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 (十三)

 王宮を包む結界の補強を終えて院に戻ったのは、既に日付の変わった深夜であった。多忙の中、憔悴した表情で依頼に来たヒュブラを放っておくことが出来ず、つい契約外の仕事まで手伝ってしまったこともある。
 シクス騎士団の活動停止、騎士達の軟禁。他騎士団から応援が来ているとはいえ、いや、だからこそ、ヒュブラの苦労と努力は並大抵のものではないはずだ。統制のとれない軍をまとめるほど、労苦極めることはない。それでも、どうにか大きな混乱を起こさずに王都を守り続けているのはさすがだと言えた。
 使い慣れたベッドに寝転がり、額の上に腕を乗せる。仮眠用の簡易ベッドであったはずが、今や常用のものとなりつつある。一体何日家に戻ってないかと考え、ギルフォードははっきりと思い出せないことに苦笑した。帰ったところで待つ者がいない寂しさか、或いは気楽さか、何週間も帰ることを思いつかなかったという事実に呆れ果てる。
(まぁ、いいか――)
 このまま今日も寝てしまおうか、そうぼんやりと考えたとき、ギルフォードはふと違和感を覚えた。いつもと、何かが違う。
 ギルフォードの室は魔法院の中でも、もっとも入りにくい場所に位置する。重要な物が置いてあるということもあるが、面倒事を嫌ったギルフォードが奥に引っ込んだ、といった方が正しいだろう。故に、室の主以外、滅多なことで訪れる人はいない。強いて言えばアリアくらいだが、彼女は今、王都を離れ、遠く離宮へと行ってしまっている。
 違和感の正体を考え、ギルフォードは室内を歩き回った。ほどなくして、原因に思い至る。
「血の臭い……?」
 呟き、通風口を見上げ、ギルフォードは首を傾げた。魔法と建築技術を利用して、通風口からは小動物さえも入り込めないからくりを作っている。唯一通る物が在ればそれは空気でしかなく、臭いに変化があるとすれば通風口の出口に近い場所に血を帯びた者が存在するということに他ならない。
 一旦脱いだ上着を羽織り、ギルフォードは窓から降りて裏手へと回った。そうして、そこに在ったものに驚き、凝視する。
「マリクさん!?」
 ちらと向けられた顔は、月明かりだということを差し引いても尚、ひどく蒼褪めていた。薄い灯りに慣れた目で見回せば、深い傷が何カ所も見受けられる。致命的なものはなかったが、弱い者なら失血死に至りかねないほどに、マリクの衣服は黒く重くなっていた。
 力を失った動物を運ぶことは、容易いことではない。だが、身体の安全か状況の確保かを考え、ギルフォードは結局後者を選び取った。マリクの負担にならないような魔法を使い、裏口から部屋の中へと誘導する。
 つい先ほど自分が体を投げ出していたベッドにマリクを横たえ、ギルフォードは汚れきった衣服を切り裂いた。手始めに治癒魔法で深い傷を塞ぎ、一旦手を止める。その間に用意しておいた湯で体を拭い、改めてマリクの状態を観察した。
「ギルフォードさん……」
「静かに。薬湯を作ります。危険な状況というわけではありませんが、今は少しでも体力を残しておいて下さい」
