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 (十一)

 その日、少女は奇跡を見た。

 キナケス王国、エルスランツ領東ウェリスの森。冬は雪深く人を拒絶する森も、8月ともなれば穏やかな木漏れ日の涼しい森へと変貌する。付近の村に住む者の格好の散策場所でもあり、遠くから避暑と療養に訪れる者も稀ではない。
 だがこの年、森の中は閑散としていた。人はおろか、獣たちも息を潜めて隠れている。原因は、通常の生物とは異なる生態をもつ魔法生物、所謂魔物の異常発生にあった。
 もともとウェリス山は、古くから存在する山であり、人の手の加わらぬ自然がそのままに残っている。それ故に魔物が多く生息しており、山奥深く踏み込めば遭遇することも稀な確率ではない。だがその性質上、人里近い麓の森に姿を見せることは殆ど無い――はずだった。
 「今年は森に行ってはいけない」。遙か南の村が魔物により焼失する少し前から、少女の住む村でも魔物の目撃情報が交わされており、子供達は口々に親以外の大人からもそう注意を受けていた。少女も語り聞くその生き物を、想像ながら怖れ怯えていたものである。
 だから、彼女はけして、好奇心や悪戯心で森に踏み入ったわけではなかった。彼女の家に物心ついたときから住んでいる、今は年老いた猟犬が、村はずれの小道で黒い霧に吸い込まれ、引きずられていくのを目撃してしまったのだ。
「ひっ……」
 瞬間的に、話に聞く魔物だと気付いたが、逃げようにも足が思うように動かなかった。カチカチと歯が鳴り、見開いた目が黒い塊を凝視する。強張り、立ちすくむ小さな体を、霧の中から向けられた視線が捉えるには、数秒も必要としなかった。
 悲鳴を上げる余裕もない。
 年老いた犬の鳴き声を近くに聞きながら、少女もまた抗えぬ力で森の方へと引っ張られていった。魔物は人が苦手ではなかったのかと、混乱する頭が、何かの間違いであって欲しいとただひたすら願う。
 森の中は、静かだった。あまりにも、異様なほどに息苦しい静寂が支配していた。そのうちに、少女の体にも異変が起こっていく。森深く入り込むほどに、手足は鉛のように重くなっていった。
(助けて……)
 言葉もなくそれだけを思う少女は、それ故にその瞬間のことは、覚えてはいない。ただ急に、絡みついた束縛が失せていくのだけを感じた。
「大丈夫?」
 恐る恐る、瞼を上げた目に映る陽光。鮮やかな朱い髪が風を受けて翻る。
 ぼんやりと、その笑顔を見上げていると、彼は突然少女を抱え上げ、あやすように背中を軽く叩いてみせた。
「もう、心配しなくていいよ」
「……」
「うん、なるほど、なかなか綺麗な力を持ってるね。まぁ、だからこそとも言うけど」
 ひとりごち、紫の目を弓なりに細めて少女を見遣る。
「村の近くまで送っていこう。歩けるかな?」
 首を横に振ると、彼はもう一度笑ったようだった。少女を抱え直し、それを苦とも思わない軽い足取りで村の方へと歩き出す。
 誰だろうと思ったが、それは今の少女にはごく些細なことだった。魔物から逃れられたという安堵が、他の警戒心を大きく上回っていたのだろう。後で考えるに驚くほど素直に、青年の首にしがみついた。
 怠い体、規則正しい歩調が、次第に眠気を誘う。
「……遅くなって、ごめんね。でも、もう大丈夫だから」
 穏やかな声。高くも低くもなく、聞く者を安心させる響きを持っている。
 本当に助かったのだと、そう思いながら、少女はゆっくりと意識を手放していった。

