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「知ってたの?」
「知らない」
 雨の流れる方へとくぐり抜け、レンは笑う。
「けど、ディアナ様とあんたの間に何かあったかなーってのは判る。妬みたくなるくらい、特別扱いだし?」
「ごめん」
「でもあんた、全然楽そうじゃないし。疲れてて苦しそうだったし。私も大概激務だなと思うけど、それ以上だし。なによりアリアは、前向きな癖に暗いのよね。その割に、気、強いし」
「褒めてんのかけなしてんのか、どっちかにしてくれない?」
「じゃあ、けなしておこう」
 細めた目の間を、髪から落ちた雫が伝う。
「あんたの秘密主義は今に始まった事じゃないけど、無茶はしないでよ。ギリギリのところじゃないと、人に頼ろうとしないんだから、たまには、何か言い訳付けて、逃げなさいよ。誰も、あんたのこと責めやしないから」
 アリアは、ただ苦笑した。――自分が責めるのだ。誰よりも、非力で卑怯なくせに、やたらと生きたがる、自分が責めるのだ。他の者が生んだものをただ一方的に奪う罪を背負っているのなら、せめて極限まで走りきれと。
 レンは、アリアの表情を見てため息を吐いたようだった。だが結局、それ以上は言わずに手を伸ばす。
「昼過ぎまでは、林の入り口あたりで待ってる。間に合うように来なさいよ」
 頷き、アリアも手を伸ばす。同時に勢いを付け、掌は互いの中で高い音を鳴らした。


 レンと別れてしばし、宮殿内を歩き回ったアリアは、やはりそこに人の気配がないことに動悸を覚えた。
 荒れた様子はない。だがどこかから、確実に腐臭がする。その源を探す気にはなれなかったが、小綺麗な場所ばかり彷徨っていても埒があかない。
 意を決して足を向けたアリアは、途端目にした光景に目を見張ることとなった。
「……グリンセス公!」
 口を手で押さえ、悲鳴だけはどうにか堪えてみせる。だが、こみ上げてくる嘔吐感はどうにも押さえようがなかった。壁際に寄り、胃液を吐き出して顔を上げる。
 ――いつ、死んだのだろうか。
 下半身は引きちぎられ、原形をとどめていない。上半身だけが助けを求めるような姿勢のまま、背を向けて倒れている。だがその背中も、ごっそりと脊椎ごとつまみ食いされたかのようにえぐられていた。
 顔だけが恨めしそうに、天井を睨んでいる。
 直視に耐えず、アリアは周囲に目を逸らした。元は美しい文様の織り込まれた絨毯だったはずが、泥のままに踏み荒らされている。足跡はむろん、人のものではない。四本足の獣で、それを見る限りではそう大きくない個体のようだった。毛足の短かった絨毯は、鋭く爪で掻かれ、禿げた場所から灰色の石が覗いている。
 グリンセス公の睨む天井からは、ぽたりぽたりと、漏れ出でた雨の雫が床を湿していた。腐臭と湿気が、アリアの脳裏に地下通路を閃かせる。もしか反撃手段がなかったのなら、あの時アリアは今のグリンセス公のような姿へと変貌していたのだろうか。
 想像し、忘れるようにと振り払う。気を取り戻そうにも、深呼吸できないのが辛かった。気分を落ち着かせるため、遺体の幾つか転がるその場所から離れ、鉄格子の窓際に座り込む。外の臭いを嗅ぎ、アリアはほうと息を吐いた。
(あれはない……)
