[] [目次] []



「ですが、今はそうでもありませぬよ。弱々しいとは言え自分に向けられた攻撃を、見過ごすつもりはないと申し上げよう。よからぬ事を企んだ輩には、相応の報いを受けてもらおうと思っております。お望みであれば、義姉上の前にも引きずり出して差し上げます」
 胸を反らし、艶然と微笑むディアナ。アリアは背後で曖昧な笑みを浮かべた。頼もしいと賞賛すべきか、少しは大人しくしろと毒づくべきか、侍女としては対応に困る王女である。
 多少合わせた部分もあるだろうが、エレンハーツも持ち直したように表情を緩めた。
「……ご歓談中、もうしわけありません」
 ごく僅かな軋みと共に、突然扉が開かれた。見計らったわけでもないだろうが、丁度話も一段落ついた頃合い、その場に居合わせた皆がごく自然に声の主へと視線を向ける。その先、優雅に礼をつけ、レンはにっこりと微笑んだ。
「陛下より、お言葉を預かって参りました」
「陛下?」
「はい。――先日より滞在中のマエント国からの使者が帰国の前に、エレンハーツ殿下に一言ご挨拶を申し上げたいとのことです」
「ええ。それは聞いているわ。それを待っていたの。あちらの準備はできたのかしら?」
「はい。差し支えなければ、賓客室までお越し下さいとのお言葉です」
 伝言とレンは言っているが、勿論直接国王から預かってきたわけではない。彼女は単なる取り次ぎで、数枚扉を隔てた先に本物の伝令、つまり国王直属の文官が待っている。つい先だって、思いつきで挨拶に訪れたフェルハーンのような存在こそが異例と言えよう。本来王宮では、中継ぎを介して面倒な遣り取りを行った上で漸く面会が可能となる。
 エレンハーツの躊躇はほんのわずかだった。
「判りました。すぐに参りますとお伝え下さい」
「レン、わたくしも同席して構わないかと聞いてもらえぬか? 貴賓室のあたりは人の出入りも多い。どんな輩が潜んでいるかも判らぬ場所であれば、わたくしも行くべきであろう」
「ディアナ、あなたがなにも、衛兵の真似事などしなくても……」
「お気遣いは無用。使者どのと込み入った話をなさるのであれば、一旦室内を点検した後で下がっておりますゆえ」
 エレンハーツに反論の余地はないと見て取ったレンは早速に引き返し、数秒も経たぬうちに了承の意を持ち帰ってきた。同じく伝令役に過ぎない文官が質問内容に安易に答えるとは思えない。つまり、レンは予めそういった質問を考慮にいれた上で、回答を得てから訪室したのだろう。
 自分でもそうするなと思い、アリアは苦笑した。なんだかんだと言いつつ、自分たちにはディアナのすることを止める気などないらしい。
「では、向かうとしよう」
 いつの間にか場を仕切っているディアナの後に続き、アリアもエレンハーツの室を後にする。王族の住まう王宮の奥から貴賓室まではほぼ一直線。重々しい扉が隔てていることを除けば、移動するに大した距離でも手間でもない。
 緩い歩みのエレンハーツに合わせてもわずか数分、精緻な文様も美しい扉を前に、見慣れない制服の騎士が立ちつくしていた。
「エレンハーツ殿下なる。お通しあれ」
 堂々と言い放つディアナに役目を奪われた形のアリアは、通訳に専念することを使命とした。つまり、説明もフォローもないディアナの代わりに、エレンハーツ以下数名の身分を告げ、やってきたことをマエントの使者に告げるよう依頼する。
 ディアナが王族と知って慌てたか、騎士は目を白黒させながらどうにか返しの口上を述べた。そうして、内側に控えた者に向かい、扉を開けるように声を張り上げる。
「マエントの者だな」
 ぼそり、と落とされた呟きに、アリアもまた首肯した。滑らかなキナケスの言葉ではあるが、微妙な訛がある。扉の外にまで自国の兵を配置するとは大した警戒ぶりだが、情勢を考えれば致し方ないことなのだろう。キナケスからの使者はマエント国内で暗殺されている。逆も充分にあり得るのだ。
 貴賓室の内部は国の威信を示すように豪奢で、そして限りなく贅を尽くした趣だった。美しさには目を見張るものがあるが、くつろぐという雰囲気とは真逆に位置するだろう。
「おお、殿下……」
 室の中央、華奢なテーブルの側で、痩身長躯の男が深々と頭を下げた。
「本来なら私がご挨拶に伺うところを、わざわざお越しいただき、恐縮至極に存じます」
 マエントからの正式な使者と言えど、身分は外交官に過ぎない。ましてや国力の差から、王族ですらキナケスの六領主とほぼ同列、キナケス王族で第一王位継承権を持つエレンハーツからすれば、三つ四つ地位的に下がる立場にある。王宮の奥に他国の者は入れないというしきたり上やむを得ないことであるが、格上の者を呼びつけたという構図はさぞ居心地の悪いことだろう。
 マエントの使者は、室内の奥に位置する席をエレンハーツに勧め、その横に椅子を用意させた。王女ふたりが腰を掛けたのを見計らい、自身も少し離れた位置の椅子を引く。アリアたちには無論、与えられる席などない。警備の兵の視線を受けながら、室内の壁際まで下がって用を待つこととなる。
 姿勢良く立ちつくしたまま動けないというのは、走り回るよりも存外に辛い。ディアナの元で厳格な規律とはかけ離れた侍女を勤めているアリアには、どうにも耐え難い時間であるが、幸いこの日は前置きとなる話も短く本題に入っていった。
「引退なさる、と?」
「はい。まだ正式に決定したわけではありませんが、ご意志は固いようです」
 マエントの王が、息子に王位を譲り引退するという話は、噂レベルであったが、キナケス国内でもまことしやかに広まっていた。驚くほどの報ではないが、外交官の口から語られると途端に真実に重みが増す。
「まぁ……。伯父上、いえ、マエント王には何の非もありませんのに」
 辛そうに眉を顰めるエレンハーツの横で、ディアナは大人しく口を閉じている。だが、内心一言あるだろうことは、完全な無表情をして取り繕っていることから容易に察せられた。彼女は、堪えているときにこそ表情を無くす。アリアはのど元だけで笑った。
 観客の多い中で王の引退を口にするあたり、既にマエント国内では決定していると捉えて間違いないだろう。キナケスとの関係をみて退陣により責任を取る、そういった姿勢を見れば潔いとも言えるが、彼はけして時勢の被害者ではない。一国の王として、対応を間違えたが故の引退なのだろうとアリアは思う。詳しくは伝わっていないが、ここ数ヶ月に起こった事件へのマエントの対応は、総じてあやふやではっきりしないものだった。彼は王としての力を試され、それに挫けたのだ。
 ただ幸いなことに、マエントでは外交官の暗殺事件以降、とりたてて災厄は起こっていない。領地間の関係悪化、魔物の出没等、東方に不穏を残すキナケスよりは、国内情勢としては遙かに安定していた。両国間の力関係、もとい国力差があからさまでなければ、キナケスは内憂外患という状態に陥っていた可能性もある。
「何者の仕業かは、私ごときに推測できるものではありませんが、一日も早く国内外が安定することを願います」
 キナケスの力の低下は、属国であるマエントにも影響を及ぼす。後ろ盾の脅威がなくなれば、それだけ反対の国境線が不穏になるからだ。心底安寧を願うように、マエントからの使者は憂いを浮かべた。
(不穏……)
 ふと、災いの火種を燻らせている東方へアリアは思いを馳せた。
(フェルハーン様は、どう収集つけるんだろう……)
 さして、心配はしていない。それ自体が不遜ということもあるが、これまでの振る舞いを思い出すにあたり、深刻な状況に陥っている彼というものが想像に難かったからだ。どんな場面を経ても、最後には飄々とした様子で笑って戻ってくるという気がする。
 そろそろ、東部地方へ着いた頃だろうか。
 噂好きのレンにも、何も情報は入っていないらしい。情報源であるヴェロナにも会えないと嘆いていた。アリアもまた、数少ない知人の顔を思い浮かべて小さくため息を吐く。エレンハーツたちの話はまだ続いていたが、聞き耳を立てるほどの話題ではなくなっていた。
(魔法院の人にも、アッシュさんにもお礼言ってなかったな)
 いる場所も判っている。連絡を取る方法もある。だが、王宮という籠の中では思うことしかできない。
 そのもどかしさの向くままに、アリアは窓の外へと目を遣った。