 体が資本の職業だけあって、治癒魔法にもさほど消耗した様子はない。だが、回復力の底上げぐらいはしておいた方が良いだろうと、ギルフォードは薬棚を漁りだした。彼はあくまで魔法使いであって、師について学んだ医師ではないため、強い薬を使うことには躊躇いがある。副作用が生じたときに対応できない可能性が高いからだ。
(アリアさんが居てくれれば良かったんですが……)
 正確には薬師であると言い切っていたアリアであるが、少なくともこの状況で、ギルフォードより役に立つことは確かである。無い物ねだりだと思いつつ、ギルフォードは選んだ薬草をすり鉢にかけた。
 木の実の潰れる音が、虫の音に混じって響く。マリクの呼吸は、見つけたときよりは随分と落ち着いたようである。忙しなく吐かれていた息が、今は深いものに変わっていた。室内を暖めたのも功を奏してか、紫色をしていた唇も、僅かに色を取り戻しつつある。良い傾向だ、とギルフォードは口元を綻ばせた。
 混ぜ合わせた薬に酒を落とし、蜂蜜と混ぜて味を整える。良薬は口に苦しと言うが、無理に苦いまま与えずとも良いだろう。
「済みません……」
 背中を支え身を起こす手伝いをすると、マリクは額を押さえ、顔を歪めた。
「ご迷惑を……、けれど、騎士団の方は閉鎖されて、兵が……」
「賢明な判断です。シクス騎士団は、団長の暴挙と王都の警備不備のせいで閉められています。一部では国を乱す輩と結託しているのではないかとも噂されているくらいです」
 今聞かせる話ではないと思いつつも、マリクが無茶な行動に出る前に牽制をかけておいたほうがいいと判断した。
「ヨゼルさんたちとも、連絡が取れません。謹慎されているようですが、今は無理に連絡を取ろうとしないほうがいいでしょう」
「そうですか……」
 受け取った椀に目を落とし、マリクは力なく頷いた。ゆっくりと濁った液体を喉に流し込み、その度に浅い息を吐く。それでもなんとか飲み干して、マリクは再び体を横たえた。
 内臓を悪くしている様子はない。外傷とあとは極度の疲労だろうと見当をつけ、ギルフォードはマリクに眠るように促した。負った傷から感染していなければ、すぐに回復するだろう。今マリクに必要なのは、何も考えずに休むことだった。
 だが、彼は頑なに首を振る。
「お願いが……、聞いて欲しいことが」
 ギルフォードは眉根を寄せ、マリクを見つめやった。マリクは思い詰めたような目を向けている。
「いけません。せめて、明日の朝にしましょう」
「しかし、急がないと……!」
 興奮して起き上がりかけるマリクを宥め、ギルフォードは説得を口にする。今は深夜、マリクがどう急いだところで、今すぐに対処できることはない。だが、室を去りかけるギルフォードを見ると、マリクは再び震える腕で身を起こす。
 何度か同じ会話同じ行動を繰り返し、結局折れたのはギルフォードの方だった。手短に話を聞いて、早く寝てもらった方がましだ、と諦めたのだ。
「ですが、苦しくなったらすぐに止めて下さい」
 頷いて、マリクはゆっくりと口を開く。
 落ち着いて話を聞いていたギルフォードの顔が驚愕に彩られるまで、些程時間は要しなかった。