 グリンセス公に好印象はなかったが、あの死に方はない、と思った。着ていた服は離宮を占拠した日とは別のものだった。つまりはそれ以降、周囲に飛び散った血の状態と遺体の様子からして、今朝ということはない。一昨日か昨日か、――巡回していた兵のことを思えば、昨日と考えるのが妥当といったところか。私兵の管理がきちんとできていたとは思えないが、さすがに丸一日連絡もなければ、アリアたちの方で働いていた兵も異変に気付くだろう。
 そうして、本宮での殺戮後、昨日の夜か今日の朝に獣たちは倉庫の方へとやって来た。
 しかし何故、アリアたちの室には襲い来なかったのか。
「魔法か……」
 地下通路の先にあった扉に刻まれていた魔法式。その解除式から作り出した、簡易結界。獣たちは己を閉じこめる結界と同種のものに、条件反射にも似た忌避を覚えたのだろうか。
 推測のひとつではあったが、試してみる価値はある。アリアは早速自分の周りに、同じ魔法式で結界を張った。一般兵の弓矢ですら防ぎきれないような柔い代物だが、致命傷を大怪我に済ませる程度の緩衝材にはなる。考えが間違っており、仮に獣が襲い来たとしても、多少の防御にはなるはずだと、アリアは念入りに式を重ねた。
 そうして、服の裾を破り、動きやすいようにまとめて括る。王女の侍女という役目上、見た目には気を遣う方であったが、この期に及んで見た目も何もないだろう。いざというときに裾が絡んで動けなかったとなれば、洒落にもならないところである。
 戦闘態勢を整えた後、アリアは再び本宮の中央へと足を向けた。平面上の広大さ故に、今居る位置がどのあたりか、何に使われる場所かなどはさっぱり判らないが、重要な部屋のある位置はどの居城も概ね似たような場所にある。
 案の定、人の屍体の増加と共に、通路の造りもまた豪奢になっていった。壁に掛けられた絵に飛び散る血、描かれた美しい女性の滑らかな頬に張り付き、垂れ流れる様が、凄惨な有様に拍車をかけて背筋を凍らせる。
 なるべく余計なものを目に止めないよう歩く中、アリアはふと、密度の濃い魔法の気配を感じた。離れた場所から他人に知らしめるほどの魔力とは、どうにも尋常でない。魔物の出現という危険性も考慮に入れ、アリアはいよいよ慎重に足を進めた。
(ここか……?)
 一際豪奢な扉を前に、アリアは耳を澄ませた。雨音は遠い。天井が高く、音を吸収する構造になっているのだろう。際立った物音はしない、高圧縮されたような魔力が、動いていく様子もない。
 だが、とアリアは眉を顰めた。扉の奥から、くぐもった低い唸りが聞こえる。
「あれは……!」
 耳に残る、獣の唸り。狭い空間、密集、反響、それはまるで、拷問のようにアリアの耳を刺激した。恐怖よりも先に不快感が、生理的に受け付けない嫌悪感が背筋を突き抜ける。
 当たりだ。そう思い、アリアは扉に手をかけた。予想通り、鍵は掛かっていない、――否、強引に壊されている。綺麗に閉まったように見えていたのは、それだけ立て付けが隙間無く綺麗にされていたからに過ぎない。
 勢い、中に足を踏み入れたアリアは、ちらと向けられた獰猛な視線を察知するや、纏っていた魔法を一気に解き放った。魔法結界の第一層の放出。アリアの予想が当たっていれば、獣は必ずこれに怯む。
 一瞬の衝撃。本来なら軽く叩かれた程度の痛みが走る程度のはずだが、果たして、獣たちは嫌悪感も顕わに跳び退った。
(効いた、やっぱり……!)
