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 この辺りの部屋や通路の窓は、全て中庭に向けて開いている。離宮から離れるには、外側に面した扉なり窓なりを使わなくてはならない。中庭を横断するという手は、いざというとき袋小路になるため使うことは避けたかった。
 エレンハーツは蒼褪めたまま俯き、額に手を当てる。
「向こうから行くと、大きく迂回することになるわ。離宮の奥半分は、整備されてない森に面しているの。外へ出たとしても、門の方へは柵で仕切られているわ」
 四方を敵で囲まれないようにするための構造なのだろう。だが、広い離宮内を迂回するとなると、相当な距離になる。その間に再び獣と遭遇する危険を考えれば、凄惨な道を通ったとしても早く外へ出る方を取るべきか。
 だが、今でも蒼白に震えているエレンハーツが、アリアの通ってきた道を無事に通りきることが出来るとは思えなかった。沈黙し、しばし悩むアリアに、エレンハーツがやや気乗りしない様子で口を開く。
「あと、ひとつ……、地下に通路があるわ」
 ぎよっとして、アリアは目を見開いた。
「緊急避難用に道があるって、生前お父様がおっしゃってたわ。たしか、正門の近くの像に通じてるって」
「入り口は、どの辺りに?」
「すぐそこの部屋の中よ。そこは、離宮に陛下がお越しになったときに、滞在されるお部屋なの」
 エレンハーツの差し示した部屋は、確かにそれを思わせる風格のある重厚な扉によって封じられていた。おそらく、鍵がかかっているだろうが、問題なのはそこではない。
 地下通路。現在地と正門の距離を鑑みれば、以前アリアが迷い込んだ場所ほどの距離はないと判る。第一この場合は外へ通じているのが当然の道であって、移動陣が待ちかまえているわけではない。なりふり構わず駆け抜ければ、数分で外へ出ることが出来るだろう。
(……駄目だ)
 地下の道、そして不可思議な形態の獣。重なり合う条件が、アリアの胸中に不安と緊張の渦を巻き起こす。行くべきではないと、頭の奥に響くほど心臓が煩く騒ぎ立てている。
 その選択肢を選ぶことは危険すぎる。そう結論を、アリアが口にしようとしたときだった。
「危ないっ!」
 エレンハーツの悲鳴が耳にこだまする。
 咄嗟に振り向いたその時、アリアの肩を鋭い爪が引き裂いた。勢い、倒れ込んだ背中に鈍い衝撃が走る。灼熱感を伴った左肩からは、流れるほどの血が染み出していた。噴水という程に勢いがないのは、太い動脈を逸れてくれた証拠だろう。
 殆ど反射的に結界を展開し、アリアは裂傷に治癒魔法を施した。じくじくと痛む肩、左腕には殆ど力が入らない。指先の細かい動きが可能であることだけを確認し、アリアは息を吐いた。
 そうして立ち上がり、顔を上げ、襲ってきたものを正面から見つめ、――アリアは、愕然と口を開けた。
「……魔物!?」
 引きつり、掠れた声は自分でも判るほどに調子を外していた。
「そんな、馬鹿な……」
 突然現れた魔物の、ひとつしかない眼がアリアを見据えた。鱗に覆われた太い尾が、鋭く床を叩く。あれに振り払われたらひとたまりもない、そう思い、アリアは唾を飲み込んだ。
 いつの間にか、背後に獣の唸りも聞こえる。左右は壁、まさに、追い詰められた典型的な構図。逃げ道は、ひとつだった。
 最早、迷っている暇もない。怯え、立ちすくむエレンハーツの腕を掴むと、アリアは魔法式を口にした。もっとも使い慣れた初級魔法、風の刃が重厚な扉の隙間を襲う。
 震える足に叱咤をかけ、アリアは渾身の力で床を蹴った。そうして勢いのままに扉を割り、室内に躍り込む。強引にエレンハーツを部屋の奥へ押しやり、追いかけてきた獣を蹴り飛ばし、アリアは再び扉に手をかけた。突風で補助をかけながら、結界を展開する。
 殆ど僅差で、壁に重い衝撃が走った。建物自体が震え、室内の家具が激しく揺れる。
 肩で息をしつつ、アリアはエレンハーツに向き直った。
「殿下、地下への道はどこですか。ここも、長くは持ちません」
「あ……、え、ええ」
 はっきりと蒼褪め、強ばった顔で頷く。アリアは震える手をもう片方で押さえることによって、どうにか恐怖を逃がしていた。守る存在があるのだ、自分が動揺してはならない、そう、言い聞かせる。
 だが、魔法には限界がある。一緒にいる相手がディアナであれば、或いは封じている力を使うことも出来たが、エレンハーツにはまさか、披露するわけにもいかない。通常の人間が使える能力の範疇で、対処する必要がある。
 エレンハーツの指示に従い、部屋の隅の棚を押す。日に焼けていない壁紙が元の色を濃く残す長方形の隅、木枠の装飾の一部に石が嵌め込まれていた。
「それを取って。鍵になってるの」
 暗がりの中、隙間に手を伸ばし石を掻く。埋め込まれた木枠との間に爪をかけると、簡単に石は転がり落ちた。
 途端、床に軽い振動が起こる。何事かと考えることもなく、アリアは一メートルほど離れた先の床がぱっくりと口を開く、その一部始終を目で追った。絨毯が縒り、端が空いた穴に垂れ下がる。エレンハーツは落ちた石を拾い、アリアを促した。
「確か、中に、この入り口を塞ぐ仕掛けかあるって聞いたわ。……あら、でもどうしましょう。どこにあるのか、判らないわ」
 動揺した目が、アリアを見る。苦笑して、アリアは頭を緩く横に振った。
「室内に隠した仕掛けを作ったのは、発見されないためです。中に入った時点で、そちらには隠す必要はありませんから、普通に、見える場所にあると思います」
「あ、そ、それもそうね……」
「行きましょう。私が先に進みます」
 強ばった頬で、アリアは笑う。エレンハーツもつられたように、僅かに目元の力を緩めた。
 床に空いた穴の中は、当然暗い。指先に光を灯し、アリアは地下への階段を慎重に降り進んだ。件の仕掛けは予想通り、階段を下りきった場所に堂々と設置されていた。石の台座の上に、キーとなる石が嵌りそうな窪みがある。アリアはエレンハーツから石を受け取り、その上に転がした。
 吸い込まれるように嵌った石を見つめ、頭上に低い地響きにも似た音を聞きながら、深呼吸を繰り返す。
「これでとりあえず、魔物からは逃げられたようですが……」
 額に滲んだ汗を拭い、アリアは暗い通路の先を見つめた。咄嗟の判断で、或いは否応なくこの脱出路を選んでしまったが、本当に良かったのだろうか。そんな思いが胸中に巣くっている。
 ――この時、あと僅かでもアリアに平常心があったなら、不可思議な点に気づけていただろう。地下通路がどんなものであれ、一刻も早く出なくてはならない。その心が集中力を著しく削いでいた。
 片手のアリアにも、簡単にずらすことの出来た棚。
 軽い刺激で外れた石。
 軋むこともなく開いた入り口。
 埃もなく、黴臭い臭いもなく、躊躇いなく出来た深呼吸。
 全てが、――少なくとも、エレンハーツが住み着いてより先、長い間使われることのなかった仕掛けにしては、妙に綺麗すぎる反応であった。
 ごく最近、使用した物が居る。そしてその人物は、まだ宮殿の中にいる。何故なら、入り口の開閉に使うただひとつの石が、室内の方にあったからだ。地下通路を抜けて去ったなら、石は当然、通路側になくてはならない。
 そしてその見落としは、躊躇いなく、そして素早く牙を剥いた。
「あれ、これ……」
 進んだ先、突き当たりの少し前の壁を見て、アリアは眉根を寄せた。魔力を帯びて、うっすらと浮き上がる文様。認め、アリアは息を呑む。壁一面に描かれたそれは、アリアにとって忘れることの出来ないものだった。
 背筋を悪夢が駆け抜け、体を震わせる。頭の中で、警報が最大音量で響き渡った。この道はやはり危険だと、空気を求めて口が喘ぐ。
 中庭を通る道でもいい、魔物が去っていれば、血みどろの廊下を駆けても良い、だが、この先だけは進んではいけない。今からでも良い、一瞬でも早く、この場から去らなければ。
 思い、振り向き、エレンハーツへと警告を発する。しかし、それを受け取るはずの人物は、そこには存在しなかった。
「――っ!」
 衝撃が、腹部を襲う。前のめり、胃の腑から逆流した物を吐き出した。
 霞む視界のその隅に、座り込む人影。エレンハーツだ。音もなく襲われたのか、それすらも気づき得ないほどに、アリアが背後への集中を欠いていたか。
(しまっ、た……)
 入り口が仕掛けのままに、本当に閉まりきったのか、確認することすら怠った、その代償。
 目の前に、紗が掛かる。
 膝を突いた、冷たい感触。支える腕。崩れる、体。
 自分の体が倒れていく様をスローモーションのように感じながら、アリアは意識を闇の中に滑り落としていった。

