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 闊達に笑うディアナ。そこは笑う所じゃないと、突っ込めないこの場所がアリアには恨めしかった。義妹なら義妹らしく傷のこと自体を心配すればよいものを、そこのところ、ディアナはやや人間味に薄れた反応をする。心配しているのは変わりないのだろうが、これでは本人の身は気にしていないと思われても致し方ないだろう。
 アリアはフォローも兼ねて、気になっていたことを口にした。
「恐れながら殿下、発作の方は如何でしょうか」
 胸の病と聞いているが、詳しいことなどアリアが知っているわけもない。軽い発作、とレンは言っていたが、本人がたいしたことはないと思っていても、きちんと診察を受けた方がよいこともある。
 ああ、とエレンハーツは儚さの混じる微笑をアリアに向けた。
「本当に大丈夫なのよ。少し緊張してしまって、それが少し負担になっただけだわ。こういうことはよくあるの。病気と言うよりも、心が弱いからだと言われているの。本当、駄目ね」
 切り返す言葉が見つからず、アリアはちらりとディアナに目を向けた。僅かに口の端を曲げ、ディアナは了解の意を示す。
「緊張すれば、誰しも胸を痛くするものです。義姉上は日頃から発作に気を配る必要のあるお体、防衛反応が働いているだけでしょう。そのようなお顔をなさいますな」
「ふふ。ディアナは強いのね。羨ましいわ」
「認めるにやぶさかではありませぬが、しかし、少々度が過ぎて、野育ちよと笑われてもおりますな。フェルハーン義兄上にまで、義姉上の爪の垢でも煎じて飲めと言われる始末ですよ」
「まぁ……」
「義兄上こそ、ディオネル義兄上の遺影でも崇めるべきだと思われませぬか?」
 一瞬、誰のことかと眉根を寄せたアリアは、該当する人物に思い当たるや否、ぎよっとして半歩退いた。エレンハーツの侍女たちも困惑したように顔を見合わせている。
 ディオネルとは、先王ホランツの第四王子のことだろう。第一次内乱を制した第二王子の急死後王位に就き、更にその後、第二次内乱においてフェルハーン率いるエルスランツ勢と事を構え破れた、エレンハーツの実弟である。敵対した者同士を引き合いに出すなど何を考えているのかと、アリアは真意の読めぬままディアナに困惑の視線を向けた。
 エレンハーツは僅かに憂いを帯びた表情で、手にした香茶のカップに目を落としている。不穏な発言の主だけが、おそらく平然と――不敵な笑みを浮かべて皆の視線を受け止めていた。
「義姉上、そのようなお顔をなさいますな」
 誰がさせたんだ、と口元まで出かかった科白を、アリアは努力して飲み込んだ。
「亡き義兄上の武勇は、グリンセスの伯父から聞き及んでおります。それに高潔な意志をお持ちだったと。離宮の義姉上へのお見舞いも、多忙な中、こまめに通われたそうで」
「ディアナ、……でも、ディオネルは負けてしまったわ」
 何かを堪えるように、エレンハーツは震える手でハンカチを強く握りしめる。
「陛下とは正々堂々と戦った結果、恨みはないけれども、蒸し返して楽しい話でもないわ。……急にどうしたの、ディアナ」
「なに、あまりにグリンセスの伯父がディオネル義兄上を褒めるので、よほど出来た御仁だったのだろうと思ったまでですよ」
 グリンセス、――さりげなく含まれた言葉に、アリアは眉を顰めた。アリアの、一般的に知られている内乱の事情を思い返してみても、グリンセス勢とディオネル王子の両者間を繋ぐものはなにもなかったはずである。グリンセス公その人のことは詳しくは知らないが、弟のリュンデル・グリンセスを参考にするならば、公自身も他勢力の旗印たる王子を意味もなく褒める人物とは思えない。
 ディアナがわざわざ口にしたからには、内乱時、グリンセス勢とディオネル王子――歴史上認められていないとは言え、当時は王であったが――の繋がりに、エレンハーツも絡む何らかの意味があるのだろう。
 しばし落ちる沈黙。しかしやがて、観念したようにエレンハーツは首を横に振った。
「……フェルハーンどのに頼まれたの? 何か探ってこいって」
「いいえ、そのような使いっ走りの様な真似、頼まれてもごめん被ります」
 言い切って、ディアナは艶やかな笑みを浮かべた。
「わたくし自身が被害を受けておるのですよ。得体の知れない贈り物で攻撃されておりましてな。そう、ゼフィル式魔法とかいう未知の魔法が関与しているとか」
「え」
