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「でも、私たちはさっきは、こちらには来てませんよ? ぐるっと大回りしてきましたから、近くも通ってませんし」
「だから、嘶きと言っただろう。ここは治療の場だけあって、家畜の小屋からは離れている。馬も遠くにいる。普段、馬蹄の音すらしないだろう」
 驚いたように、サライアは目を見開いたまま頷いた。
「この男は、正規に剣を習った癖がある。我流じゃない。なりふり構わない動きはなく、型に忠実なくせに、後ろや横に時々下手な隙ができる。普段、団体で稽古しているのか、特定の相方がいるんだろう」
「賊の一味……ではないですよね。もしそうなら、とうに仲間の手が伸びているはずですし。だとすると、軍の関係者でしょうか。単独行動をすることがない、隊長職でない騎士……」
 そこまで呟いて、マリクは思いついたことに一瞬言葉を失った。
「服……、そうだ、服ですよ! サライアさん、この方の着ていた服は残ってますか?」
「あ、はい。それは勿論ですが」
 言いながらサライアは男の寝ているベッドの下から、うっすらと埃の積もった箱を引きずり出した。乗っていただけの蓋を開けて、丁寧に畳まれた衣服を取りだして確かめる。記憶を探り確認を取った後、サライアはその一揃えを不安定な机の上に置いた。
「これで全部です。少し繕っていますが、この方の身元証明になると思い、あまり手を加えていません」
「結構です」
 一番上の外套は、砂漠に近い地域で見られる砂よけのようだった。ほつれ、くたびれてはいるが特に特徴はない。
 思い違いだっただろうか、そう眉根を寄せつつ外套を持ち上げ、マリクはあ、と声を上げた。
「……ある意味、予想外か」
 頷く。アッシュの言葉はそのまま、マリクの気持ちを表していた。半分は予想通り、残り半分に背筋が震えるほどの衝撃を与えられたというのが正しいだろう。
 それは、破れ、泥とも何ともつかぬ物が染み汚れ、ところどころ焦げた跡まで残っていたが、紛れもなく騎士の身に着ける制服だった。だがその意匠は、キナケスの十二騎士団のいずれとも異なっていたのである。
「マエント軍……」
 茫然と、マリクは呟く。ゆっくりとアッシュに目を向けると、彼はひとつ頷いていっそ無造作に服をベッドの上に広げた。
「袖の色は黒、地方軍だな」
「右の肩のは矢を受けた跡ですよね? でも背中のこれは、刃物にしては幅が広すぎるし、周囲が焼けこげているのも妙な感じですが……。熱を持った斧で裂けば、こんな感じになりそうですが……?」
「これは、当たりだな」
 低く、アッシュは声を落とした。
「火の属性を持った魔物の爪に裂かれると、こうなる」
 顔は、蒼褪めていたに違いない。魔物という単語に、サライアもまた、忙しなく視線を彷徨わせた。この場合、落ち着いているアッシュの反応こそが普通ではない。
 ひと月半ほど前の出来事。真っ先に思い浮かべるのは勿論、ルセンラーク村の焼失事件である。騒がれたマエント兵の存在、炎で焼き尽くした魔物、いずれもが眠る男の状況と合致する。
 今居る村からルセンラークのあった場所まではかなりの距離がある。普通に歩いたとしても三、四日。これだけの怪我を負った状況なら、仮に歩き続けられたとしても倍以上の日数がかかるだろう。この村の誰もが、消滅した村の事件と結びつけて考えなかったのは当然と言える。以前サライアに重病人が村にいる、と告げられているマリクもまた、その者が事件の関係者だとは思いもしなかった。
「私兵団の服ではなかったのですか?」
 震える声で、サライアが訪ねる。頷いて、マリクは服に目を落とした。