 久々に見た少女は、出会ったときよりも血色の良い顔で、にこにこと笑っていた。
「ギルフォードさん、ユマに何か……?」
 急な呼び出しに、所員の魔法使いが不安気な表情を浮かべている。心配要らないことを笑顔で伝え、ギルフォードは彼女に退室を求めた。珍しく強い口調で命じる彼をやはり訝しげに見つめつつ、所員はユマを残して室を去った。
 不思議そうにを見上げてくるユマに、ギルフォードは言葉を選んで口を開く。
「ユマ、――『おにいちゃん』に会いたいですか?」
 一瞬息を詰めて、しかしはっきりとユマは頷いた。

 *

 眼前に開いた光景に、アリアは思わず息を飲み込んだ。普段、自然界の美しさに興味を示さないレンも、気付かぬうちに歓声を上げている。
 冷えた風の駆ける林道、葉の落ち始めた木々の間を抜けると、そこには見回すほどの庭園が手を伸ばしていた。美しく造形された花の棚、煉瓦の水路を泳ぐ魚。刈り込まれた芝生の道を通り、奥へ奥へと進むと、繊細で優美な建物が徐々に姿を現した。
 レガ離宮。周囲との調和を優先し、二階以上を作らなかったとされる北の宮。安定した時代には王家の避暑地として賑わった場所であるが、今は王妹のエレンハーツがひっそりと暮らす療養の地となっている。
 付き添いの詰め込まれた馬車から降り、アリアは他の者に混じり、王女達の降りる準備を始めた。馬車の止まる位置の草を避け、石を取り除き、その上に厚い絨毯を敷く。普段ディアナ相手にしないことでも、エレンハーツが一緒にいる以上、一応の体裁はある。遙か昔に教え込まれた作法を思い出し、周囲の者に倣いつつ、アリアはどうにか迎えの支度を整えた。
 動いている内に暖かくはなってきたが、時折鋭く吹く風が、一瞬にして体温を奪っていく。王都はまだ夏を引きずっていたが、こちらは既に、冬が顔を出し始めているようだった。亡命の地イースエントよりはましと言えるが、どちらにせよ寒いことには変わりない。
 やがて一際豪奢な馬車が林道より姿を見せた。ディアナが向かうと知ってグリンセスがわざわざ用意をした、繊細且つ煌びやかな二頭立ての馬車である。見るものを一目で魅了するような見事な装飾のそれは、馭者の手綱に合わせてゆっくりと歩みを止めた。アリアたちの準備した場所に、僅かなズレもなく停止したのは、卓越した技と言えるだろう。
 離宮を預かる官が恭しく扉に手をかけ、姫君達は優美な――
「皆、出迎えご苦労」
 ……優美な笑みを浮かべつつ自ら勢いよく扉を開き、朗々とした声で口上を述べた。思わず後退った離宮の官を一瞥し、ディアナは馬車の中へ手を差し伸べる。
「さぁ、義姉上、どうぞ。足下にお気を付けて」
 エスコート役に待機していた騎士が所在なげに立ちつくす中、ディアナの先導でエレンハーツは馬車を降りる。唖然としたのは離宮の面子で、アリアとレンは口元を引き締めることに全力を尽くさなければならなかった。ディアナが男であったら、フェルハーンも真っ青のプレイボーイぶりを発揮したに違いない。
「何を呆けている。義姉上をお待たせするつもりか?」
 呆けさせた張本人には言われたくなかっただろう。だが、その指摘により我に返った官吏は、困惑の表情を浮かべつつも道中の無事を慶賀した。同じく戸惑っていた騎士も、曖昧に笑いながらエレンハーツに礼をとる。
 騎士の護衛のもと、一行はそれから少し、石畳の道を歩くこととなった。蔓草のアーチをくぐると森林の匂いに僅かに甘い花の香りが混ざり、都会にはない清涼感が心を満たす。このところ気を塞いでいたエレンハーツも微笑を浮かべ、やはり慣れ親しんだ場所が落ち着くのだろうと皆が胸をなで下ろした。
「良いところですな。どこかこう、懐かしくも安心できるようです」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ。――本当に、心休まるの」
 主人の会話を聞きながら、アリアも口元を綻ばせた。ここはキナケスにあって、別世界のようだと思う。緩やかな陽射し、小鳥のさえずり、せせらぐ小川、全てが物語の楽園のようだった。忙しさと俗世の汚れから切り離されたような、時の止まったような感覚にすら陥ってくる。
 だが、夢うつつを彷徨うような時間は、そう長くは続かなかった。
 森林の宮殿に相応しい、蔦の絡んだ意匠の瀟洒な正面玄関。それを背に、長い槍を構えた甲冑姿が並んでいる。
「なに……?」
 ざわめき、そして鈍る足。驚愕と動揺に顔を見合わせる面々の中でひとり、ディアナだけが歩みを止めずに近づいた。立ち竦む騎士の間を抜けて、足音も高らかに先頭へと躍り出る。
「わざわざお越しいただけるとは、恐縮です、伯父上」
 胸を反らし、堂々たる仁王立ちのまま、ディアナは眼前の兵、そしてグリンセス公を見回した。


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