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 (十)

 東方でフェルハーンが濡れ衣を着たまま逃亡した日の夜、奇しくも同じように窮地に陥っている男があった。
(なんでこー……なりますかねぇ……)
 盛大なため息を吐き出しつつ、ティエンシャ公、ユラン・ティエンシャは細い肩を落としその場に座り込んだ。塵ひとつない磨かれた床が、眉をハの字に下げた男の顔を映し出す。
 ユランが歩いていたのは王宮の一角、正確な場所は――彼にも、判らなかった。如何にも使用頻度の低そうな通路であるにも関わらず、繊細な装飾が施されているため王宮と判断しているが、それにしても自信があるわけではない。つまりは完全に、彼は迷っていた。
(ああ、またオリゼに怒られてしまうなぁ……)
 ポケットの中にある二枚の金属の板に触れながら、喜怒哀楽の激しい幼なじみを思い、目を瞑る。瞼の裏にはいつだって容易く彼女の姿が映るというのに、目を開ければたちどころに失せてしまう。様々な意味で自領の騎士団長に会えるだけ事態が好転することを願っているのだが、現状の彼が向かっているのは、それとは真逆の方向だった。
 無論、彼は好き好んで迷っているわけではない。むしろ、故意に迷わされたというべきだろう。
 ユランが与えられていた部屋を出たのは小一時間ほど前。そろそろ就寝と思っていた矢先に、特使が訪れたのだ。あまりといえばあまりな時間、それも突然の訪問、怪しむ要素は多分に存在したが、国王の呼び出しとあっては、嘘と確定するまでは従わざるを得ない。弱い立場である以上、強硬な姿勢を取ることは選択できなかった。
 そして、その判断に後悔という評価を付けるまでに要した時間はわずか3分。不意を突かれ殴打された後頭部は、未だに鈍痛を伴ってユランを悩ませている。気がつけば見知らぬ場所でしたという、非常にありがちなパターンの中、縛られる等の歩行不能状態でなかったことは、――果たして幸いと見るべきか、まだ罠が控えていると見るべきか。
 絶対後者だ、と思いながらこめかみを押さえ、ユランは我が身の不幸を振り返った。長く離れて久しい、自領の喧噪が今では随分と懐かしい。
 ユランがティエンシャ公として王宮に呼び出されたのは、もう半月以上前のことである。目的は事情聴取、実際には吊し上げ、実質全ての権を凍結させられた上での勾留というのが、彼に下された暫定処置だった。もともと城砦の権利の件でもめている上に、自領の騎士に他国での暴挙及び外交官殺害の容疑がかかったとあっては、領主の管理責任が問われても致し方ないと言える。正式に王都へ呼び出されるまでに、真相を究明できなかった自分の能力が足らなかったのだと、そのあたりはユランなりに腹をくくっていた。それなりの資料を揃え、自ら釈明すべきと王都にやってきたものである。
 だが現実、ユランへの事情聴取は殆ど行われていなかった。東方の魔物絡みの混乱や王女エレンハーツの来訪、それに伴う人事の異動などが重なり、待機と言う名の放置状態が続いていたのだ。こうなると、ティエンシャ公としての予定は大幅に狂う。ティエンシャ領に統治代行人は置いてきたとは言え、領主と全くの同権を有するわけではない。勾留が長期になるにつれて未決裁の事項は溜まり、領地の運営に差し障りが生じてくるだろう。ティエンシャ領は商業で成り立っている地域、処理の遅れがいずれ経済混乱を引き起こしていくことは避けられない。
(早く戻らないといけないのに、というか、それ以前に元の部屋に戻らなきゃまずいんだけどなー……)
 採光窓ひとつない細い内通路は、ぼんやりと光る灯りの魔法に照らし出されていたが、とりあえずどうにか視界が利くという程度で先の見通しは悪い。位置と方向感覚を狂わせる為としか思えない道を眺めやり、ユランは再度肺腑から息を絞り出した。そうして、如何にも重い腰を上げる。
「行くしか、ないですしねぇ……」
 見知らぬ場所ということは、王宮内の許可された範囲と出たということと同義、その時点で王命無視の罪状が加わってしまっている。今更この場で大人しく待っていても、その現実を取り消すことはできないだろう。はっきりと判る危害が何一つ与えられていない以上、騙されたと主張しても信じてもらえる確率は低い。
 故に、ユランは進む方を選択した。罠が待ちかまえているにせよ、進めば何らかの――悪意ある者すら意図しない、別の道が発生してくる可能性もある。
 自棄混じりではあったが、少なくとも前に進む気があるうちは大丈夫だと、彼はそう、自分自身を励ましながら歩き始めた。
 