「規模の大きい私兵団なら制服を設けているところもありますが、さすがに団服に間違うようなものは国が規制しています。これはマエント国の騎士団の服です。……しかし、この傷で長い距離を移動してきて、ここまで回復するのは奇跡に近いと思います」
「だが、傷は治っても、精神的に負担が強かったようだな。目覚めればまた、暴れ出す可能性がある」
「で、ですが、このままでは体に限界が来てしまいます。流動物なら呑み込んでもらえるのですが、寝たきりはそれだけで力を落としていきます。起きる方法があるなら、起こしてあげたいのですが」
 もっともな医師の意見に、アッシュは短く頷いて考え込んだ。あまり表情は変わらないので判りづらいが、怒るでもなしに眉間に皺を寄せている。マリクもどうすべきかと頭を捻ってみたが、シクス騎士団が正常に活動しているならともかく、今はどうしようもない案しか浮かんでこなかった。マリク自身がこの村に残って様子を見るという手もあったが、それでは所詮、暴れたときの押さえ役にはなっても、精神の復調をうながすことにはならないだろう。
 やがて、ため息を吐いたアッシュが顔を上げた。
 何か言いかけ、口を開く。
 ――その時、再び鋭い悲鳴が大気を切り裂いた。


 村人が半狂乱のままに逃げ出す、その流れに逆らうようにアッシュとマリクは坂道を一気に駆け降りた。幸いにも殆どが畑仕事へと遠くに出かけている。残っている者の大半は女子供、そして体を悪くした老人だったが、そこはうまく守り合って逃げているようだった。
「あそこです!」
 言うまでもなく、アッシュの目にも入っていただろう。
 街道方面へと続く比較的広い道の向こうに、小山のような影が見える。その周囲が妙に歪んで見えるのはそれから立ちのぼる暗い色をした炎のせいかもしれない。
(ルセンラークの魔物……)
 単なる推測、或いは思いこみだったが、間違ってはいないだろう。各地を移動するが故に、フェルハーンから特に注意をと促された魔物の特徴が、まさに当て嵌まっていた。
 顔に深い裂け目を作る口から吐き出される黒い炎。熊と狼の中間のような体躯をしているが、纏う気配はそれよりもずっと狂気に満ちている。揺れながら歩くその四肢には、鈍く光る鋭い爪が備わっていた。
 国中を馬で駆けるマリクだが、魔物を近くに見るのは、当然これが初めてである。ここのところ世間を騒がせているため人の口に上る機会も多いが、本来であれば、一生姿を見ることもなく終える人の方が圧倒的に多いのだ。マリク自身、できることなら知らずに終えたかったと思う。
「あれは……そうですよね?」
 具体的な言葉でなかったにも関わらず、意図するところを正確に把握して、アッシュは走りながら頷いた。
「やっぱり、誰かが操ってるんでしょうか」
「それ以外に、人の領域のど真ん中に現れる意味が通らん」
「やっぱりまだ居たんですね……」
「持った方だ」
「え?」
「あの事件からひと月以上、よくも人に飼われながら、魔物が生きていられたものだ」
 感心したようにアッシュは呟いている。怖いとも緊張しているとも言わないあたりが彼らしい。実際、彼の表情は平素と全く変わりなかった。ひとり焦っているようで、マリクとしてはどことなく惨めな気持ちになる。
「どうすれば倒せるんでしょうか……」
 幹の太い木を削り、なぎ倒しながら進み来る魔物。まともに剣で打ち合える相手ではないだろう。弓矢も果たして、立ちのぼる炎の前に威力を損なわずに済むか、非常に怪しいところである。
 正直、マリクにはどうしていいのか判らない。大きな池でもあれば、或いはそこへ誘導して沈めることも出来るかも知れないが、あいにくと近くには細い川が流れる程度であった。勢いも水量も、当然魔物の炎に太刀打ち出来るとは思えない。
 だがアッシュは、むしろ面倒くさそうにマリクに一瞥を返した。