 *

 東方、そして時間は朝に戻る。
 王都の喧噪とは比べものにならないほど静かな片田舎、鳥の囀りと虫の音が高くなる気温とともに一日の始まりを告げた。カーテンの隙間から差し込む陽光が窓際の水差しの中で、不可思議な光彩に揺れる。
 布の擦れる音に、フェルハーンは下ろしていた瞼を細く上げた。
「――なんだ、もう、起きるのかい?」
 なだらかな白い背に呼びかけると、引き締まった筋肉の付いた、しかし細い肩がびくりと揺れた。綺麗な肌に、癒えきらない傷痕が如何にも痛々しい。僅かにうねりをもった鮮やかな金髪が滑り、フェルハーンはつられるように顔を上げた。
「いいね、この構図」
 憂いと動揺と、そして多分な羞恥を含んだ目に見下ろされ、フェルハーンは目を細めて笑う。
「前を隠す布がなければ、尚よし、なんだけど」
「な、――何を仰います。お戯れもほどほどに」
 女、ソニア・ジーンははっきりと顔を赤らめて、逃げるように立ち上がった。安物のベッドが軋み、裾のほつれたシーツが翻る。フェルハーンは上体を起こして、妙な寝癖のついた髪をかき上げた。
「可愛いね。でも、名残ぐらい惜しませてくれてもいいじゃないか」
「……」
「冗談。睨まない、睨まない。――睨んだ顔もいいけどね」
 言葉に詰まるソニアを横目に、フェルハーンもベッドから立ち上がる。それを見て、ソニアは小さく悲鳴を上げた。
「あなたは――、あなたは少しは羞恥というものをお考え下さい!」
「別に、見られて困る体じゃない」
 あっさりと言い放つフェルハーンに呆れたか、はたまた何を言っても無駄だと悟ったか、ソニアは何度か口を開閉させて、しかし結局は何も言わないまま部屋を後にした。乱暴に閉められる扉に向けて苦笑し、フェルハーンは椅子に掛かっていた衣服を身に纏う。
 宿の一階にある食堂にフェルハーンが降りたとき、既に同行者は朝食を卓の上に並べ終えていた。
「先に食べていても良かったのに」
「そういうわけには参りません」
 頑なな言葉の合間に、僅かな照れ隠しが覗く。
「まだここはザッツヘルグ領です。今日少し行けばセーリカ領に出ます。我がコートリアまで、最短距離で進みます。ですから、早く支度をなさってください」
「今までは随分ゆっくりだったね。ああ、ザッツヘルグの協力は得られなかったんだっけ?」
「何度もご説明致しました。ザッツヘルグからは色よい返事をいただけませんでしたので、通常の手順を踏んでここまで参りました。しかし、セーリカからは特例許可をいただいております。あらゆる道と関を通ることが出来ます。ですから――」
「気前の良いことだね。だけど、急がなきゃいけないから渡りに船、か」


[] [目次] []