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(十二)

 静かに開けられた店の扉、そこから覗いた笑顔に、アリアはほっとして席を立った。
「もう、体調は戻りましたか?」
 さらりと揺れる銀色の髪、細められた空色の目に、何とも言えない安堵がこみ上げる。王宮の中の殺伐とした緊張感が一気にほぐれていくのを感じ、アリアは深々と息を吐き出した。
「お疲れのようですね」
「はい、――あ、いいえっ、すみません、わざわざ来ていただいたのに、……はぁ」
 苦笑して、ギルフォードは椅子に腰を下ろした。アリアもまた、顔を赤らめながら陣取っていた席に戻る。
「何を注文されました?」
「ええと、今日もジュースです」
「まだ暑いですからね。――イデアさん、私にも同じものを」
 言いながら器用に銀貨を指先で弾く。綺麗に弧を描いたそれは、目的地を過たず、女店主の掌に見事に収まった。受け取ったものを見て、イデアは短く口笛を吹く。
「気前いいね。それとも、何かと交換かい?」
「少し前に頼んだアレの出来が良かったので、サービスです」
「ああ、あれ?」
「相当難しいかと思っていましたが、かなり詳しく、予想以上の出来でしたので、驚きましたよ。賃金、弾んでおいて下さい」
 ギルフォードは思いだしたように、満足気な表情を浮かべた。それを見て、イデアの方は苦笑する。
「難しかったらしいよ。なんでも、困ってた所に助っ人が出たらしい。前に話した新入りみたいだけど、相当出来るって、舌巻いてたね。あんた、そっちに乗り換えたら?」
 短く笑い、曖昧に返事を濁すと、ギルフォードは更にもう一枚、十銅貨をイデアの方に投げ遣った。
「……なんだい、これは」
「先払いです」
「へぇ?」
「とある馬鹿がこの店に来たら、魔法院へ来るように伝えて下さい」
「……どこの馬鹿だい、それは」
「そのうち、ひょっこり現れる馬鹿ですよ」
 呆れた顔のイデアに、ただギルフォードは肩を竦めて背を向けた。彼の言う人物に思い立ったアリアは、何とも言えずに苦笑する。誰にでも丁寧なギルフォードは何故、かの殿下に関しては口悪くなるのだろう。聞いてみたくもあったが同時に、非常にくだらない理由であることも想像できた。
「心配、してるんですねぇ」
 わざとからかうように言うと、案の定、ギルフォードは盛大に顔をしかめてそっぽ向いた。
「魔物を呼ぶ危険があるので、査問官がわざわざ派遣されるそうですね」
「危険なのは魔物ではなく、彼自身の方ですよ。だいたい、彼を兵や建物で止めようとするのが間違っています」
「?」
「殿下を止める方法は簡単です。周りを、女子供で固めておけばいいんです。そうすれば、身動き一つとれませんよ」
 けなしているようで微妙に褒めているなと思いつつ、アリアは無難に頷いておいた。
「ところでアリアさん、何か私に相談とか……?」
「あ、そうでした。すみません」
 本来の目的を忘れたわけではなかったが、つい、久々の状況を楽しんでしまっていたらしい。王女の侍女として仕えるアリアであったが、本来なら王家とは一生顔を合わせることのなかった身の上である。当然、感覚は一般市民の方に近い。どちらが楽しいかと言われれば迷う隙もないほどであったが、ディアナには一生かかっても返しきれないほどの恩と忠心がある。ディアナかギルフォード――もとい、魔法院かを秤にかける日が来たとしても、アリアが後者を選ぶことはあり得ないだろう。
 ディアナと別れる日が来るならばそれは、ディアナ自身がアリアを要らぬと言う日だろうと思っている。
「これですが……」
 そんなディアナを思いながら、アリアは抱えていた鞄から小さな彫刻を取りだした。精巧な造りではあるが、名の通った品というわけではない。
「精霊像ですね。これがどうかしましたか?」
「ここを見て下さい」
 胴の部分を掴みひっくり返したアリアは、底面をギルフォードに向けて指さした。爪の先に、細く硬いもので削られた傷痕がある。
「これは……」
 眉根を寄せて、ギルフォードは刻まれたものを見つめた。
「魔法式、ですか?」
「……判ります?」
「ええ。……これは、呪いに近い。しかし、これだけでは魔法は発動しませんね。場に溜まって体を蝕む……気力を損なわせるもののようです。はっきりはしませんが、方向性はあっていると思います」
 言い切ったギルフォードに、アリアは驚きの目を向けた。
「ただ、魔法の源となるものが欠けていますから、これ自体は無害なものでしょう。魔力の溜まり場に集めると危険ですが……。ところでこんなもの、どこで見つけたのです?」
「どこって……」
 当然、ディアナに贈られてきたもののひとつであるわけだが、アリアが言葉を詰まらせたのはそれが理由ではなかった。どんな文献をひっくり返しても、果ては高名な魔法使いであるヒュブラに見せても曖昧なことしか判らなかったことを、あっさりと言ってのけたという事実に仰天していたのである。
 そんなアリアの様子を勘違いしたのだろう。ギルフォードは慌てた様子で手を横に振った。
「差し支えがあるようなら、黙って下さって構いませんよ」
「い、いえ、そうではなく……、それ、ディアナ様に贈られたものなんですが、ギルフォードさん、その魔法式が読めるんですか?」
「読むというと語弊がありますね。何であるのかは判りますが、どうにもイメージができない、つまり、何かは判りますがおそらく使うことはできない、そういった感じです」
