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「上官命令だよ。しっかり聞きなさい」
 命令という言葉に、ソニアは短く息を呑んだ。地位として遙か上に位置するフェルハーンの口から出た命令は、彼女にとって絶対服従に近い。
「君は駐屯軍のところへ行って、町の人の避難を手伝うんだ。魔物を倒すことに兵を割く必要はないと言ってくれ」
「では、殿下は……」
「魔物は私ひとりで充分だ。むしろ、他に人はいないほうがいい。いいね?」
「は……、はい」
「では、行くんだ。くれぐれも、頼んだよ。……自分の役目は忘れないように」
「はい……」
 フェルハーンは念を押すように、ソニアの背中を軽く叩いて促した。そうして、軍の施設のある先を指さして示す。頼りない足取りで一歩踏み出したソニアの、問うような視線に向けてフェルハーンは緩く首を振る。ソニアは何度か振り返りながらそのうちに足を速め、躊躇いを残しつつも、やがては街角の先に走り去っていった。
「さて、と……」
 ひとりごち、フェルハーンは咆吼する魔物に目を向けた。
 見るからに醜悪。そして、魔力も全く美しくない。フェルハーンの目には、汚泥をかき混ぜたような靄が無秩序に魔物を取り巻いているように映っていた。
「自然発生したものじゃないな、あれは」
 他の者には区別の付かないことも、フェルハーンには一目瞭然だった。いくら凶悪な魔物であろうと、自然に存在する力が凝って成ったものは、純粋な力に満ちていて美しい。だが、命令を聞かせようと人の手を加えるほどに、本来ないはずの魔力と混じり濁っていくのだ。今見ている魔物は、吐き気を催すほどに濁りが強い。相当、無茶な処置が施されていると判る。
「まったく、酷いことを」
 フェルハーンに、魔物に対する嫌悪も恐怖もない。彼らは純粋な力の集合体で、善も悪もないと判っているからだ。人里に迷い込んだ魔物を討伐するのは、あくまでそこが人間のテリトリーであるからに過ぎない。深い森に入り込んだ人間が魔物に殺されたところで、それは自業自得だと思っている。
 出来るなら、本来居るはずの場所に還してやりたいとフェルハーンは思った。
 慣れない土地に迷いつつ、見失いようのない目印を横目に駆け抜ける。そのうち、魔物はどこからか攻撃を受けたのだろうか。身を捩った魔物の腕が高い建物に当たり、土煙が舞い上がった。防御か攻撃か、いずれにしても防衛行動なのだろうが、これでは逆効果だとフェルハーンは舌打ちを隠せない。
 本能のままに暴れ狂う魔物は、次々と町の建物を破壊していく。そこから散って降る飛礫と煙を払いのけながら、フェルハーンはようやく目的とする場所にたどり着いた。瓦礫の山と化した一角、魔物が悶え、苦しんでいる。さすがに、見える範囲、周囲には誰もいない。
「壮観だな」
 魔物は人の多く住む場所では力を無くしていく。故に、あまり大きな魔物に遭遇することはない。三階建ての建物よりも少し高い身の丈は、近づけば見上げるほど大きかった。
 当然、剣の届く範囲に急所はない。フェルハーンは弓を手にし矢をつがえ、最も魔力の濃い場所に狙いを定めた。魔法生物ともされる魔物の力の源泉、それは外見から判るところにあるとは限らない。だからこそ、人間は力の弱い魔物に対しても苦戦を強いられる。そして、その悪条件を軽々と覆す聖眼の持ち主は、故に魔物にとって鬼門に位置する生物となるのだ。
 ギリギリまで引き絞り、フェルハーンは冷静なままに矢を放つ。神技とまではいかずとも、彼の弓の腕は充分に一流の域に達している。外すとは露ほどにも思っていない。涼しい顔のまま、彼は弓を捨て剣を構えた。
