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「え? どうしても何も、元からここへ来る予定だっただろう?」
「しかし、ザッツヘルグ領の事件より、逃……行方知れずであったと」
「君たちが単に私を見失っただけだと思うよ。別に、顔隠して移動してたわけじゃないしね。しかし、出迎えでなかったなんて、残念だ。一人旅はどうにも、ベッドが寂しくていけない」
 切れ者と言うより、得体の知れない宇宙人を見ているような錯覚を覚える。ウルラは理解不能という名の目眩を感じて、額を手で押さえた。全く状況を考えない大馬鹿か、超越した思考回路の持ち主かだろうが、どちらにせよ、あまり関わりたくない人種である。戸惑った部下の視線を一身に受けているのでなければ、一目散に逃げ出していたかもしれない。
 だが、手配中の王子を見つけた以上、自分にはやらねばならぬ事がある――使命感を無理矢理高め、努力して、ウルラは男に向き直った。
「失礼とは承知しておりますが、殿下……」
 仮にも王族、そして他騎士団の団長である。不躾な真似はできない。
「私どもと、砦まで同行願えますでしょうか」
「勿論。牢屋は掃除しておいてくれたかな?」
 さらりと、天気の話でもするような口調に、ウルラは何度か目を瞬かせた。頭の中で反芻し、彼の言葉を理解して息を呑む。
「……ご存じですか」
「あれだけ噂されてたらね。すっかり極悪人だ」
 言って、笑う。怒るでも悲壮感を漂わせるでもなく、全くの平常心。それどころか面白がっているふうでもある。すっかり面食らった部下の縋るような目を認め、ウルラは居心地の悪さを覚えながら口を開いた。
「と、仰いますと……、殿下はザッツヘルグでの一件を、噂の通りだと認めなさるので?」
「一点以外は事実だね」
「一点、ですか……?」
「王都からこの場所まで、直線を引くとしよう」
 これまでの話と接点のない言葉に、ウルラはただ眉根を寄せた。
「王都のゼロ地点で点を穿つ。伸ばす線は直線である。これは真実。誰の目にも明らかだ。だが、伸ばすはずの線が、0.1度にも満たない角度で狂っていた。だが、あまりのズレの小ささ故にゼロ地点の者が気付くことはない。さて、そこから伸びた線は果たして、この場所に到達するかな?」
 するわけがない。何百キロと離れているのだ。はじめの狂いが何度であろうと、狂った時点でお終いである。
 ウルラは短く首を横に振った。
「そう。事実のズレはどんな小さなものであろうと、それがある限り結果的に真相にたどり着くことはない。修正しない限りね。たった一点の虚実はこのズレであり、そして私は間違い、或いは誤解を修正しなかった。だから、私は今から砦に強制連行される」
「その、一点とは?」
「勿論、私が魔物を呼んだという点だよ」
 言った本人以外の、その場に居合わせた全員が息を呑んだ。
 やってもいない罪を着せらたと主張しながら、本当に何でもないように笑う。大した罪ではないと思っているのだろうか。否、何十人、軽傷まで含めれば何百人と被害の出た事件である。王族だからといって刑から免れる規模ではないのは、誰の目にも明らかだ。それなのに何故、彼はこうまでも、無実の罪を問われることに無頓着でいられるのか。
(彼の主張していることこそが、嘘という可能性もある)
 ――人を煙に巻く会話で、絡め取ろうとしているのだろうか。
 そんなウルラの思いを読み取ったわけではあるまいに、王子は楽しそうに目を細めた。
「私は嘘は吐かないよ」
 ぎよっとして、ウルラは目を見開いた。
「全てを言わないだけだ。言う事自体は嘘じゃない」
「……ではなぜ、貴方を貶めるような誤解を修正なさらなかったのですか?」
「必要ないからさ」
 言って、薄く笑う。答える気はないのだと判断し、ウルラは追及を避けた。本来追い詰められている立場であるはずの男に、いつの間にか話の主導権を奪われてしまったと、ここへ来てようやく気がついたのだ。言葉通り、彼に言う気がないのなら、何を尋ねたところで上手く躱されてしまうだろう。
「さて、そろそろ、砦に戻らないか? 巡回しながらだと時間も掛かるだろう」
 そして同時に、男に抵抗する意志がないことに安堵を覚えた。
(……隙がない)
 警戒している様子など微塵にも感じられないというのに、動作に全くつけいる隙が見あたらなかった。おそらく、彼がその気になれば、部下はおろかウルラも命の保証はないだろう。無駄だと思いつつ得物を預かり、軽く手を縄で縛り、部下の馬に乗せてから漸く一息を吐く。
「ウルラ・フランジ」
 突然呼ばれ、ウルラは目を見開いた。振り向き、呼んだ人物を捉え驚きの声を上げる。
「私の名を?」
「女性の名は忘れないのが特技でね」
 胡乱気な視線を厚い面の皮で弾き返し、男は両手の不自由なまま、器用に肩を竦めた。
「この辺りに出る魔物は、何種類ほどだったかな?」
「え? ……確か、三種類だったと思いますが」
 それが何か、と問う声に、彼はただ笑う。そうして、何度か満足そうに頷いた。しばらく、じっと見つめていたが、彼はこの疑問にも答える気はないらしい。諦め、ウルラは部下に前進の指示を出した。
「隊長」
 数歩、進んだとは言えぬ距離の内に、ウルラの後ろを付いていた部下のひとりが声を上げた。
「魔物――呼ばれたり、しませんよね?」
「呼ぶ?」
 一度瞬いて、ウルラは苦笑した。
「殿下は呼んでないと主張されている。今更逃げたり私たちを害為すくらいなら、長々と喋ったりせずに不意打ちをするほうが余程効果的だ。心配には及ばない」
「なら、いいのですが……」
 僅かに不安を残したまま、しかし納得したように部下は頷いた。
「しかしそれなら、今の内に魔物が現れてくれた方が良いですね。聖眼でなんとかして下さるでしょうし」
 随分極端な話だと思いつつも、ウルラは同意を示した。この近辺は魔物との遭遇率はけして低くない。ならば、退治できる可能性の高いときに出くわしたいものだ。
 そこまで考えて、ウルラはふと首を傾げた。
 ――そういえば、ここ数日、魔物の姿を見かけてもいない。
 それまでの出現率を鑑みれば、運がよい、では済まない話だろう。ウルラは、はっとして後ろを振り返った。
「殿下、もしか……」
 魔物を退治するために、ここへ。そう続けようとしてウルラは、不意に言葉を失った。
(……っ)
 一見穏やかな、笑みの形に作られた顔の中にあって静かな、だが深い怒りを湛えた両眼。底知れない深淵をのぞき込んだような錯覚に、ウルラは知らず、身を震わせた。手綱を握った掌に汗に滲む。
 だがおそらくそれは、一瞬の事だったのだろう。ぞっとする、身を竦ませるようなそれは、ウルラと視線を交えた直後に形を潜め、その意味を探ろうとしたときには既に、何事もなかったように消え失せていた。
 何かの見間違いでなかったかと思う反面、激しい訓練の後のように早鐘を打つ心臓が、けしてそうではなかったことを告げている。
 ウルラの心を知ってか知らずか、赤い髪の王子は、人好きのする顔でにこりと笑った。
「私は、そのために呼ばれたんだろう?」
 彼の内にある激情を垣間見て、ウルラはただ、頷いて視線を逸らせることしかできなかった。