「そういうもんなんですか?」
「簡単に言えば、他の国の人が自国語を早口で捲し立てるようなものです。よく聞けば復唱できますが、言っているだけで意味も文法も理解しているわけではない、そんな感じです。そして魔法は、言葉と意味、発動するときのイメージが大切である以上、私にはここに刻まれた魔法を使うことが出来ないというわけです」
「でも、何の魔法かは判るんですよね?」
「それは、文字の持つイメージから感じたことです」
 言って、ギルフォードは宙に指を走らせ、短く魔法式を口にした。一秒ほどの間をおいて、なんとも美味しそうな焼き菓子が卓の上に現れる。それを見て、アリアは思わず歓声を上げた。名前は判らないが、形状といい色つやといい、職人芸を極めた芸術作品のような一品である。
「それを見て、アリアさんはどう感じました? 不吉だとか重苦しいとかいう感じはありませんよね。見ているだけで幸せになるような感じがするでしょう」
「は、はい」
「それと同じように、私は置物に彫刻された文字を見て、音を脳裏に描いて、呪と感じたのです」
 言って、もう一度ギルフォードは指を振った。それに合わせて、如何にも美味そうな菓子が目の前から消え失せる。名残惜しく、なんとも残念な表情のまま、アリアはギルフォードに恨みがましい視線を向けた。
 苦笑して、ギルフォードは頬杖をつく。
「何が見えたのですか?」
「……美味しそうな焼き菓子……。ツヤツヤ光ってて、湯気まで上がってて、食べろって言わんばかりにスプーンまでついてたのに……」
 アリアの沈んだ声を聞き、ギルフォードは奇妙に口元を歪めた。次いで額に手を当てて、俯いたまま肩を震わせる。――明らかに、笑いを堪えている様子に、アリアは唇を尖らせてギルフォードを睨み遣った。
「なんですか、失礼ですね、もう」
 文句を口にするが、ギルフォードはまだ苦しそうに腹を抱えている。
「ギルフォードさん!」
「いや、ごめん。……そうくるとは思わなかったから」
 微妙に、言葉まで崩れている。
「今までこの魔法を使ってそういうのを見たのは、子供だけだったものですから」
「何ですか、それ……」
「ですから今のは別に、美味しいお菓子を見せる魔法じゃないんです。その人にとって今一番目の前にあれば幸せを感じるものを見せる魔法だったんです」
「……」
「大人にこの魔法をかけると、人だとか動物だとかを見る人が多いんですが」
「……お子様で、悪うございました」
 食欲は常に旺盛な方であるが、こういう形で露呈するのはどうにも恥ずかしい。ここしばらくの忙しさのために、とりあえずお腹が膨れればいいという食事しかしていなかったのが災いしただけだと、アリアはもごもごと言い訳を口にした。
 紅くなって俯くアリアを見て、ギルフォードは弓なりに目を細めた。
「アリアさんはしっかりして見えてますが、そういうところ、可愛いくて好きですよ」
「…………っ!?」
 ぎよっとして顔を上げた正面に、臆面もなく爽やかに笑う男。こっ恥ずかしい科白を、よくもさらりと口に出来たものである。聞いている方が赤面する始末、どうしてくれたものか。
「無駄だよ。そいつは天然だから」
 店の奥から、女店主が口を挟んできた。ゲラゲラと、あけすけに笑って苦しそうにしている。ムッとしたように、ギルフォードは彼女を睨みつけた。
「なんですか、天然とは」
「そゆとこだよ。あー、参ったよ、お嬢さんも呆れてるじゃないか」
「呆れたというか、照れるというか、恥ずかしいというか……」
「恥ずかしい、ですか?」
 いまいち納得がいかない様子のギルフォードを前に、頬を掻きながら、アリアは口元を引き攣らせて曖昧に頷いた。おそらくは褒めている、或いはただ正直に感想を言っただけという認識のギルフォードに、アリアやイデアが感じたものを説明しても理解は得られないだろう。
 ある意味これも純粋培養のひとつかと思いながら、アリアは首を横に振った。そして、おもむろに咳払いをして調子を整える。
「……まぁ、それは置いておいて、ですね」
 本題から随分と話題が逸れてしまった。正直なところ、ゆっくりとしている時間はアリアにはない。ギルフォードの方も、けして暇ではないだろう。
「ああ、そうですね、すみません」
 奥の方でにやにやと笑っているイデアをもう一度睨みつけてから、ギルフォードは椅子を引いてアリアに向き直った。
「例えが少し悪かったかも知れませんが、私の言いたいことは解ってもらえましたか?」
「はい」
 頷いて、アリアは幾分声の調子を落とした。
「でもこれ、……何の魔法式か、知ってるんですか?」
「いいえ。前に師匠に少し習ったものですが。詳しく聞く前に亡くなってしまいましたし、教本らしきものも行方不明で、結局どういったものかは判らずじまいなのです。気になってはいたのですが、他にもやらなければならないことが多くて」
 困惑を声に乗せて、ギルフォードはアリアを見つめた。
「アリアさんは、ご存じなんですか?」
 真っ直ぐな視線を受け、アリアはあからさまに狼狽え、答えることを躊躇った。その名を告げることはギルフォードには酷なことだと判りきっていたからだ。だが、誤魔化すことは出来ない。


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