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 冬でなくて良かった、とフェルハーンが短いため息を吐き出したとき、少し離れた場所で、瓦礫の崩れる音がした。
「ひ……」
 短い悲鳴。向けた目に、煤け汚れた様相の女がひとり映る。遠目にも判るくらいはっきりと震え、恐怖に歪んだ顔でフェルハーンを見つめていた。
 迷ったのは、一瞬。しかし、フェルハーンが口を開くより、女の喉が高く鳴る方が早かった。
「誰か! 誰か来て、助けて!」
 女の中で、どんな勘違いが生じたのかは考えるまでもない。フェルハーンは冷静に魔物と対峙し、語りかけるように命令を加え、魔物はそれに従った、それだけで充分だった。更に止めのような爆発まで起こっている。一連の会話を知らず、遠くから事を見ていた者の目にどう映るのか、おそらくは思い違えるなという方が無理なのだろう。
 人は、すぐに集まってきた。女の悲鳴もさながら、やはり魔物の姿が消えたという事実がものを言ったようである。自警団、そして走ってくる面子の中には軍の関係者も居た。それぞれ面持ちは異なれど、如何にも不審気な眼差しをフェルハーンに向けていることだけは共通している。
「何があった!?」
 ザッツヘルグ騎士団の服を着崩した男が、女に向けて詰問に近い声を上げた。数人、後ろに伴っていることから、隊長格であることが判る。不必要に攻撃的なのは、虚勢を張っているに過ぎない。意味もなく当り散らすのは、事が彼の処理能力を完全に超えてしまっているせいだろう。
「女、何故ここにいる!? 逃げろと言ったはずだが?」
「足を痛めて、――ここで」
「……ふん、それで、何か見たのか?」
「え、ええ、あの、あの男が、魔物を操っているのを……!」
 掠れた、音程を間違えた叫びに、周囲の視線が一気にフェルハーンに集中した。単なる不審から、怯えと憎悪を含んだ空気が場を取り巻いていく。
 肩を竦めて、フェルハーンは困ったように笑ってみせた。
「否定したいところだけど、間違ってはいないんだよな……」
「貴様、では、認めるのか!?」
「操りはしたけど、魔物を呼び出したわけじゃない。単に居合わせただけだよ」
 フェルハーンとしては全く正しいことをそのまま告げただけだったが、集まった人々は受け止め方を違えたらしい。興奮と懐疑と恐怖をない交ぜにしたような奇妙なざわめきの中で、如何にも常識的な言葉を投げつける者がではじめた。
「魔物を操るだなんて、そんな人間が沢山いるわけないだろう!」
 ごもっとも、とフェルハーンも内心では同意する。その動揺の欠片もない態度が、余計に油を注いだのだろう。人々は口々にフェルハーンを罵りだした。
「何が目的だ、何で町を滅茶苦茶にしたんだ!?」
「東の方で魔物が出たのも、お前のせいか!」
「どうしてくれるんだ!」
 絶対的な恐怖が去った後の、一種の恐慌状態。まともに相手にするべきではない。
 フェルハーンは敢えて反論もせずに、投げつけられる罵声を聞き流していた。物理的な危害まで及ばないのは、今は消えた魔物を警戒しての事だろう。殊勝な顔を作り僅かに俯きながら、フェルハーンは町民を煽動しているだろう人物を捜していた。
 そこに、高い悲鳴のような声。
「フェルハーン殿下!」
 眇めた目に、金髪の美女が映る。
「これは、いったいどういうことですか!?」
「ソニア……」
「町の者が、魔物を操るあなたを見たと……、軍の魔法使いが、あなたが魔物を呼び出したと」
 震える声が、緊張を伝え来る。
 ああ、そういうことだったのかと、フェルハーンは小さく苦笑した。――そういう、シナリオだったのか。
「私は魔物を操ったし、今さっき確かに魔物を使ったけど、この町を破壊したのを呼び出したわけじゃないよ。だいたい、この町を壊したところで、私が何の得をするんだい?」