 *

 細かい雨が視界を遮る中、切り裂いて尚長いドレスの裾をたくし上げ、ディアナは離宮を目指し、ひた走っていた。恐怖はない、混乱もしていない。ただ疑問とそれを解きほぐす要求に従い、ぬかるんだ道を進む。
 ディアナが閉じこめられていたのは、離宮より少し離れた小さな屋敷だった。むろん、小さなと言っても、一般市民のごく平均的な家屋を幾つも連ねたほどの規模はある。そこに連れられたのはディアナと、身の回りの世話をするための、離宮の女官だった。アリアたち本来の従者と離されたのは、おそらくグリンセス公に何らか意図があったわけではなく、単に気付かなかっただけだろうとは判る。
 ディアナの選んだ娘達だ。大概の状況には柔軟に対応することができるだろう。そう信頼し、あえてディアナも側に付けるようにと訴えはしなかった。
 だが今は、それが裏目に出たのでは、と思う。
 異変を察知したのは夜半過ぎ、館の庭に放し飼いされている番犬が、突然激しく騒ぎ立てたのが切っ掛けだった。侵入者かと見回りの騎士が探索を開始したが、どうにも不審な点はない。犬たちも凶暴性を顕わにするわけでもなく、むしろ逆に怯えた様子で逃げ回る。人が気付かない変化を感じ取ったのかと、騎士達が話し合って離宮に伺いを立てたのは、犬が騒ぎ始めてから一時間ほど経った後だった。
「領主様と連絡が付きません。警護の人数が少なくなってしまいますが、様子を見に行っても構わないでしょうか」
 それまで話す機会もなかったが、どうやらディアナを監視、もとい警護していたのは、グリンセス公の私兵ではなく、歴としたグリンセス騎士団員だったようである。当然、詳しい事情は知らされていないのだろう。ディアナを当座の主とし、丁寧に許可を求めてきた。
 ディアナにそれを却下する義務も意図もない。鷹揚に頷いたのを認めて、三人の騎士が館を出発した。
 それから更に、一時間後、二時間後にひとりずつ騎士が館を発っている。馬で行けば十数分の道のりにも関わらず、誰一人戻って来なかったからだ。


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