 悲痛な咆吼が大気を震わせる。
 フェルハーンの狙い通り、急所をまともに射貫かれた魔物は一瞬動きを止め、悲鳴を上げながら崩れ落ちていった。のたうち回るでもなく、糸の切れた繰り人形のように抵抗もなく地面に倒れ込む。
 そうして落ちてきた頭部、その眉間に、フェルハーンは深々と剣を突き立てた。虚ろに上げられる、人の拳ほどの硝子のような目。力なくフェルハーンの上に点を結んで問うような色を乗せる。
「君には悪いことをした。……許す、還りなさい」
 その魔物の目に瞼があれば、瞬きの一つでもしたのかもしれない。
「君の、元いた場所に戻れ」
 注がれる、見えない強い力に抗う様子はなかった。静かに、目が光を失っていく。それに伴い、魔物の体は大気に溶けるように薄れていった。死んだのではない。凝っていた力が分散され、自然界に戻っていったのだ。いずれまた、人気の薄い場所で力は凝り、魔物は発生するだろう。
「さて……」
 魔物の姿が完全に溶けるのを待って、フェルハーンは顔を上げた。そうして、眇めた目を鋭く周囲に走らせる。剣を持ったのとは逆の手を閃かせたのは、それと殆ど同時だった。
「ぐっ……」
 くぐもった呻きが、ほんの数メートル離れた程度の場所から発せられた。奇妙なことに、何もないはずの空間に、刃先半分を失った短剣が突き立つように浮いている。
 フェルハーンは、皮肉気な笑みを口元に走らせた。
「隠匿の魔法、ね。悪いけど、私には全く無意味だよ」
 途端、空間が歪んだ。見えないヴェールを落とすように、突然、瓦礫の上に小柄な男が出現した。だが驚く様子もなく、フェルハーンは真っ直ぐに彼の姿を捉えている。
「く、……くそ」
「莫迦だね。魔法で作られた歪みを、私が見つけられないとでも? 君の姿自体は見えなくても、何もないところにあからさまな魔力の渦があったら、怪しまれると思わなかったのかい?」
「この、……化け物が!」
「おやおや、随分狭いんだね、君の化け物の定義は」
 口元だけで笑いながら、フェルハーンは男ののど元に剣を突き立てる。避ける暇は、なかっただろう。普通に歩く素振りを見せながら、突如向けられた剣の軌跡は、男にとってはあまりにも速すぎた。
「君たち魔法使いだって、魔法を使えない人に比べたら充分に恐ろしい存在だよ。君は自分も化け物と呼ぶのかい?」
「ま、魔力など、誰だって持ってる……」
「うん。皆持ってる。どんな人間でも自然界の生物なんだから、ごく僅かに持っている。君たちはその力が突出している。私とは違う方向にね。ただそれだけだ。化け物だなんだと、とやかく言われたくないね」
 切り裂くように冷たい声に合わせて、剣の切っ先が揺れる。
「ひっ……」
 慌てて身を後ろに引いた男に、別の衝撃が襲いかかった。いつの間にか、フェルハーンの左手に握られた剣の鞘。その先が、男と鳩尾に綺麗にめり込んだ。
「ぐふ、……」
 唾液とも胃液ともつかぬ液体を唇からこぼし、男は悶絶して地面に崩れ落ちた。その後頸部に追い打ちのように衝撃を加え、フェルハーンは短く息を吐く。煩わしそうに頭を振ったときには、既に興味を別のものに移していた。
「逃げられないだろう。彼のように苦しみたくないなら、大人しく出てくることをお勧めするよ」
 全壊をどうにか免れた建物、その柱の影がゆらりと揺れた。
「そうそう、素直なのが一番だ」
 薄く笑むフェルハーンに、魔法使いの好むローブを羽織った数人が、揃って憎々しげな目を向けた。奇妙なことに、顔と体が別方向を向いている。否、歩き出そうと踏み出した姿勢のまま、首から下が動かずに固まっているようだった。
「はい、ご苦労さま。還っていいよ」