「それは……」
「自作自演で、魔物を倒して町を守ったなんて美談を作りたいならもっと上手くやるよ。それに、私が魔物を操れるのは周知の事実だろう。それを使って魔物を鎮めたところで、何の問題があるんだい? だいたい、コートリアはこの力を求めて招いたのだろう?」
 至極もっともな言葉に、ソニアは言うべき言葉を詰まらせる。集まった町の者は事の成り行きについていけず、戸惑ったように顔を見合わせていた。罵声の代わりに、疑心と困惑が場を支配し始める。
 どうしたものかと、フェルハーンは顎に手を当てて考え始めた。こうなると、魔物を呼び出した犯人である王宮魔法使いが死んでしまったのは痛い。聖眼でなくとも魔物は呼び出せることは、実はあまり知られていないのだ。召喚にさえ成功すれば、いちいち操らずとも魔物は勝手に暴れてくれるのだが、普通は自分に危害が及ぶことを恐れて安易に召喚したりはしない。故に魔物を敢えて呼ぶのは操ることの出来る聖眼の持ち主、という構図が一般的であり、それを覆して無実だと言い張るには証拠をなくしては苦しいだろう。
 ソニアの証言は役に立たない。何より、フェルハーンを追い詰めるかの如き彼女の下手な演技は、彼女に充てられた役割を示して余りある。
「参ったね」
 言葉ほど困ってはいなかったが、時間を無駄に出きないことは確かである。誤解を受けようが罪をなすりつけられようが、フェルハーンにとってはどうでもいいことだったが、やったやってないと問答する手間暇は如何にも惜しかった。
 手にしていた剣を鞘に収め、フェルハーンはソニアと、彼女の背後に立つ偉丈夫に声を掛ける。
「とりあえず、騒ぎの犯人捜しは後にしないか?」
「なに……」
「私が犯人だというなら、ここを去れば当面の危機は収まるだろう? その上で、私を裁きたいなら別の場所に移動しよう。逃げるつもりはないし、弁明しろというなら幾らでもするが、あいにくとやるべきことがあるのでね。こんなところで足止めされるわけにはいかないんだよ」
「勝手なことを仰っては困ります」
「そうだね、まぁ、これは私の都合だけど」
 頷いて、フェルハーンは薄く笑む。
「拒否するなら、……力づくで通るまでだ!」
「殿下!」
 悲鳴、それに重なるようにフェルハーンの唇が高い音を奏でた。
 直後響く、馬蹄の轟き。今までどこに待機していたのか、瓦礫だらけの不安定な足場もものともせず、堂々たる体躯の馬が主人のもとへ駆けつける。止める間もない、流れるような動きであっという間に馬上の人となったフェルハーンは、手綱を手にソニアに振り返った。
「約束通り、私はコートリアに行く。逃げはしない。必要ならば、追いかけてきなさい」
「殿下、お待ちを!」
「悪いね。私にも、役割というものがあるんだ」
 言うや、馬の腹を足で叩く。よく馴らされた馬は、一声高く啼いて主人の意のままに従った。
「――待て!」
 ソニアの後ろから、男が出て制止の声をかける。だがフェルハーンは見向きもせず、町人の間を縫って馬を疾駆させた。
「逃がすな、門を固めろ!」
 駐屯軍の兵が声高に指示を出す。伝令が飛び交い、訳も分からぬまま混乱に陥る町人を余所に、兵達は緊急時の持ち場へと急行した。本気でフェルハーンを疑っていると言うよりも、町の治安維持に務めるものとして、皆の怒りを集中させる容疑者が必要だったのだろう。そして若い兵は状況についていけないまま命令通りにとりあえず動いているという、フェルハーンにとっては非常に判りやすい構図だった。
「いたぞ、――あっちだ!」
 ごく標準的な規模の町ではあるが、交通の要所だけに堅牢な造りをしている。城郭都市を取り囲む壁は高い。そして、分厚い壁の上には常に歩哨の姿があるとなれば、必然、逃げる手順として門をくぐることが大前提となる。
