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 アリアは表情を硬くして、しかし真正面からギルフォードを見据えて口を開いた。
「……ゼフィル式魔法」
「!?」
「確定じゃないですけど、ヒュブラさんがそう言ってました。ヒュブラさんは以前、ゼフィル式魔法の本を見たことがあって、その際知った文字に似ているとおっしゃっいました」
「ゼフィル式……、逆魔法……」
 アリアの前で口にしたことはなかったが、やはりギルフォードはその存在を知っていたようである。そして、「沈黙の魔法」がその一種であることも。
 かつて沈黙の魔法の記された本については、ギルフォードも口にしていた。その時に詳しく言う必要性がなかったのか、敢えて口にしなかったのかは判らない。
「まさか……」
 呟くギルフォードの声には、温度が感じられなかった。茫然としているとも、記憶を探っているとも取れる様子に、アリアは口を噤む。その魔法に関しての彼の思いは、アリアが想像するよりもずっと複雑なのだろう。
 僅か一分ほど前の軽い雰囲気が一転して、店内に影を落とした。面白そうに笑っていたイデアも、今は眉根を寄せてふたりの様子を窺っている。
 氷が溶け、半透明の液体の中で崩れる音だけが静かに響いた。どこか遠くでそれを聞きながら、アリアもまた思考の淵に身を沈めた。
 純粋な知識としての興味。魔法使いとしての探求心。その対極に位置する妹を死に至らしめたものへの怒りと拒絶。
 人間という生物の中で魔力がどう流れているのか、それを根本から研究していたギルフォードの師、ミリム・アスタール。彼がかつてゼフィル式魔法の本を持っていたとしても、さほどおかしな話ではないだろう。だが、それはどこで手に入れたというのだろうか。そうして何故、ギルフォードの妹の仇とも言えるものを、隠したまま彼に教えようとしたのだろうか。
 グラスから流れて落ちる水滴をじっと見つめながら、アリアはディアナとエレンハーツの会話を反芻した。
(ディアナ様は先王の時代に王都で目撃されたのが最後と仰っていた。ギルフォードさんの師匠が亡くなったのは先王崩御よりも後……。ギルフォードさんが教えを受けたとすると、最後に公の場に出た後に、一度ミリムさんが手に入れたことになる)
 もっと重要なのは、その本の行方だろう。そこまで考えてアリアは、根本的に間違いを犯していることに気がついた。
「ギルフォードさん。その、聞きにくいんですが……」
「はい?」
「妹さんが亡くなられたのは、いつ頃でしょうか。お師匠さんよりも、という意味ですけど」
「……私もそれを考えていましたよ」
 ふと息を吐いて、ギルフォードは薄くなった果汁を喉に流し込んだ。
「師が亡くなってから数ヶ月後に、妹は『沈黙の魔法』をかけられています。私が師に習っていたのはそれ以前です」
 やはり、とアリアは喉を鳴らした。
「師は非常に慎重でした。私に本自体を見せようとしなかったのも、今では頷けます。本の存在自体を知ることが、おそらくは危険なことだったのでしょう」
「そして、本は奪われて、使用されてしまった……」
「師は病死だと思っていました。ですが、突然の死、失われた本、突然使われた魔法……」
 卓の上のギルフォードの手は、今は強く握られていた。アリアは言葉もなく目を伏せる。新たに判った事実はギルフォードに、彼の大切なものを奪ったものの正体をはっきりと突きつけてしまった。
「今まで、『沈黙の魔法』を使った者が憎いとは言い切れませんでした。魔法自体の存在も。魔法は手段であり、使うことは単なる機会です。勝つために相手より強い武器を持ちだした者が居たとして、それが戦場なら誰も責めることはしないでしょう。そういうものだと思ってました」
 苦しげに、ギルフォードは眉間に皺を寄せた。
「ですが、師を殺し、奪った者が実験のように使ったのであれば、話は別です。仇を取る機会があるなら、私は躊躇わないでしょう」
 ああ、とアリアは思った。――エレンハーツの目に似ている。弟王子を裏切った者を許さないと語った、深い色を宿した目に。
 アリアは、深く息を吸い込んだ。炎の中で失った半身、雪の日に殺された兄の仇、それが自分自身でなければ、自分もまた同じ目をしただろう。憎むこと、恨むこと、誰かにぶつける負の感情はけして、その先に未来をつなげることはない。だが、そうと知りつつ囚われていく人を諭す気になるほど、アリアは清くも正しくも、哀れなほどに幸福でもなかった。仇を憎む心はまた、誰かを深く大切に思った証拠なのだ。ただいつか、失った辛さに引きずられるのではなく、置き去りにした思い出を慈しむようになって欲しいと思う。
 ゆるく首を振り、アリアは背筋を伸ばす。
「ディアナ様は、ゼフィル式魔法がこのところの不穏な出来事に関与しているかもしれないとおっしゃっいましたが、ギルフォードさんはどう思いますか?」
 努めて平坦な声を出したアリアに気付いたのか、ギルフォードは僅かに苦笑した。そうして、強ばった表情を幾分緩め、アリアに探るような目を向ける。
 一度頷き、アリアは、ディアナがエレンハーツに言った言葉をそのまま話し伝えた。
「あり得ない話ではありませんね」
 顎に手を当てて、ギルフォードは唇を指で掻く。
「しかし今のところ、逆魔法の名が示すような魔法は使われていません。奇妙な状況と言っても、ひとつひとつを取り上げれば一般的に知られた現象の範囲内に収まることばかりです。今までも裏で密かに使われていた魔法が、ディアナ殿下の件で顕在化したのだとしても、それがここ数ヶ月の事件に関わっている証拠はありません」