 *

 大陸の北東の端、ルーツライン国との国境に面したコートリア地方は、穏やかな気候の直轄領である。延々と広がるなだらかな大地と細く流れゆく河。おおよそ牧歌的な風景の広がる領土の一角に、コートリア騎士団の砦はそびえ立っている。それが異質と感じられないのは、破壊され朽ちた外壁や放逐された村の跡が点々と、広範囲にわたり遺跡のように砦を取り巻いているからだろう。
 今でこそゆっくりと時の流れる領土であるが、北にエルスランツ、西にセーリカと面し、かつてはキナケスの飛び地、東の要として何度となく戦乱と舞台となっていた。矢と炎に包まれながらも陥落することのなかったコートリア騎士団の砦は、どこよりも多くの戦の記憶と歴史を持ち、古めかしくも堅牢で重厚な威容を誇っている。
 キナケスが国として周辺を安定させた今では、かつてほどに重要な役割を得てはいないものの、その戦歴に憧憬を抱いてか、騎士団の門戸を叩く者は多く、選抜されここに務める者の矜持は高い。どこよりも厳格な規律であるにも関わらず、皆それを遵守して領土の安定に務めていた。
 コートリア騎士団副団長、ウルラ・フランジも己の仕事に誇りを持って携わっている者のひとりである。この日も、数ヶ月の間にすっかり寂れてしまった街道はずれの道を、疎かにするでもなく丁寧に巡回していた。
「皆、避難してしまいましたね……」
 人通りの絶えた道を見回しながら、部下のひとりが寂しそうに呟いた。確かに、とウルラは深緑の目を細めて、遠くを眺めやる。
 主要な道ではなかったがそれでも、近隣の村人やルーツラインへ向かう旅人がゆっくりとした歩調で行き交っていた。数人と並んで通れない狭い道を、互いに譲り合いながら進み行った、その遣り取りが今では懐かしい。遮るもののない道は寂しいものだと、ウルラは長くため息をこぼした。
「いっそ、魔物に出くわしたいですね」
 魔物が頻繁に出没する地域を巡回する騎士は、当然魔物に遭遇することもあった。大概は追い払い、自然に消滅するのを待つわけだが、中には命を落とした者もいる。
 ここ数日、巡回しているにも関わらず、一度も魔物と遭遇しないのは幸運と言った方が良いのだろうが、それはそれで、倒す機会もまた失われているということに他ならない。必ず仕留められるという過剰な自信はなかったが、月日を経て弱体化したものなら、という思いがある。
 安易に同意は出来ないと思いつつも、ウルラは同じ心情のまま頷いた。領内を荒らし回り、人々を怯えさせる魔物、出来ることならこの手で倒したい。
「私にも聖眼があれば、な」
「皆、そう思ってますよ。折角の力を、人を傷つける方向にしか使えないなんて、創造主という者がいるなら、恨みます」
 キナケスは小規模の国が集まって出来た国であり、領土を広げ始めた王が各地の文化の自由を認めたこともあって、国教というものが存在しない。宗教は人々の意識をまとめる上で非常に有効だが、同時に諍いの種を生むことにもなると、歴代の王も特にこれを定める事をしなかった。故に、崇める存在は出身地や親兄弟、周囲の状況により多岐にわたる。どの宗教が大規模ということはなく、万物には精霊が宿るとされる無宗教に近い精霊信仰を、朧気に自覚しているという者が一番多い。
「殿下も、公正な方だと聞いていましたが、何の魔が差したのでしょうね」
 部下の漏らした一言に、ウルラは引っかかるものを感じた。
 コートリアへ向かう途中、ザッツヘルグ領内で突然王弟フェルハーンが魔物を街に放つという暴挙に及んだ。しかし、「魔物が出て街が破壊された」「聖眼の王子が魔物に命令を下していた」「言い訳もせずに王子は逃げた」という三点の事実以外は、どうにも腑に落ちないことが多い。
 首を傾げてウルラは、考えをまとめるために休息を取ることを選択した。強い陽射しの中、ただ巡回を続けるだけというのもどうにも辛い。丁度、村人が他村に避難したことで無人になった村がある。武装した騎士は居るだけでその場に威圧感を与えてしまうため、普段は村の外から異常の有無を確かめるだけであるが、今はそれに遠慮する必要はない。
 すっかり雑草の蔓延った広場で休憩を取ることを宣言し、ウルラは数時間ぶりに馬を下りた。少し早く村に入った部下が、井戸の側で手を振っている。彼らは井戸を取り囲むように足を投げ出し、放置されていた柄杓を使い、喉を潤して一息ついていた。
 暑いな、と思いつつウルラも杓を取り上げる。その時ふと、直感にも似た違和感を覚えた。
「これは、置いてあったのか?」
「え? はい。井戸の縁に伏せてありましたが、何か?」
 井戸に水呑み用の杓。部下が怪訝な顔をするように、何らおかしなことはない。だがウルラは、自分の直感を簡単に切り捨てるほど、安易な考えの持ち主ではなかった。
 水を口に含み、飲み下す。そうして改めて杓を見つめ、彼女は漸く違和感の正体に気付いた。
「これはもともと、屋内にあったものだ」
「え?」
「使い込まれている割に、傷んではいない。見ろ、水を汲み上げる桶の方は、陽にさらされて随分と変色もしている。錆も出ている。なのにこれは、新しくはないのにそういった扱いを受けていたようには見えない」
 ウルラが突き出した杓を眺めて、部下のひとりが大きく頷いた。
「村人が避難した後、わざわざ家を荒らしてこれをどこからか持ち出した者がいるはずだ。そう遠くない場所に街があるにも関わらず、敢えて魔物が目撃された村に立ち寄るのは、余程後ろ暗い理由を持つ者に違いない」
「街へ行く途中、喉が渇いてどうしようもなくなったとか、急に病気になったとかではないですか?」
「それもあり得るだろうが、その場合、わざわざ杓を探して屋内を探る必要はないだろう。桶があるんだ、手で掬えばいい」
「しかしそれなら、私どもも、置いてあったから使ったに過ぎず、家に入る必要性は――……、あ、もしかして!?」
 気づき、部下の目が見開かれる。ウルラは皮肉を多分に含んだ笑みを浮かべた。
「そうだ、逆だ。人のいない家に侵入したのが先だ」
「その後で水を飲むのに丁度良いものを持って井戸を使った……」
「魔物の危険性は、どんな剛の者でさえ逃げることを優先するほどだな。そんな場所にノコノコ平気でやって来て、休息まで取るような御仁は、ふたりといないだろう」
「まさか、……」
「探そう。殿下の足取りが掴めるかも知れない」
 妙なことになった、とウルラは肩を竦めた。彼の行動を考えようと立ち寄った場所で、思わぬ状況を開いてしまったものだ。だが切れ者と評判の王子、行き先を示すような痕跡を残すなどという、下手な真似はしていないだろう。
 結論から言えば、ウルラのこの考えは非常に甘かった。
「……」
「お。またしても美しい女性のお迎えとは。コートリアは気が利くね」
 左右を武装した騎士に囲まれながら、露ほどの動揺も見せず、人懐っこい笑みを浮かべる男。燃え上がるような朱の髪に瞼の間から覗く青に近い紫の虹彩、嫌味なほどに整った顔をまじまじと見つめ、ウルラは眉根を寄せた。
 聞けば、井戸から最も近い民家の中で、寝そべってくつろいでいたという。
「そろそろ、砦に向かおうと思ってたんだ。よく判ったね?」
「いえ、単なる偶然です……、殿下こそ、どうしてこの村に?」


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