 むしろ「ぐぇ」と表した方が正しい音をのど元で発し、アリアは口元を引きつらせた。それに反応して、4対の目が一斉にアリアに向けられる。
 にやり、とディアナは皮肉っぽく目を細めた。
「何か、言いたいことでもあるのか」
「いえ、あの、その――……」
 よもや、こっそりと処理していたことがばれていたとは思ってもみなかったアリアは、返答に詰まって視線を彷徨わせた。だがそれも数秒のこと、ふたりの王族の問いかけるような目を無視することも出来ず、渋々といった様子でため息を吐く。
「ご存じ、だったのですね」
「なに、お前が倒れてたと聞いて、ヒュブラがわざわざ忠告に来たのだ。それで知った。彼は、原因が謎の贈り物にあると思ったようだ」
「あう……」
「心配は要らぬ。お前の隠し事を含めて全部聞いた後、彼には丁寧に謝辞を述べておいたからな」
 目が笑っていないのは、アリアの身に起こった事故の原因がそれであるという可能性に気付いているからだろう。ちなみにギルフォードには移動陣のエラーの原因について、思い当たる節はないと断っている。話し出せばややこしいことになると判断してのことで、特にその時のアリアは長く話す気力もなく、また他の魔法院所員に聞かれる可能性を考慮してのことだった。彼にはいずれ、相談しなくてはならないだろう。
「……申し訳ありません」
 多分に意味を含めてアリアが謝罪を口にすると、ディアナは僅かに目の力を緩めた。そして今度は、エレンハーツに向き直る。
「義姉上はご存じでしたか?」
「……」
「わたくしも話を聞いてから、少しばかり調べてみました。随分謎の多い魔法書だそうですが、驚いたことに、グリンセスの土地で発見されたそうですよ。鎌を掛けてみたが、伯父は魔法使いでもないのに、その本の存在を知っていたようですよ」
 これには、アリアが目を見開いた。
「現在は行方不明ですが、最後にそれらしきものが人の目に触れたのは、先王の時代、ここ王都の裏取引の場だそうですよ。それが本物だったかどうかの真偽はさておき、それは誰の手に渡ったのでしょうな?」
「それが、ディオネルだと言いたいの?」
 エレンハーツは、交渉事にはさすがに慣れていないらしい。ディアナの対している人物が例えばフェルハーンであれば、「誰が買ったんだろうね」などとすっとぼけた調子で切り返してきただろう。
 ディアナは香茶をひとくち含み、殊更含みのある表情でエレンハーツを見つめ返した。
「そこまで、飛躍できる材料は集まっておりませぬ故、何とも申せませぬが」
 真相を知りながらのらりくらりと躱しているのか、情報を引き出すためにはぐらかしているのか、アリアにも読み取れなかった。この狡猾さはある意味惨めな亡命生活と母親から受け継いだものだと判る。しかし、ディアナが交渉に使う情報源はどこにあるのかは、アリアにも知らぬ所だった。
 ディアナの持っていたカップが、受け皿に当たって儚い澄んだ音を奏でる。それを最後に、室内には再び沈黙が訪れた。
 この緊張感は、何度経験しても慣れることはない。今日のそれは張り詰めた緊迫感こそないものの、優しげな女性を問い詰めているという点に関して、いつもより遙かに居たたまれないとアリアは思った。そうして、自分も狸や狐にはなれないなと苦笑する。
 そしてまた、今度も同じようにエレンハーツが辛そうな表情を持って根を上げた。
「……ディオネルは、持っていなかったわ」
 落ち着いた目で、ディアナは義姉王女を見つめた。
「正確には、私にも判らないわ。ディオネルがそういったものを探していたのは、あなたが言ったとおりよ。でも多分、手に入れることは出来なかったのだと思う。……ディオネルは死んでしまったのだから」
 これは、当事者が既に語ることが出来ないため、という意味ではないだろう。もしゼフィル式魔法の本が見つかっていれば、それは利用され、未知の魔法を前にエルスランツ勢は大敗を喫していたと想像に難くない。ディオネルが負けた、グリンセスがあっさり手を引いた、その事実が結局見つけられなかったという結論へ導いていく。
(いや、違う――……)
 アリアは、考えた結果を自らすぐに否定した。
 全く探す手だてもない本を、切り札として見込むとも思えない。ディオネルはやはり、ゼフィル式魔法の本の行方に見当を付けていたと考えるのが妥当だろう。そしてそれに信憑性があったからこそ、――おそらくではあるが――グリンセス勢を味方に付けることが出来た。