 通常であれば当然、門を押さえた方が捕り物劇を制しただろう。通用門の警備に集中するという、駐屯兵の判断はけして間違ってはいなかった。
 ただ、
「隊長、北東の壁が!」
 物見台の兵が、悲鳴に近い怒鳴り声を上げる。
「崩れています、――逃げられます!」
「何……!」
 フェルハーンは当然、町の者よりも遙かにこの土地の地理に疎い。街に入ってきた時にくぐった門の位置以外は把握すらしていなかったわけだが、この状況においては詳しくある必要はなかった。
 建物の崩壊の酷い方向、つまり魔物が侵入してきた方へと行けば、必ず町の外へ通じる場所がある。更には二次的な倒壊を恐れて、近づく者も殆どいない。逃げろと言わんばかりの道を、フェルハーンは馬と共に駆ける。彼の馬術を持ってすれば、それは全く困難な道ではなかった。
「矢を放て、馬を狙え!」
 命令だけは飛び交うが、疾走する人馬に狙って当てることのできる達人はそうそうに居ない。あるものは完全に狙いを外し、あるものは崩れかけた建物に阻まれ、偶然狙い通りに飛んだものも、攻撃対象によってすんでのところで払い落とされる。馬の制御と防御に徹したフェルハーンにとって、大した弓勢もない矢を避け落とすことは難しいことではなかった。
「弓が……!」
 そのうち、城壁の上から別の悲鳴が上がり始めた。
「何事だ!?」
「弓兵が狙われています! 何者かが、どこかから射ているようです!」
「仲間か!? しかし、そんな情報は……」
「?」
「いや、なんでもない。それより。馬はまだか!」
「それが、先ほどの魔物出現により、馬が興奮状態で……、そ、それに何故か厩舎が開け放たれ、馬が逃げているようでして……!」
 駐屯軍の隊長は、部下の蒼白な顔面を見下ろし、拳を握りしめた。このままでは逃げられるという焦りが、苛立ちを水増しする。フェルハーンは全ての部下を王都に置いてきた。なのに何故、弓兵を攻撃し、馬を放つ者がいるのか。
 ここまでフェルハーンを連れてきた女騎士に、怪しい動きはない。常にフェルハーンを追う兵と共に走り回っている。――では、誰が。
 このときフェルハーンもまた、駐屯軍隊長と同じ考えを抱いていた。自分を援護する者がシクス騎士団員でないことは、彼が誰よりも知っている。信頼できる面々は、ある目的のために全て置いてきた。また、国王の信用できる手駒は少ない。フェルハーンのために割く人員などいないであろう。
 ふと、ひとつの考えが浮かび、フェルハーンは短く苦笑した。――あながち、間違っていないかも知れない。そう思い、だがそれ以上の追究は意図して放棄し、逃げることに集中をする。
 弓による攻撃が弱くなったことを幸いとし、フェルハーンは更に直線的に馬を走らせた。いよいよ、見上げるほどに高い城壁が目前に迫る。
「殿下……!」
 おそらくはソニアの、高い声を背にフェルハーンは倒壊した外郭を越えた。その背に、大気を裂いて飛来する矢。幾つかを避け、幾つかを払い落とし、防ぎきれなかったものがフェルハーンの衣服を掠めて地面に突き刺さる。
「ごめんね」
 呟き、しかしフェルハーンは振り返りはしなかった。悲鳴と怒号と、多くの制止の声を後ろに、街道を疾駆する。
 罠を張っておきながら、逃げられたことを敵は悔しがっているだろうか。だがフェルハーンには、逃げるつもりなど全くなかった。いずれ望み通り、手に落ちてやるつもりさえある。その前に、するべきことがあるだけだった。
「悪いが、もう少し頑張ってくれ」
 長年、共に戦い続けてきた馬を労い、き、と前を見据える。
 向かう先はエルスランツ領。
 そこに、フェルハーン目的とするものがあった。




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