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「還れ、消滅は、お前を必ず解き放つ」
 言い聞かせているようだ、とマリクは思った。実際には、魔物は弱くなりながらも暴れている。アッシュの声が届いているわけではない。だが、あまりにも静かな、凪のような声はまるで、聞かせ語る子守歌のようだった。
 やがて、魔物は炎を吹くのを止めた。その力が、失われてしまったのかも知れない。その頃にはもう、頭だけを残し殆ど地中へと落ちていたのだが、ほどなくして諦めたように、最後の部分を泥の中へと消した。
 アッシュが短く息を吐く。ひと呼吸置いてしゃがみ込んだ彼は、地面に手を当てて低く魔法式を呟いた。
 再び、地面が唸る。さざ波のように震え、それが収まったときにひとつ、魔物の消えた場所に鮮やかな炎が立ちのぼった。
「大丈夫だ」
 身構えたマリクを押さえ、アッシュは制止の声を上げた。
「消えた」
「退治……したんですか?」
 どこか茫然と、マリクはアッシュに問う。時に、人が束になったとしても太刀打ちできない存在ともなる、魔物。それはこんなにもあっさりと、人間にやりこめられるものなのだろうか。
(あの魔法は……)
 静かな、しかしあまりにも強力な魔法だった。衰えているとはいえ、魔物の放つ炎を完全に弾いてしまう防御魔法など、聞いたこともない。ましてや、アッシュは他にも、底なし沼を作るという別の大仕掛けの魔法を同時に使っていたのだ。
 口を噤んだままじっと、男はマリクを見下ろしている。
(普通じゃない)
 知らず、一歩退いたマリクの耳に、突然、手を打つ高い音が鳴り響いた。
 弾かれたように顔を上げ、マリクは音の方へと体を捻る。少し離れた位置の木陰から、黒いローブを羽織った人間が手を叩いていた。
 いつの間にと、思うと同時に剣を抜き放つ。敵か味方か、瞬時に判断したわけではない。強いて言えばそれは勘だった。
 頭を覆う布は目深く下げられ、容貌を窺い知ることは出来ない。体全体は丸い印象だが、わざとローブに弛みを持たせるような着込み方をしていると取ることも出来る。身長もさして高くはないが、ローブの中で軽く腰を落としていたとしたら、それすらも信用できる材料とはなり得ないだろう。
 マリクは黙って、微笑むように弧を描いた口元を睨みつけた。アッシュもまた、無言のままに黒いローブを見つめている。
 誰だ、とは問う気にもなれなかった。一時の衝撃が過ぎ去り、対峙する間に考えを巡らせば、その答えは分かりすぎるほどに単純だった。この近辺に住む村人は魔物の出現に散り散りとなり、街道から離れた田舎村には、そうそうに通りがかる旅人もいない。そんな場所に現れる者があるとすれば、魔物を操る者と退治する者でしかなく、この場合、黒いローブの人間は前者でしかあり得なかった。
 剣の柄を握る手に、じわりと汗が滲む。
 ふいに、ローブから出た手が叩き打ち鳴らすのを止め、両手を握り合わせたままの位置で固定された。マリクが訝しく思うより先に、その者が口を開く。
「――お見事」
 くぐもった声。声色を使っているのか、全く知らない人間なのか。
 知ろうと、考えようとする頭とは別に、本能的な恐怖が脊髄を駆け抜ける。反射的に傾く体、その上を真白い光が貫いた。
「……!」
 次々と襲い来る高熱の塊。第一撃を避けたのが偶然とすれば、その次を逃れたのは幸運だった。しかしその次、奇跡は起きなかったようである。無我夢中で転がった先、薄く開けた目に、網膜を焼くような強烈な光が飛び込んだ。
 命中する――
 妙に冷静な状況判断。だが、見開いたままの目が捉えたのは、全く別の光景だった。黒い影が横切ったと思った瞬間、間接的な衝撃がマリクの額を押し叩く。踏ん張る隙もあらば、力のままに仰け反り倒れ、マリクは地面で強かに後頭部を打ち付けた。
「受け身ぐらい取れ」
 大気が震え、弾かれた魔法が地面に穴を穿つ。腹の底を叩くような重低音の衝撃の中、マリクは自分を助けた人物を茫然と眺めやった。
「アッシュさん……」
「立て」
 短い言葉はいつも通りだったが、今はどこか、声の調子に強さがない。集中しているときに無理に人に話しかけているような口調だった。それが何故なのかは考えるまでもない。アッシュ自身とマリクを防護する結界の外、周りの景色が見えなくなるほどの猛攻撃を見れば、あまりにもそれは明らかだった。結界は一度張ってしまえば良いというものではない。何かを防いだ分だけ壊れていく部分を、常に補正し続けなければならないのだ。
 手に細かい震えを残しながらも、しっかりと足を踏ん張り立ち上がったマリクを見て、アッシュは一度だけ頷いた。
「なら、行け」
「え?」
「道を開ける。お前は、馬を駆って行け」
 魔物を消す前、馬を連れてくるようにと、他ならぬ彼が言った言葉を思い出す。
「こんな攻撃は長く続かん。隙が出来たら一気に駆け抜けろ」
