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 もともと、倉庫として作られた部屋なのだろう。窓は小さく、鉄格子までが嵌っている。外側に、押して開くタイプの板が取り付けられているが、最大限開けたところであまり明るさに変わりはなかった。
「これじゃ、逃げるに逃げられないよねぇ」
 言って、頭を抱えたレンは、足を挫いてしまっている。ここへ連れられる途中、転びそうになったエレンハーツの従者を助けたところ、それが不審な行動と取られてしまい、槍で強かに打ち付けられたのだ。弾みで裂かれた皮膚はアリアが治癒魔法で塞いだが、内部で炎症或いは損傷を起こしているものに関してはどうしようもない。損傷部位の治った状況が具体的に想像できない以上、魔法の成功率は著しく下がってしまうのだ。
 魔力の補給が出来ないこの場所では、賭けに近いことに魔法を使うわけにもいかない。
「ごめんね、手間かけちゃって」
「あいつらが横暴なだけだよ。レンは悪くない。ここから出たら、あいつらぶん殴ってやる」
 思い出して憤慨するアリアに、レンはただ苦笑を向けた。勢いよく言ったものの、アリアにも実行に移す具体的な策を持っているわけではない。魔力の補給さえ出来れば、思う存分ありったけの凶悪な魔法をぶつけることもできるのだが――と、先ほどと同じ思考に陥りかけ、アリアは払うように頭振った。今更、考えても栓のないことである。
(魔法鉱石があれば……)
 巨大な、美しい姿を思い浮かべ、アリアはため息を吐いた。魔力を吸い取る瞬間は苦痛だが、日常生活で魔力の欠如に困ることはなくなったのも事実である。以前は常に今のように、魔力の残量に怯えながら過ごしていたことを思い出し、アリアは頭を軽く小突いた。
(便利さに慣れると、必要だったことも忘れてしまう)
 それでは駄目だと戒める中、ふとあることを思い出して、アリアは懐へと手を伸ばした。指先に、硬い感触が触れる。鎖を手繰り、そろそろと取りだしてみれば、初めて魔法院へ案内された日にフェルハーンからもらった魔法石が鈍く光っていた。研磨にかけ、装飾品として身に着けていたために、すっかり忘れていた代物である。
 石を握りしめ、アリアは目を閉じた。これにどれほどの魔力が込められているのかは判らない。小振りであるぶん、さほど期待はできないだろう。だが、本当にどうしようもなくなったときに頼りになる存在があるというだけで、アリアの気持ちは随分と落ち着きを取り戻した。
(今は、待とう――)
 咄嗟の時の対応にと、薄い結界を張る。ギルフォードにもらった解除式から作ってみたもので、例に使ってみることにしたのだ。持続時間の長さに反比例して効果は薄いが、気休めにはなるだろう。
 あの時は、こんなことになるとは、夢にも思っていなかった。
 苦笑。そうして細い隙間から一日の残照を見つめつつ、アリアは口を引き結んだ。