「なんとでもなる。あんたは、いつでも逃げられるように馬でも連れて来とけ」
「そんなの、呼べばすぐ来ます!」
「なら、待機してろ」
 煩わしそうに言い捨て、いよいよ近くなった魔物の方へと加速する。もともとの体格差もあり、マリクはあっという間に引き離されてしまった。
(……惨めだ……)
 騎士として、能力に疑問を抱きたくなる。団長も認める馬術、或いはそれによって与えられた特殊な任務がなければ、騎士廃業も本気で考えたかも知れない。
 マリクが荒い息を吐いて、その開けた場所にたどり着いたとき、アッシュは右腕を横に広げ、魔物と真正面から対峙していた。改めて近くで見るに、その異相と圧迫感に冷や汗が背中を伝い落ちる。思ったよりも小さいと感じたのは、魔物という存在への固定観念に因る差違ではなく、アッシュが言ったとおり、随分と弱体化している為だろう。さすがに、ひとつの村を炎の中に消した時の力はなくしている様子である。
 じりじりと、魔物は距離を詰めてきている。だが、アッシュは立ちつくした場所から動こうとはしなかった。
 冷たいような、痛いような、熱いような、奇妙な熱風が魔物から吹き寄せてくる。周囲の草は茶色く変色し、魔物の通った道は黒く焼け落ちていた。爪や牙の部分に炎はないようだったが、明らかに熱の影響は受けている様子である。先ほどの白髪の男が、まだ魔力に満ちた頃のこの魔物から逃げられたのは、それこそが奇跡だったのだと、マリクは知らず唾を飲み下した。
 気持ちはとっくに逃げ出している。いよいよ、足もそわそわし始める頃、漸く前に立つアッシュが右腕を動かした。目の前の大気をごっそり薙ぎ払うように、大きく旋回させる。
「沈め」
 低い声は、まったく平坦だった。気負った所など、欠片もない、部下にするような命令口調。だが、その静けさに反して、周囲の変化は激烈だった。
 轟、と風が鳴る。地面が一度低く唸り、腹に重い刺激を与えた。
 半瞬の間をおいて、魔物の口から吐き出された、甲高い咆吼と火柱。思わず顔面を腕で庇ったマリクは、しかし、数秒経てどもおとずれぬ熱に、おそるおそる目を開けた。そして、あんぐりと口を開ける。
 目の前、否、アッシュの前で、深い闇を内包した黒炎は、弾かれて飛び散り、宙に消えていた。狂ったように魔物から生み出される火の玉もまた、空中で何かに遮られるようにして霧散する。その度に、アッシュの指が素早く動いているのを、マリクは目に止めた。
「魔法……」
「動くな」
 その声は、魔物への恐怖よりも強い呪縛だった。固まったように動きを止めたマリクを認めて、アッシュは挑発するように魔物を手で招く。それが通じたわけでもあるまいが、苦悶の様相を呈していた魔物は、再び、揺れながらふたりの方へと足を進めた。
 だが、
「沈め」
 再び口にされた命令。その直後、魔物の体長が一気に半減した。再び、耳をつんざく咆吼。ものの一秒とかからずに、魔物はアッシュとほぼ同じ目線の高さまで縮小した。――否。
「地面が……」
 魔物は、沈んでいた。鋭い牙も巨大な爪の大きさも変わっていない。人で言うなら、腰から下が沈み込んでいるのだ。
 ごく普通の道だった乾いた土の大地は今、魔物を中心に半径3メートルほどの沼地へと変貌を遂げていた。魔物は呻きつつ、先ほどよりも激しい炎を吹き付けるが、それもまた見えない壁に遮られて消えていく。
「沈め、深く、地中の奥、お前が生まれた場所まで、遠く、深く、沈み還れ」
 短く区切りながら、命じるようにアッシュは呟く。声に合わせて足下の地面を叩き、その度に魔物は、更に少しずつ沈んでいった。


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