[]  [目次]  []



「完璧とは言い難いのですが。なにせ、見たことのない不思議な組み方をした式でしたので、そのあたりは目を瞑って下さい。しかし、本当にかなり独特の魔法式の形をしていました。――現在一般的とされている完成形の魔法以外の、他の魔法を取り入れているような感じも受けました」
 アリアは、複雑な魔法式に目を落とした。何も知らない者が見れば、ただの文様にしか見えないだろう。知識だけは並の魔法使い以上と自他共に認めるアリアでさえも、ただ読んで理解することが限界だった。とてもではないが、自分で作ることは不可能である。
「……すごいですねぇ」
 ギルフォードは照れるでもなく、苦笑にも似た笑みを浮かべた。
「でも、どうしてわざわざ、忙しいのにこれを……?」
「場所を特定する資料になるかもしれないと思ったのですが、そちらは空振りでした。しかし、向こうの魔法使いの事が少し判ったように思います」
「……強い、ですね。魔法式の構築能力が尋常じゃない」
「ええ。そしてやはり、ゼフィル式魔法を使うでしょう」
 魔法式の書かれた紙を返そうとするアリアの手を押し戻し、ギルフォードは僅かに目を伏せた。
「その魔法使いが、己の区域に侵入した者の存在に気付き、それがアリアさんだと特定していないかが心配です。アリアさんはしばらくしたら、殿下に付き添って離宮へ行かれるのでしょう?」
「あ、――はい」
 エレンハーツが何者かに襲われたことで、王宮は上から下への大騒ぎになった。厳重な警備をくぐり抜けての侵入、逃亡、都内での攪乱、忽然と消えたティエンシャ公。どれもがこれまでの王宮では考えられないような事態であり、関係者は揃って顔を蒼くした。特に最近になって警備を任されていたヒュブラは、各方面からの叱責を受けつつ事後の処理に追われている。
 王宮に近い場所に住む貴族の動揺も耳に届いてはいたが、それ以上に打撃を受けたのは、寝室に不審者の侵入を受けた一番の被害者、エレンハーツであった。もともと体も弱く繊細な彼女は、精神的にも参ってしまったのだろう。数日部屋から出ることもなく閉じこもってしまったことを憂慮し、医師が離宮へ帰ることを勧めたのが三日前。すぐにそれは決定され、しかし残務の為に王都を離れられなくなったヒュブラの代わりに、エレンハーツ自身が望みディアナが付き添うことになった。
 ディアナが王都を離れる以上、アリアもそれに付いていかなくてはならない。気楽に一人旅というわけではないため、当然、その準備に追われることとなった。この日、アリアがイデアの店に行く時間を取ることが出来たのは、ディアナの配慮以外の何ものでもない。
「解除式は、解き方の一例です。時間のあるときに、相手の魔法の癖を考えてみて下さい。そうすれば急にその者が現れたときにも、何らかの反撃をすることができるはずです」
 じっと、アリアは解除式を見つめた。
「アリアさんも無力ではありませんが、相手は未知の存在です。気をつけて下さい」
「……そうですね」
 そうして、顔を上げる。
「ありがとうございます。ギルフォードさんも忙しいとは思いますが、、無理はしないでくださいね」
「はい。肝に銘じておきますよ」
 にこりと笑い、ギルフォードは鞄に手をかける。
 時間切れ、その合図にアリアもまた、笑って席を引いた。

 *

 人の集まる場所は、どの国どの街へ行こうとも、そうそう変わらないらしい。雑音に満ちた店内をこっそりと観察しながら、マリクは硬くなった肉を何度も咀嚼して嚥下した。肉の質が悪いだけで、味付けそのものはむしろ美味しい部類に入ると評価して、怠そうな表情の給仕に弁当の作成を依頼する。
 マリクがキナケスの国土の端、所謂辺境の中でも比較的大きな街に辿り着いたのは、昨夜遅くだった。その時には既に各家の扉は固く閉ざされていたため、どうにも閑散とした印象を持ってしまったが、昼は案外に多くの人が出歩いている。街に著名なこの食堂は、ひっきりなしに客が出入りしていた。
「お客さん、見ない顔ね。ローエルの人?」
 まだ温もりのある弁当をふたつ、いささか乱暴にテーブルの上に置いた女は、値踏みするようにマリクの全身を見回した。何か魂胆があると言うよりも、単なる興味本位のようだが、見られている方は如何にも居心地が悪い。
 極力目立ちたくない理由を持つマリクは、多少焦りながら、用意しておいた無難な返答を口にした。
「ああ、そうだよ。このところ、東の方がおかしいことになってるだろ? ティエンシャ領に嫁いだ妹の様子を見に行った帰りなんだ」
 茶色の髪に緑色の目。ローエル領民の特徴をはっきりと持ったマリクならではの嘘とも言える。実際に実家はローエル領にあり、妹のひとりがティエンシャ領の男と結婚したのだから、まるきり作り話というわけでもない。
 言葉遣いだけは極力くだけたものになるよう気遣いながら、マリクは給仕の女に話を続けた。
「向こうの方は随分荒れてるね。領主がいないままだから、商人も大きな仕事を持ち込めなくて困ってるみたいだ」
「ああ、そうみたいね。皆その話ばっかするもんだから、あたし、耳にタコができちゃった」
「へぇ」
 多少大げさに興味を引いた素振りを見せ、注文を追加する。それに気をよくした女は、奥に一旦下がった後、すぐにマリクの席に戻ってきた。世間話も情報料を払うと払わないとでは、口の滑りに差が生じるものである。ユラン・ティエンシャ直伝の情報収集技術は、早くも功を奏したようだった。
「ここしばらく、移動ばっかりしてたから全然知らないんだけど、また何か凄いことでも起きたの?」
「凄いって?」
「ほら、前に村が消えたとかいう事件みたいな」
「あは、さすがにそれはないよー。ティエンシャ公が逃げたとか、いっそ領主交替させようかとか。あと、なんとか言う王子が魔物使って街を襲って、捕まえられたとかかな。酷いよね、それ」
 さすがに動揺を隠しきれず、マリクは僅かに視線を彷徨わせた。よく観察していれば奇妙な反応だと気付いただろうが、幸い、女は別の意味に捕らえたようである。ため息を吐きながら、困ったように眉間に皺を寄せた。
「怖いよねぇ。魔物なんて。お客さんも気をつけなよ。まったく、どこにいきなり現れるか判ったもんじゃないわよね」
 護衛つけなくて大丈夫?
 心配そうに見遣る女にむけてどうにか引き攣った笑みを浮かべ、マリクは彼女に座るように促した。