 *

 転機が来たのは、それから三日後のことだった。
 陰鬱な空気の重い朝。前日の夜から急に流れ出した雲が厚さを増し、風が強い湿り気を帯びたとほぼ同時に、銀色の紗が空から滑り落ちた。この時期にしては珍しい集中豪雨が木の葉を、芝を、屋根を叩く。
「雨漏りしてなくて良かったね」
 王族の住まう離宮に、雨漏りなどあるわけがない。それが例え倉庫であろうと、置かれているものは充分に高級品ばかりなのだ。
 レンのどこかずれた感想に苦笑だけを返し、アリアは戸口へと目を向けた。そろそろ食事が運ばれてくる時間のはずだが、一向に音がしない。屋根の音がうるさくて、という考えもあるが、グリンセス公の私兵はいつも険も顕わに騒々しくやってくるのだ。
 運動もろくにできない狭い部屋の中、さほど空腹を感じるわけではないが、体力だけは付けておかねばならない。
「遅いねぇ」
 気づき、レンも愚痴に似た呟きを口にした。
「まさか、飢え死に作戦?」
「まさか」
 さすがにそれはない。
「雨のせいで調理が遅れてるとか、材料が届かないとかじゃないかな」
「んー、それに、しても静かだねぇ」
 頷いて、アリアは首を傾げた。そう言えば、時間事の巡回も来ていない。
 示し合わせたわけでもないが、ふたりは同時に戸口を見つめ、そうして恐る恐るといった呈で顔を見合わせた。多少の思惑の違いはあれ、考えたことは同じだっただろう。
 どちらも、声には出さなかった。ただ頷き合い、扉の取っ手に手をかける。それが動かないことも、不自然な音に誰も反応しないことも、予想通りであった。室内の音は前の廊下に響く。音の聞こえる範囲に私兵が控えていることは、三日のうちに確認済みである。普通ならば、激しく扉を揺する音に気付かないわけがない。
 意を決して、アリアは魔法式を口にした。基礎魔法ではあったが、倉庫扱いの部屋の鍵など、その程度で充分である。枠と扉の隙間に小さくも鋭い風が起こり、一瞬の後に扉を閉めていた枷が切断された。兵さえいなければ、逃げることは眠りに就くよりも簡単なことだったのである。
 魔法で熱反応を確かめてから滑り出た通路は、不気味なほどに静かだった。屋根を叩く雨音さえもどこか遠い。
「椅子が倒れてる」
 不思議そうに、レンが呟いた。兵が監視するために使っていたと思われる武骨な椅子が、通路の曲がり角で横倒しになっている。頑丈なだけが取り柄なのか、持ち上げてみると相当に重かった。いかな強風が吹き荒れようと、とても自然に転がるようには見えない。
「他の部屋は?」
「誰もいないみたい。普通、こうやって喋ってたら何か言ってくるでしょ」
「でも、ここに来たときは他にも連れられた来た人いたじゃん」
「途中で他の部屋に移されたとか?」
「何のために?」
 肩を竦めたレンは、知らぬとばかりに近くの扉に手をかけた。閉まっていることを証明しようとしたのだろう。だが、その確信に反して、扉はキイと、哀しげな音を立てた。
「!?」
 目を見張るレンの後ろで、アリアは眉根を寄せた。――嗅ぎ慣れた、臭いがする。鈍く重い、しかし鼻をツンと刺激する、錆のような臭い。そして、それに混じって、生暖かい風が流れ来る。
 黴と、淀んだ水と、――腐臭。
 アリアは反射的に扉を閉め、驚くレンを止めるように取っ手を手で押さえた。
「な、なに?」
「……ううん、何でもない」
 激しく打つ心臓を宥めつつ、むしろ自分に言い聞かせるようにアリアは首を横に振った。
「それより、行こう。兵がいないのは幸運だけど、それを活かさなきゃ」
「……? う、うん、まぁ、あんたがいいなら良いけど……」
 煮え切らない様子のレンの腕を引き、アリアは通路を突き進んだ。慎重さをかなぐり捨てたように、脇目もふらずに狭い道を行く。
 僅かに躓きながら、レンは焦ったようにアリアの服を引っ張った。
「ちょっと、大胆過ぎ! 誰か居たらどうすんの!」
 もっともな意見だと思ったが、従う気にはなれなかった。一刻も早く、この場を離れた方がいい。そう、記憶と勘が激しく警鐘を鳴らしている。暗がりの中、通路の床板に目を凝らせば、人には有り得ない足跡を見つけて目を逸らす。
 誰かに出会うならその方が良い、とすら思っていた。雨音だけが、アリアの耳を弾く。
 しばらく後、ようやく離宮の本宮に出たふたりは、荒い息を吐きながら、一度立ち止まって周囲を見回した。相変わらず、人ひとりいない。
「こっちには誰もいないのかな?」
 呟き、レンは壁に背を凭せ掛けた。今度はアリアも頷いてみせる。雨空に暗い屋内は灯りもなく、どこか退廃的な雰囲気を出しながらも美しいままであった。少なくともここに、虐殺のあった様子はない。
「さすがに、どっちが出口か判らないね。まさか、正面から出るわけにもいかないだろうし」
「……うん」
「いっそ、窓から出る? 雨降ってるけど、捕まったりするほうがやばいっしょ」
 言って、レンは窓硝子を小突く。強度はそこそこありそうだが、鉄の枠が付けられているわけではない。扉の枷を切ったのと同じ要領で、容易く逃げ道は作ることが出来るだろう。
 たったふたりで、ディアナやエレンハーツを助け出すことは不可能である。だが、一旦逃げることさえ出来れば、応援を呼ぶという手が使えるのだ。幸いにもそう遠くないところに、タラントの騎士団砦がある。グリンセス公が王都や関係者に、この離宮の占拠をどう説明しているのかは判らないが、砦の一般民に噂を流しつつ訴えれば、無碍に扱うこともできないだろう。
 このまま離宮を歩き回るより、その方がずっと現実的だとはアリアも判っている。
「アリア?」
 訝しむ、レンの声がどこか遠い。閉じこめられて三日、その間にどういった動きがあったのか、知る術のないことがもどかしかった。
 このまま、この地を離れて良いのだろうか――。
 拳を作り、自分の中で自問自答を繰り返す。勿論、正しい答えなど出るわけがない。
「アリア、何も逃げるんじゃないよ。助けを呼びに行く方が確実なんだから!」
「……うん」
「私たちに、あの私兵の集団をどうにかできるわけないでしょ? 躊躇うのは判るけど、冷静に考えようよ」
 頷いたが、レンの言葉がアリアに響いていたわけではなかった。はじめからアリアの思いの中に、このまま逃げる事への後ろめたさはない。自分やレンに可能なことなどたかが知れていると、充分に判っていたからだ。無謀と勇気を取り違える愚かさはない。
 この時、自分の身を確実に守れる程余裕のある者が側にいたなら、アリアの反応の根底にあるものに気付くことが出来ただろう。
 ――恐怖と紙一重の好奇心。
 迷路のような地下通路の中に居た獣の存在を、アリアはしかと感じていた。純粋な興味と、危険性を熟知しているが上の正義感、自分ひとりなら何とでもなるという、過信に近い確信、幾つかの思いが複雑に絡み合い、アリアの中で葛藤を生じている。
 それでも、逡巡は長くは続かなかった。何かを落とすように頭振り、アリアは顔を上げてレンを見遣る。
「レンは、行って」
「アリア!?」
 結局、アリアの背を押したのは、恐怖だった。あの獣が陽の当たる場所へ出た、それが事実か或いは勘違いか、それを見極める必要があると思ったのだ。
 目を丸くするレンを余所に、アリアは魔法式を口にする。果たしてそれはすんなりと具現化し、水を伝う窓は、枠との接続部分で綺麗に切り離された。硝子一枚分、丁度細身の女性ひとりが通れるほどの大きさの口が開く。
 何か言いたげに唇を動かすレンを押して、アリアは首を横に振った。
「悪いけど、これは我が儘。ちょっと気になることがあったから、別行動」
「……それは、私が居たら、やりにくいことなのね?」
 口端を歪めたレンが、窓枠に手をかける。僅かに目を見張って、アリアは指先を震わせた。


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