「行くって……! それは、確かに馬はすぐ呼べますが、でも!」
「今すぐ呼べ」
「でも、それじゃ、アッシュさんはどうするんですか!?」
「ぐだぐだぬかすな。上官命令だ。とっとと行け」
 身も蓋もない言い方は、ある意味彼の余裕のなさを示しているのだろう。冷たくなった手を開いては握り、しばし逡巡を繰り返し、やがてマリクは、観念したように顔を上げた。
「――判り、ました」
 無茶をするな、と告げることは出来ない。この状況の中、アッシュひとりが逃げるならまだしも、抵抗手段のないマリクを逃がすことは既に無茶の領域に踏み込んでいるからだ。
 死なないで下さいと、アッシュに抱いていた疑惑さえも忘れてマリクは願う。彼の表情を見て悟ったか、アッシュは僅かに顔を歪めてみせた。
「気にするな。俺は、――死ねないから」
「――?」
 妙な言葉だと思った。だが、アッシュの方は、深く考える間を与えてくれなかった。
 低く、マリクには読解不可能な言葉を呟き、剣を地面に突き立てる。柄の頭を握り、押しつぶすようにアッシュが身を屈めた瞬間、彼を中心として突風が吹き荒れた。
 拳大の石すらも飛ばす風圧。しかし何故か、それにマリクが巻き込まれることはなかった。周囲に感じる僅かな熱は、アッシュの結界が生み出すものなのだろう。
「行け」
 平坦な声が、マリクを促す。
 躊躇い、喘ぎながらもマリクは指笛を高く、鋭く吹き鳴らした。そうして、小高い丘に向けて一気に走る。サライアの診療所から離れ、既に近くまで来ていた馬は、真っ直ぐにマリクの方へと駆けつけた。愛馬でなくとも、旅の間に慣れた馬である。呼吸を量ることは、マリクには容易かった。
 減速した馬の横を並走し、手綱を握るや一気に鞍を跨ぐ。一動作で馬首を返し、王都へと向かう道を定め、馬の腹を打つ。砂埃の吹き荒れる中であったが、朧に映る太陽が、方角を正確に示している。方向感覚に優れたマリクが道を違えるほどではない。
 振り返ることはしなかった。ただ、強烈な追い風が背中を叩く。それだけで充分だった。
「頼む、――頑張ってくれ!」
 悲鳴に近い懇願は、果たして誰に向けたものだったのか。それすらも判らないまま、マリクはただ馬を走らせた。


 砂の雨が地面を叩く。突風が収まった後の大地は、見るも無惨な有様だった。石つぶての穿った穴、引きちぎられたような枝葉、根を陽光に曝す倒木が攻防のすさまじさを物語っている。
「――素晴らしい」
 黒いローブから伸びた手が、再び賞賛の音を奏でた。
「予想以上だ。ますます、欲しくなった」
 アッシュは答えない。ただ、探るような目で睨みやる。その、居竦ませるような視線を正面から受け、ローブの――男は太い音で嗤った。嘲るようで、しかしどこか調子の狂った笑声に、アッシュは眉根を寄せる。
「強い――本当に、強い」
 剣を構えたアッシュに、心からの賛辞を贈る。
「だが、お前は、絶対に勝てない」
 自信に満ちた声。
 残念だ、そう思いながら男は片手を上げた。既に呪の施された掌に、熱が宿る。指を中心として渦を巻く灰色の靄が、ゆっくりと拡大していった。
 無論、アッシュはそれを傍観していたわけではない。速く鋭く繰り出される剣は、並の騎士であれば流すことで精一杯だっただろう。だが男は、はじめから、まともに受けて立とうとは思っていなかった。補助魔法に任せて、ひたすら逃げ続ける。それでも避けきれず、ローブは裂け、皮膚は削がれ血は流れたが、いずれも致命傷にはならなかった。
「終わりだ」
 呟き、アッシュの懐に入る。その無造作な動きを見逃す男ではないだろうが、この際、多少の怪我はやむを得ない。もっとも大事なのは、アッシュに、確実に魔法を入れることだった。
 ――人を、化け物に変える魔法。
 そう、皮肉っぽく嗤いながら、涙のままに罵った女の唇を思い出す。
 そして、やはり嗤いながら、男は呪の宿った掌を、アッシュの右肩に叩きつけた。
「……っ!」
 息を詰めてもんどりを打つ。互いに、無傷ではなかった。
 大きく切り裂かれた腹は、魔法で防御していなければ間違いなく真っ二つになっていただろう。だが、そうはならなかった。深い傷ではあるが、腹膜には達していない。
 対して、アッシュの方に目立った傷はなかった。だが、それ以上の衝撃を受けたように、膝を突いたまま肩を押さえている。彼の口から漏れているのは、呻きか荒い呼吸か、いずれにせよ普通の苦しみ方ではない。
「どうだ、力の逆流する味は」
 見開かれた双眸が、男を映す。
「彼女は耐えたよ。――お前は、どうするのだろうな?」
 揶揄するような口調に、アッシュは強く眉根を寄せた。だが、歯噛みする口から、音以上のものが漏れることはなかった。
 立ち上がり、男は哄笑を上げる。
 ――役者は、揃った。
「さぁ、開幕の時間だ」


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