「……そうなんですよね」
 一応頷いてからアリアは、ディアナにすら言えなかった事実を話すべく、意を決して口を開いた。
「でも、私はやはり、関係あるんじゃないかと思うんです。前に私が移動陣の事故で別の場所に飛ばされたこと、あったじゃないですか」
「前にって、ついこの間のことでしょう。あれが何か?」
「私、移動陣に乗るとき、持ってたんです。……この像と同じく、ゼフィル式魔法と思われる式の刻まれた物を」
 目を見開いて、ギルフォードはアリアを凝視した。
「すみません。もっと早く言うべきだと思ってたんですが、あのときは他に人がいましたから」
「謝ることでは……、しかし、アリアさんの荷物に、それらしきものはありませんでしたよ?」
「比較的小さな物でしたし、飛ばされる前に何か割れる音がしましたから、砕けてしまったのかもしれません。ただ、移動陣に異変が起こってからその場に留まっていたにも関わらず、その割れる音、と殆ど同時に、見知らぬ場所に飛ばされていました。あれは事故ではなく、ゼフィル式魔法が、移動陣になんらかの干渉をしたのかもしれません」
 推測の形を取っていたが、他に普段と違う状況がなかったと断言できる以上、それは極めて確定に近い意見だった。アリアが贈答品に籠められていた魔力を吸収したこともあり、それ単独では害を為さないものだったとしても、先にギルフォードが言った通り、魔力の溜まり場に持って行ったのなら話は別である。通常の移動の際に用いられる魔力、魔法式への干渉は充分にあり得るのだ。
 ギルフォードは一度唸り、宙を睨んで腕を組んだ。彼もまた数日前の状況を思い出して、反論、或いは肯定材料を探しているのだろう。だがおそらく、結論が出るまでには時間を要しないはずである。当時に見つけることの出来なかった事故原因を、思い返したぐらいで発見できるわけがないからだ。
 予想通り、ギルフォードがため息を吐くまでに、三分とかからなかった。
「……移動陣の事故は、ゼフィル式魔法が思わぬ干渉をしてのことと?」
「あの日は点検日でしたよね? 異常があるどころか、全く持って安定していたと聞きました。それに、外からの干渉は前例がないんですよね? ゼフィル式魔法があの移動陣にどう干渉したのかは判りません。けれど、それ以外に前例のないような特殊な状況を生み出す要素を思いつかないんです」
「魔力干渉があったのだとしても、行き着いた先が関連した場所であったかは判りません。移動陣のルートから外れて彷徨った末に、たまたま現存していた古代の遺跡にたどり着いたのかも知れませんよ?」
 ギルフォードの声に反論の色はない。疑問と他の可能性を挙げて、推測に穴がないかを確認しているようだった。
「アリアさんがたどり着いた場所、あれは確かに国を騒がせている一派が使用しているものだと私も考えます。マエントで外交官一行が全滅した事件、実行者とみなされているオービー・ルッツ他数名、あれだけのことをしでかしながら全く足取りが掴めていません。マエントは国の存亡をかけて、自国の者の仕業ではない、或いは手引きなどしていないと証明するために彼らの行方を追っていましたし、キナケスでも各騎士団が第一級の捜索態勢を取っていました。それなのに、今に至るまで殺されたとも生きているとも怪しい死体が出たとも報告されていません」
「彼らが移動陣を使ってマエントへ送られ、同じくして逃げたから、ですね」
「ええ」
「私、彼らのひとりを見たかもしれません」
 眉根を寄せ、ギルフォードはアリアを見つめた。
「長い通路の先で、牢に入れられた人間を見ました。暗かったのもあって詳しくは判りません。その人は物語に出てくるような『生ける屍』の様な状態でした。それに、獣のこともあります。生きた獣ではなく、魔物でもない奇妙な生物。あれはもしかしたら、ゼフィル式 魔法の結果かもしれません」
「――逆魔法。つまり、生、或いは死を逆行させていると?」
「ゼフィル式魔法が世に広まらなかった理由、古代魔法文明で使われた魔法が一部ですが残されているにも関わらず、ほぼ完璧に抹消された理由、それはあまりに、自然の摂理に逆らったものだったからじゃないでしょうか」
 落ちた先で見た「生ける屍」、もしか獣のように数多く作られたなら、それは想像するも厭わしい集団戦力になるだろう。かつてディオネルがゼフィル式魔法の本を欲した理由も、それを思えば納得が出来る。
 ギルフォードは言葉を探して、何度も口を開いては閉じるという動きを繰り返した。焦れたわけではなかったが、アリアは慎重に言葉を続けた。
「勿論、今言ったことは、少しばかり知ったことを無理矢理つなぎ合わせた推測に過ぎません」
「……そうですね」
 頷いて、ギルフォードは一度天井に目を向けた。そうして、考えるように唇に指を当てる。その何気ない動きに釣られて視線を移したアリアは、そこにある窓の外、存外に光の位置が移動していることに気付き、口に手を当てた。
 随分、とまでは行かずとも、思ったよりも時間が過ぎてしまっている。アリアにはまだ余裕もあったが、ギルフォードの方はそうもいかないのかもしれない。
 慌てて椅子を鳴らしたアリアに気づき、ギルフォードは手を水平位置に上げた。止めるような仕草に、アリアはおずおずと座り直す。
「私からも少し」
 言って、薄い鞄の中から、ギルフォードは一枚の紙を取りだした。
「この間アリアさんが行き当たったと言っていた扉の魔法、その解除式です」
「できたんですか!?」


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