 何の躊躇いもなく魔法使いたちに近づいたフェルハーンが、巫山戯ているとしかとれない口調でのんびりと言う。直後、軽く両手をたたき合わせた音が響くと同時に、魔法使いたちはバランスを崩して倒れ込んだ。
 そのひとりの腹に靴を乗せ、軽く体重をかけながらフェルハーンは口角を上げる。
「これが正しい魔物との付き合い方。判った?」
「何を……、いや、魔法など使えないはず。まさか、今のは魔物の……」
「気付くのが遅いね。王宮魔法使いの看板、下ろした方が良いんじゃないかな? ああ、とぼけても無駄だよ。私には特技があってね。一度会った人は滅多なことでは忘れないんだ。君のことも、当然覚えている」
 目を細めながら、流れるような動きでフェルハーンは抜刀した。仲間の陰に隠れて魔法式を口にし始めた魔法使いの口に、鋭い光を放つ切っ先を向ける。
「時間が惜しいんでね、選ばせてあげよう。このままここで死ぬか、君たちの後ろにいる者を吐いて解放されるか、どっちがいい?」
「く……」
「私はどちらでもいいんだ。君たちが何か言ったところで、所詮捨て駒の証言だから信憑性がないしね。さぁ、どうするんだい?」
 魔法使いの喉が、大きく鳴った。ギリギリの位置で止まっていた刃先にかかり、細く皮膚を裂く。血が流れるほどもない、ほんの皮一枚の接触はしかし、フェルハーンの冷ややかな視線も相まって恐怖を植え付けるには充分だった。
 震える手が、懇願するように胸の前で組み合わされる。蒼白な顔面から汗がしたたり、顎を流れて地面に小さなシミを作り上げた。
「……言う、言うから、見逃してくれ」
「素直だね。臆病で愚かだとは思うけど、そういうのは好きだよ」
 僅かに剣を下げ、フェルハーンは証言を促した。卑屈な笑みを浮かべたまま、魔法使いは口を開く。
「私は、頼まれただけです。証拠もあります」
「だから、誰に、と聞いている」
「そ、それは、――、――殿下もご存じの、ツ」
 ――おそらくは、人の名前を言いかけたのだろう。だが、それは僅か一文字で永遠に途切れることとなった。
 殆ど条件反射とも言うべき動きで、フェルハーンは後方に飛ぶ。重なり合った瓦礫の上で更にステップを踏んだのと、轟音が耳をつんざいたのとは同時だった。
「痛っ……」
 突然の爆発、その勢いに乗って飛来する飛礫を避けて、フェルハーンは更に距離を取る。第二弾に構えて上体を屈めたが、幸か不幸か相手の攻撃は一度切りだった。そしてそれは、一度で充分だったのだろう。
 舞い上がる土煙が薄れていく中、フェルハーンは数秒前まで立っていた場所に目を向けた。爆発の中心部、砕かれて原型を失った柱の一部が転がる中、焼け焦げて炭化したふたつの塊が、どす黒い煙を上げている。少し離れた位置で昏倒していた男の胸には、特徴のない、しかし実用的なナイフが深々と突き刺さっていた。
「なかなか、やるじゃないか」
 ひとりごち、フェルハーンは口端を曲げる。改めて的の所在を追おうとしなかったのは、それが無駄だと判っていたからだ。特に油断していたわけでもないフェルハーンから完全に隠れ通し、直前に一瞬の殺気を放った他は微塵の気配すら感じさせなかった手練れ。黒幕か魔法使いの監視役かは判らないが、今更探して見つかる相手ではない。直接的な戦闘能力はともかく、隠れて行動するという点に関しては確実にフェルハーンの上を行くだろう。
 逃げた敵のことは頭から切り離し、フェルハーンは周囲を見回した。おそらくは魔物の出現した位置からこちら、延々と破壊の跡が町を穿っている。特に、フェルハーンの立つ一帯は無惨な有様だった。復興も、容易にはいかないかもしれない。


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