「だから、私は騎士団員ですって!」
 憤懣やるかたなし――口をへの字に曲げたマリクを宥めるように、ユラン・ティエンシャは両手をひらひらと上下に振った。
「ちゃんと鍛えてるんですよ、訓練サボったこともありませんし!」
「ええ、そうですよね。ここまで来るのにも、随分とお世話になりましたし。あなたが頼りないだなんて、私は全く思いませんよ、ねぇ?」
 最後の同意はそっぽ向いている男に向かって言った言葉だったが、ユランのなけなしのコミュニケーション努力が報われることはなかった。極めて興味のなさそうな、同意も否定もしない一瞥が、如何にも面倒くさそうに返される。
 恨みと嫉妬と非難の混ざった二対の視線を受けて、しかし彼は臆する様子など欠片も見せぬまま、追い打ちをかけるように口を開いた。
「あんた、街に行って、そんな下らん話しか集められんのか」
「うぐ……」
「報告は簡潔明瞭、動くときは迅速に。基本だと思うがな」
 返す言葉もなく、マリクは何度も口を開閉させた。そんな彼をユランが気の毒そうに見つめるのは、既におきまりのパターンとなりつつある。
 だがそんな光景を見るのも今日で最後。ここから先、ユランの身はローエルの女領主の預かるところとなる。それは今は囚われの身となっているフェルハーンの指示に従ってのことで、どんな交渉内容だったのかは、むろん、マリクの知るところにはない。だが、先王崩御の後即位を待たずして当時の第一王子が暗殺されて以降、内乱の最中も中立に近い立場にあったローエル領は、確実とまでは言えないにしても、比較的安全な場所であることは確かである。
 ハインセック王即位後も目立った動きは見せず、政策を地味に支援するのみで自領の運営に力を入れている女領主が出した条件はふたつ。ローエル領の端、砂漠のオアシスにある別荘地に、ローエル領内は通らずに向かうこと。そして、ティエンシャ公の罪が正しい手順をして確定した時点で匿うことを止め、王宮に連行すること。つまり、事が定まらぬ間は、知らぬうちに入り込むなら黙認する、とのことだった。
 非常にシビアとも言える決定だが、王命を破る形で王宮から出たユランの落ち着ける場所は、おそらく、そこを除いて国内には存在しないだろう。いつまでも逃げ続けられるわけがない以上、選択の余地はなかった。
「本当に感謝していますよ」
 笑って、ユラン・ティエンシャマリクの手を握る。
 間もなくして現れた砂漠に住まう少数民族にティエンシャ公を託し、マリクはその姿が消えるまで真っ蒼に晴れ渡った空を見つめていた。たった数日間の旅ではあったが、どことなく名残惜しい。ユランの性質が、取りざたされている事件を企むようなものではないとわかるほどに、マリクは彼に親しみすら感じていた。
 砂塵に消えた人影から目を外し、高い位置にある顔を見上げる。相変わらず何を考えているのか判らない仏頂面は、この時もやはり平素と変わりないようだった。
「無事に辿り着くといいんですが」
 呟きに、アッシュ・フェイツはゆっくりと頭を傾けた。
「今の案内人、アッシュさんが手配されたのですか?」
「彼らはもともと、エルスランツの勢力と交流がある」
 どういうことかと伺ったが、それを話す気はなさそうである。
「それより、報告の続きがまだだろう」
「……気付いてらしたんですか?」
「その様子だと、ワイルバーグ城砦にまで話が行っているか」
 言いながら、アッシュは指で背後を指し示し、マリクを促した。彼の示す先にはふたりの馬が繋がれている。どこで誰が聞き耳を立てているか油断ならない以上、立ち止まって話すのは危険だと、マリクも慌ててアッシュの後を追った。
 同行人の都合など構いもせずに、どんどんと先を歩くアッシュの背中を見て、マリクはため息を吐く。
(……あれで年下なんだからなぁ)
 騎士らしく背筋を伸ばした姿は如何にも力強く、振る舞いには静かで重い威圧感がある。けして何かを押しつけてくるというわけではなかったが、黙ってそこに居るだけで皆何故か気にしてしまうという、妙な存在感が彼にはあった。必要な人物に必要最低限の丁寧語、或いは棒読みの敬語しか使わないにも関わらず、誰一人としてそれに疑問を抱いたり文句を付けたりすることがないという特殊例でもある。


[]  [目次]  []