 そして、脳裏に展開されるもうひとつの事実。ギルフォードの妹の死、つまり「沈黙の魔法」が実際に使われた例が、ゼフィル式魔法の実在を示すと同時に、何者かがその時期に手に入れたという証拠とも言えるのではないか。その時期、つまり第二次内乱の最中、である。
 しかし、ディオネルはその魔法を戦に使うことが出来なかった。それらの状況証拠から導き出される結論は、
「何者かに奪われた」
 ディアナの声に、アリアはびくりと体を震わせた。
「そしてその何者かは、今回の魔物騒ぎに関与していることが考えられますな」
「そんな、そんなことはあり得ないわ、奪われたなんて。ディオネルは本当に、皆に慕われていたのだから」
「対抗手段のない最強の魔法ともなれば、目の色を変える輩もいるやも知れませぬ。それに、内乱中に一度、ゼフィル式魔法と思われる魔法が使われている。今まで幻とされていた魔法、急に使われたのは、知識の持ち手が変わったためだとしか思えませぬな」
「え? そんな……」
「裏切りに遭い奪われたか、競り負けて手に入れることが出来なかったか、それは当事者でない限り判らぬこと。だが、ディオネル義兄が切り札として見込んだものを手にしながら、使用したと思われるのは一度切り。しかも戦局を変えるような重要な場面でもない。それを考えれば、他勢力が堂々と手に入れたとも思えぬのですよ」
 ディアナの言葉に含まれたものを、アリアは正確に読み取った。時の権力者が狙い、射程距離におさめた物を、全く関係のない第三者がそうと知らず手に入れたとは考えにくい。ディオネルの意図を知り妨害を目論んだ者の手に渡ったとすれば、逆にそれを利用してディオネルを追い詰めたことだろう。
 つまり、ゼフィル式魔法の本は、ディオネルに近しい者が横から掠め取った、そうディアナは言外に語っている。そうしてそれに、エレンハーツも気がついたようだった。
「……ディアナ、ひとつ教えて」
「なんなりと」
「ゼフィル式魔法はいったい、どういう魔法なの?」
 呟くような声に、ディアナは僅かに目を伏せた。そうして、ゆっくりと口を開く。
「詳しくはわたくしも聞いておりませぬ。ただ、人の魔法の流れを狂わせる、逆魔法だと言われておりますな。実際に使われたのは一度、魔法行使能力を封じるものであったとされております」
 エレンハーツははっと息を呑んだようだった。
「わたくしの元へ贈られてきたものにそれが刻まれていたのは、今世間を騒がせていることと無関係かも知れませぬ。ですが、思うのです。たかだがひとりふたりの魔法使いを黙させる程度の魔法、個人個人には相当の脅威ではありますが、大きく戦局を変えるほどのものではありませぬ。ディオネル義兄がゼフィル式魔法を切り札として望んだのは、それがその程度の魔法ではなかったと認識していたからこそではありませぬか?」
 ディアナの言葉に、アリアもまた深く息を吸い込んだ。魔法使いにとっては致命的な魔法、だがそれは、ゼフィル式魔法のごく一面なのだとする意見。そこに確たる根拠はないが、ディアナの語った過去の出来事が本当であるとすれば、それはおそらく推測の域を超える。
「このところの騒ぎは実に奇妙なもの、それは何らかの形で関わっていると、それは本当は、ディオネル義兄がかつて求めたものであったのではないかと思うのですよ」
「……」
「正直なところ、義姉上ならもしや何かご存じかと、義兄上とは無関係に少々探るつもりでしたが、……その様子では、何もご存じないようですな。ご無礼お詫び申し上げる」
 ディアナの言葉に黙して俯いたエレンハーツは、やがて、小さく拳を振るわせた。長年付き添っているであろう侍女ですら掛ける言葉を見失う中、掠れた声が紅唇より発せられる。
「……ディオネルが求め、奪われた……、もし、そうなのだとしたら……」
 きっ、と、水分を多分に含んだ目がディアナを射貫く。
「私は、ディオネルを騙し、殺した者を許さないわ」
「ふふ、……義姉上の潤んだ目には、くらっときますな」
「ディアナ!」
「まぁ、義姉上。わたくしを睨まないで下さい。わたくしは可能性を示したまで。その時、わたくしはイースエントから出ることも出来ず、こちらのことは何一つ知らなかったのですよ」
 低い、妙に静かな声に、エレンハーツははっとしたように口元を手で覆い隠した。確かに、数多く居る権力者の中で、ディアナだけは内乱中の全ての愛憎劇に無関係であると言える。
「ご、ごめんなさい。そうですね。あなたは無関係だったわね」


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