 *

 高く澄んだ音に、アリアは弾かれたように上体を起こした。仮眠用のベッドから素早く立ち上がり、手櫛を入れつつ扉を開ける。
「起きていたか」
 暗い部屋の中、同じように緊張を身に走らせたディアナが、鋭い目をアリアに向けた。短く首を横に振り、アリアは主人の横に並ぶ。
「勝手ながら、ディアナ様の結界魔法に便乗させていただきました」
「――なるほど」
 王宮へ上がった後、ディアナは寝泊まりをする室の周囲に、侵入者を感知する結界を設けていた。防御結界ではないため侵入を防ぐことは不可能であるが、そのぶん、さしたる力を要しないために広範囲に長く張り続けることが出来る。アリアはそれに自らの魔法を重ね、自分にも感知した場合の警報が響くように細工しておいたのだ。
 ――無論、ディアナの無茶を止めるため、である。
「今のは、エレンハーツ殿下の部屋周囲に張ってあった網ですか?」
「ああ。侵入者だ」
 苦い顔で、ディアナは廊下へと続く扉に手を掛けた。彼女が身に着けているのは至って簡素な室内着だったが、寝室を出て歩き回るにおかしなものではない。明らかに室内用ではない頑丈な靴に愛用の剣と、ディアナの準備は既に整っていた。
「アリア、お前はここで待っておれ」
「行きます」
「魔力が足らなくなった場合はどうする。ここでは、どうにもならん」
「大丈夫です。かなり余裕がありますので」
 胡乱気な目でディアナはアリアを見つめたが、数秒して諦めたようだった。問答している時間が惜しかっただけかもしれない。
 ディアナの寝室から応接室を抜け、廊下へと走る。夜気が頬を掠め、アリアは普段にない感覚に眉根を寄せた。建物の内側にあるはずの通路に、不思議な風の流れがある。どこか突き当たりの窓でも開いているのだろうかと頭を巡らすも、さすがに遠くまでは見渡せなかった。特にこの付近は人の熱を感知して自動で灯魔法が作動するため、ごく近い周辺以外の場所は殊更に暗く感じられる。
(……闇夜に近い)
 つまりは、侵入しやすく、逃げやすい。狙って来たと見るべきだろう。外敵の可能性をディアナに知らせようと、アリアは口を開く。そのとき丁度ディアナは、エレンハーツの室の扉に手を掛けていたのだが、
「きゃぁぁぁぁぁーっ!」
 突然、大気を裂いて、高い悲鳴が響き渡った。今まさに、向かっていたその先の部屋より発せられたものである。
「! 義姉上!?」
 勢いのままに扉を蹴破り、ディアナはエレンハーツの室に走り入った。そのまま更に奥の扉を叩く。
「義姉上、どうなさいました!?」
 寝室には当然、鍵が掛けられている。内側にいるエレンハーツ本人か、奥に控えている侍女が鍵を開けるしかないわけだが、いつでも中の方に余裕があるとは限らない。今がその典型的なパターンだった。
 状況が掴めない、扉は開かない。くぐもって聞こえる音から察するに、中はかなりの混乱状態にある。警備の兵が駆けつけてくるまでには十数秒のタイムラグが生じるだろう。それが致命的にならねばよいが、とアリアはディアナの顔を伺った。
「離れていろ、アリア」
 いつになく緊迫した声に、アリアは反射的にディアナから距離を取る。そしてそれは、最も正しい行動だった。
 語尾から僅か一秒、いつの間にやら手にしていた抜き身の剣が、鮮やかに宙を薙ぐ。一寸の狂いもなく落とされた白刃は、見事に取っ手を砕いて高い音を奏でた。乱暴に扉が開かれ、弾かれた金属が飛来して床と壁を叩く。アリアが構えを解いたとき、既にディアナはエレンハーツの寝室へ躍り込んでいた。
「何事です!?」
「ディアナ!?」
 壁際に侍女、寝台の上にエレンハーツ。共に外傷はないようだった。それに安堵して、アリアは短く息を吐く。
 同時に、逃げようとする人の動きが目の端を掠めた。寝台から垂れ下がる紗がふわりと煽られて揺れる。不意を突くような素早い動きだったが、ディアナの反応の方が僅かに速かった。
「逃がすか!」
 素早く魔法式を詠唱したディアナの手から、剣の柄が飛ぶ。それは勢いを持って床に突き刺さるや否、細かい網を空中に展開した。柄を拠点とした捕縛魔法である。中級魔法ながら、実戦効果は高い。
 だが、逃げる侵入者を捉えたのはほんの一瞬だった。横合いから飛来した短い矢が、その軌跡に沿って魔法の網を裂いたのだ。行き場を失った魔力が一瞬、光の粒となって闇に溶ける。
(仲間――!?)
 ディアナが攻撃している間にアリアは、エレンハーツを庇いながら寝台から遠ざけた。侍女と同じ場所に座らせ、簡易結界で覆う。そうして保護対象を安全圏に確保した後、アリアは窓際へと駆け寄った。
「右!」
 発した声は短かったが、ディアナの反応は素早くそして的確だった。アリアの意図するところを読み取ったディアナが大きく左に傾くと同時に、開かれた窓から突風が吹き込んだ。重い花瓶が一瞬で床に落ちるほどの風圧。まともに食らえば、人間など簡単に圧死するレベルである。だが、意図して風圧をかけた範囲は狭く設定していた。
 対象が避ける隙を残した攻撃。逆に言えば防ぎようもなく、一定方向に逃げるしか生き延びる選択肢は存在しない。転げるように逃げた黒い影に向けて、ディアナが容赦ない一撃を放つ。雷鳴にも似た、短くも鮮やかな光の一閃。
「……!?」
 しかし、確実に仕留められたはずの一撃は、またしても別方向からの魔法によって鋭く弾かれて消えた。はっきりと判る侵入者の数はひとり、だが、現実には複数の敵。その示すところはと考え、アリアは次の一手を計算して弾き出す。
 短い魔法式の詠唱。
 アリアの放った魔法が何者かの足を絡めた。魔力はさして必要のない、しかし操作性において相当な高等技術を必要とする、難易度の高い魔法である。攻撃対象は姿の見えない敵。おそらくは、唯一いると判っている人物を守る者。
 足を絡めたその者は、短く舌打ちをしたようだった。だが、完全に決まった魔法が持続したのはほんの数秒。やはり横から加えられた的確な解除魔法がその効果を打ち消し、侵入者を解放した。そこに負けじと、アリアも捕縛の魔法を連発する。


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