 そして、アリアもまた別の衝撃を受けていた。今や目の前に居る数匹の獣。泡の浮いた涎を垂れ流し、色つやの悪い体毛を逆立てている。それは紛れもなく、地下通路に何十匹と生息していたあの獣だった。
 ぞくり、と再び背中が震えたのは、恐怖か、歓喜か。
 だが、アリアにもあれこれと考えている余裕はなかった。ほぼ反射で魔法式を連発し、獣の足下に穴を穿つ。跳んで避けた体に鋭い風の刃が襲いかかり、胴のあたりで寸断した。飛び散る体液、床に落ちて撥ねた肉塊は、熟し切った果実のようにぐしゃりと潰れて床に放物線を描く。
 ひっ、と声が聞こえた。その存在に気付きながらもアリアは敢えて視界に入れず、ただ残った獣を目で追い続ける。残り三匹。彼らに学習能力があるとすれば厄介だ。一気に片を付けてしまった方が得策だろう。だが、別の目がある。さすがに挽肉の山を作るような手段はまずい。
 逡巡は僅かだった。もともと、アリアの乏しい魔力で使える魔法には限りがあるというのが正しい。飛び込みざまの魔法結界の威力を恐れてか、どこか遠巻きに様子を窺う獣を真正面から睨み、アリアは低く魔法式を口にした。
 ほんの一秒、飛びかかるための反動すらつく暇もない。その間に室内の大気は激変した。部屋の中央、少しずれた場所で構えていた獣たち、その真上の天井が極端にたわむ。屋根の上にとんでもない重量の物が落ちてきたかのような、不自然な歪曲。梁の軋む音が哀しく響き、床が細かいヒビに乾いた音を立てた。
 獣たちは、衝撃に床に這い蹲る。震える四肢で堪えてはいるものの、あと一押しでもすれば腹を床に付けてしまいそうな姿勢。踏ん張った足を支える大きな爪は、石で出来た床に食い込んでいた。
 動けない。それを認めてアリアは次の魔法式を口にする。
「――沈め!」
 本人達に知りようもないが、それは奇しくも、アッシュが魔物に対して使った魔法と同種の物だった。ただし、効果範囲も威力も、二人の間には桁違いの差が生じている。アリアの魔法はせいぜい直径二メートル、それも獣だけを狙った歪な形のもので、沈み方にしてもアッシュにそれに比べれは遙かに緩徐だった。
 突如出現した泥濘に、獣たちはあっさりとその身を沈め込んだ。先に仕掛けた重力の魔法が効いているのだ。それに抗う為に踏ん張れば踏ん張るほど、体は勢いを付けて沈んでいく。三匹の獣がその四肢を完全に泥の中に埋めたところで、アリアは初めて、室内にいるもう一人の人間に顔を向けた。
「殿下、今の内にお越し下さい」
 魔力の凝ったその場所、ベッドの上に座り込み身を竦めているエレンハーツに、アリアは手を差し伸べた。やつれた顔から、縋るような目が覗く。
「そこは安全かも知れませんが、そこからは動けないことも確かです。私がお守り致します、どうぞ、こちらへ」
 言って、獣の脇を通り抜ける。アリアの仕掛けた魔法は既に消失していたが、天井は埃を落としながら今も軋み、獣を捕らえたままの床は歪に陥没している。
 おそらく、ベッドの周囲に仕掛けられた魔法は、平素からエレンハーツの身を守るために設えられたものだろう。安定した力を感じるが、魔法式により設定された以上のことは期待できないはずである。この結界魔法がエレンハーツを守っている間に、ヒュブラなりの護衛が到着する、そういった目的しかない代物なのだ。
 このまま居残っても、また獣が現れる怖れがある。
 訴えるような視線に狼狽え、エレンハーツは震える声を絞り出した。
「そ、外はどうなっているの?」
「倉庫の辺りからここまで歩いてきましたが、他にこのような獣がうろついている様子はありませんでした。廊下はその、――既に、獣たちが去った後なのでしょう。ですから、今はここから逃げ出すことくらいなら可能です」
 グリンセス公のことをどう言ったものか、躊躇い、結局アリアは口にすることが出来なかった。
 恐る恐るベッドの側を離れ、唸る魔物を迂回するようにエレンハーツは扉の元へ辿り着いた。部屋の丁度手前の廊下に遺体がなかったことはこの際幸いだっただろう。グリンセス公の近くに集中していたことを考えると、はじめに獣の襲撃に遭ったのはあちらの方だったのかも知れない。
 ディアナの行方も気になったが、さすがにエレンハーツを探索に連れ回すことはできないと判断し、逃げるための道を模索する。
「右の通路は通れません。反対側で、どこか外に通じている所はありますか?」


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