 *

 角のすり減った石の階段を昇り、たどり着いた突き当たりの部屋で、ウルラは一度大きく息を吸い込んだ。
「第二副団長、ウルラ・フランジです。ご報告に上がりました」
 定型とも言うべき前口上である。そしていつも通り、中からも入室を許可する声が返された。もう一度深呼吸を繰り返し、ウルラは重い扉に手をかける。
「失礼します」
 言って、顔を上げ、ウルラはぎよっと目を見開いた。いつもなら団長であるトロラード・ビアーズしかいない部屋に、見慣れない先客が居る。応接用の椅子に腰をかけ、部屋の主よりもくつろいだ格好で足を組んでいるのは金髪碧眼の美男子、――ツェルマーク・ザッツヘルグであった。
 何故他領の御曹司がここに、とウルラは眉根を寄せて団長を見る。だが、トロラードが口を開く前に、当の客の方が立ち上がって大げさな挨拶をした。
「これは、はじめまして、副団長どの。私はツェルマーク・ザッツヘルグ。美しい方、どうぞお見知りおきを」
 芝居がかった口調に、口元が引き攣る。どうにも今日は、理解不能の難物によくよく出くわす日であるらしい。
 一度目を閉じ、自制を促すように短く首を振り、ウルラは一歩室内へと足を踏み入れた。
「コートリア騎士団副団長を務めております、ウルラ・フランジです。客人がいらしているとは知らず、失礼しました」
 深々と頭を下げて、団長に向き直る。
「どうしましょう。私は出直した方が良いでしょうか」
「いや……、先に報告内容を聞こう」
「今、ですか?」
「何か、都合の悪いことでもあるのかね?」
 ウルラやコートリア騎士団にとって、というよりも、居合わせる人間と報告内容の都合が悪い。魔物によって被害を受けたザッツヘルグの人間に、加害者として追われている聖眼の王子を捕らえたなどということを知られるのは得策と言えなかった。そもそも、ツェルマークの来訪がその件に関与していること、まず間違いない。
 どうしたものかとウルラは僅かに目を伏せた。この時点で既に彼女の気持ちは、王子にかけられた罪が濡れ衣である方に傾いている。でなくば、ここまで悩むことはなかっただろう。
 逡巡の末、ウルラは誤魔化す方を選択した。
「客人を前に優先するほどの報告はありませんので、後ほど改めて伺います」
「私のことは、気にせずに。そちらも仕事の都合があるでしょう」
 好意か興味か、ツェルマークはにこやかにウルラを促した。何かを知ってとぼけているようにも見えるが、奥深さや威圧感は全くない。王子とは違い、言葉を額面通りに受け取って差し支えない人物なのだろう。
 だが、言えるわけがない。曖昧な笑みを浮かべてウルラは扉の方へと後退した。
「ツェルマーク様のご用件より優先させるほどのことはありません。やはり私は後ほどご報告に」
「あ、少しお待ち下さい」
 如何にも「思いついた」という仕草で、ツェルマークは手を打った。


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