での事故から五日、体の方の傷はしっかりと癒えている。事故を慮ってか、肉体労働はレンが率先して行ってしまうため、その後も体自体が疲労することはなかった。
 だが、精神の復調は未だ足踏み状態が続いている。原因は明白、アリア自身が忌避している力を使いすぎたからだ。持って生まれたもの故に仕方ないと頭では判っていても、実際には化け物じみた力を行使する度にアリアの精神は傷を受ける。自衛能力としてこれ以上の物はないと割り切るには、幼少時の経験があまりにも苦すぎた。
(情けない)
 頭から冷水でもかぶり、すっきりしてみたい気分だったが、残念ながら今アリアが居るのは王宮。ディアナの後ろ盾という恩恵があるとはいえ、さすがにそこまでは許してもらえないだろう。
 それ以前に王女の侍女は普通そんな事を考えない、と突っ込みを受けそうなことを考えながらアリアは大きく体を伸ばす。そうして、体の中に溜まった澱を吐き出すように大きく息を吐いた。 
 やるべきことは、山ほどある。過去を伺いつつ立ち止まっている暇はない。
 両手の拳に力を込めて、キッと前を見据える。無理矢理気合いを入れて、アリアは仮眠に使っていた控えの間を後にした。
 現在、アリアはディアナの供として王宮で寝泊まりをしている。与えられたのは王宮で賓客を世話する女官と同じ区画の一室で、当然、ディアナの室とはしばらく歩かねばならないほどの距離があった。不満と言えば不満であるが、個人邸宅でない以上、やむを得ないことだろう。アリアはディアナの護衛ではなくあくまでもただの侍女なのだ。
 王自らの要請を受けて――表向きはディアナ自身の安全のために、本当のところではエレンハーツの護衛も兼ねて、王宮に居を移したディアナは、毎日義姉王女と行動を共にしている。アリアとレンはエレンハーツの侍女と交替で側に控え雑用をこなす毎日、それなりに仕事はあったが、ディアナの館に居た時よりも暇を感じるのは気のせいではないだろう。
 王宮の奥には基本的に、認められた者以外は立ち入ることが出来ない。ディアナの館には様々な客が寄ってきたものだが、さすがに王宮まで追いかけてくることは不可能だったようである。つまり、謎の魔法式が刻まれた贈り物もぱったりと途絶えてしまった。
 結局あれは何だったのだろうか。中途半端に立ち消えた状態がどうにも気持ち悪く、それがアリアを余計に落ち着かない気分にさせる。移動陣の事故のためにすっかり失念していたが、ギルフォードや魔法院の所員にはまだ相談できていなかった。
 思うに、つくづくろくでもない事件だったと眉根を寄せる。ディアナが王宮へ移る前の処理には、体調不良もあって殆ど携わることが出来なかった。当然、謎の魔法式の刻まれた品々は放置されている。
「まずったな……」
 しばらくは魔法院にも出かけることはできない。なんとか少しの間でも抜け出す方法はないだろうか、――そう考えたとき、突然、目の前に何者かが飛び出してきた。
 アリアは思わず、顎を引いて硬直する。
「あれ、アリア?」
 ――直後、気の抜けた声。
「交替、ちょっと早いみたいだけど、どうしたのよ?」
「……なんだ、レンか」
「なに、その科白?」
 じろりと半眼を向けられ、アリアは慌てて両手を顔の前で横に振った。不穏なことを考えてましたとは言えず、乾いた笑みを浮かべて曖昧に濁す。
 呆れたように、レンは目を眇めたままボリボリと頭を掻いた。
「ギルフォードさんに頼まれたから、頑張ってアリアのぶんまで仕事してるのにー」
「……それ言っちゃお終いでしょ」
「お姫様だっこで戻ってきた奴が言うな」
 う、とアリアは言葉を詰まらせる。魔法院での事故の後、思うように動けないアリアをディアナの館まで送ったのはギルフォードだった。その時彼は、魔法院の手配した馬車を降りた後、門から玄関までアリアを抱きかかえて歩くという、動悸と興奮で余計に体を悪くさせるような荒技をやってのけたのだ。
「仕方ないでしょ。私がディアナ様に仕えてるって知ってるの、ギルフォードさんだけなんだから」
「あんなに密着する必要ないでしょーが!」
「……抱えられたら、体くっつくの当たり前じゃない」
「じゃあ、自分で歩けーっ!」
「そんなの、向こうに言ってよ。あの人、紳士的なつもりなんだろーけど、ああいうところ、もの凄い天然でタチ悪いんだから」
 市場での事も思い出し、アリアはこめかみを指で押さえた。
「もう、そんなことはどうでもいい。で、レンは? 今ディアナ様に付いてるはずなのに、なんでこんなところに居るの?」
 口を挟む暇を与えないように、アリアは早口に話題を変えた。まだ言い足りなさそうに口を尖らせながらも、食い下がっている場合ではないと思い出したらしい。レンは盛大にため息を吐いて首を横に振った。
「エレンハーツ殿下が怪我なさったの」
「え?」
「軽い発作が起きて、持っていたカップを落とされた時に、怪我されたんだけど、侍医を呼ぶほどじゃないってんで、あんたを呼びに行こうと思ってたの。軽い治癒魔法で治して欲しいって。よく考えれば丁度良かったのね」
「丁度って、それ、余計前な話してる場合じゃないんじゃないの?」
「元気そうなあんたの顔見たら、文句言いたくなったの」
 ブツブツとぼやき続けるレンの背中を押して、アリアは慌ててふたりの王女の居る室へと案内させた。


 エレンハーツの怪我は、確かに騒ぎ立てるほどのものでもなかった。
 ……と思っていたのは本人とディアナの館の面子だけで、エレンハーツの元々のお付きにしてみれば卒倒する勢いのことだったらしい。ひとめ見て唾でも付けておけば治る、などと思ったことを口にせずして幸いだったというところだろうか。
「アリアさんのように若い方が医師の資格をお持ちだなんて、素晴らしいことですわ」
 白魚のような手が負った一筋の切創。跡形もなく消したアリアを見て、エレンハーツの侍女が目を輝かせて褒めちぎる。念のためにと治癒魔法を掛ける前に消毒に使った道具を片付けながら、アリアは背中にむず痒いものを感じていた。ディアナは「日常生活で負う程度の怪我など、食べて寝て放っておけば治る」と言い放つ性格である。実際の所アリアが医師として活躍する場面など殆どなく、つまりはそういった方面で褒められることに慣れていなかった。
 照れるアリアに微笑みかけて、エレンハーツも感謝を口にする。
「助かったわ。これからマエントの方にお会いしなければならなかったの。目立つ掌に包帯でもしていたら、何事かと思われてしまうところだったわ」
 ほっとした様子のエレンハーツにつられ、アリアも素直に喜びを感じた。その横で笑う声がある。
「そうですな。無体なことをされているのではと、使者どのが思われかねませぬ」
「大げさよ、ディアナ」
「今は国際関係も少々不安定にあります。僅かな問題が何に発展するやら、判ったものではありませんからな」


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