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 十人居た騎士が半数以下になるころ、館の中にも緊張を孕んだ不穏な空気が流れ始めた。離宮の女官が、そわそわと、しかし意味もない行動を繰り返す。
 舌打ちを隠しつつ、ディアナが出した指示は、全員待機、だった。折しも降り出した雨は痛い程の勢いを持って地面を叩いている。屋根のない所など、満足に歩けもしないだろう。
 ディアナの言葉に困惑しつつも騎士たちは命令に従った。自ら意見を出し突破口を開こうとする、気概のある者はいなかったようである。否、敢えてそういった者たちが選ばれていたのだろう。
 女官たちにも休むようにと促し、室内に一人残ったディアナは、早速行動に出た。グリンセス公の選んだと思われる、やたらに華美で無駄の多い豪奢なドレスを脱ぎ捨て、出来るだけ質素な服を選ぶ。それでも広がった裾が邪魔だと判断したディアナは、女官達の目に止まれば悲鳴を上げさせるに違いないほど大胆に切り裂き、装飾をはぎ取った。
 そして、風系の基礎魔法で窓を――叩き割り、あっさりと館から脱出を果たした。
「まったく、厄介な雨だ」
 ぼやき、倒木を大胆に跨ぐ。間違っても、一国の王女がする行動ではない。そもそも、一方的に守られるはずの彼女が、単身、危険地に向かっている時点で何かが違う。
 だが、ディアナ自身は全くそのことには頓着していなかった。したいからする、焦れったいので自分が動く、その方が早い、というごく単純な思考である。亡命していたときからそうであったし、今後もその行動基準を変える予定はなかった。
 逃げても、いつかそれは追いついてくる。目を逸らしても、それは常に自分の前にある。拒絶しても、それは変わらない。
 ”現実”。
 一度だけ、ディアナはそれを否定したことがある。だが、その代償を背負ったのは、彼女ではなかった。彼女には後悔だけが残り、罪は全て、無関係だったはずのアリアの肩に落ちた。
 ディアナとアリアの関係は、間違いなく主従のものである。それが覆ることはない。けれどあの日、ディアナは、約束を交わした。――アリアが望む道を、支え続けると。
 甘かった、と思う。ディアナの勘が正しければ、今離宮は想像する気にもなれない状況に陥っている。他の誰もが漠然とした不安を感じることしかできなかった中で、ディアナだけは、離宮で起こっているだろう惨事を具体的に感知していた。それは、彼女だけが、それの起こりうる可能性を知っていたからに他ならない。
 何故なら、火種を作ったのはディアナ本人だったからだ。そうなったことに、さしたる感慨はない。切っ掛けが何であろうと、幾つも他に選択肢があった中で、彼らが自らそれを選び進んでいったのだ。その結末を、誰に文句言えようか。
 誤算があったとすれば、それは、ディアナがアリアたちと離れてしまったことだ。さすがに、ここまで早く事が起ころうとは思っていなかった――というのは、言い訳だろう。ディアナはまた、己の引き起こした厄災にアリアを巻き込んでしまった。
 故に、ディアナは走る。悲劇を、再び繰り返さない為に。


 ディアナが離宮の正門に着いた頃には、既に正午を過ぎていた。相変わらず雨は降り続けていたが、勢いは衰えている。立ち止まり、荒い息を吐き、ディアナは蔦の絡まる柱に背を預けた。
(やはり、な)
 人の気配がしない。
 僅かに震えたのは、濡れた服が体温を急速に奪っていったからか、或いは怖れに因るものか。
 王族の別荘地が、ここまで静かになったことはないだろう。中に主のいない間でも、常に役人によって管理され、警備と清掃は続けられているのだ。ディアナにしてみれば無駄遣い極まりない話だが、それこそがステイタスと感じる人種も存在するものである。
 重い灰色の空の下、陰鬱に沈む離宮。
 無人の門をくぐり、周囲を見回し、そこでディアナは怯むように立ち止まった。
「――魔物、か?」
 目を細め、遠くに目を凝らす。煙る視界の先に、確かに蠢く影があった。人よりも大きく、見事な長い尾がバランスを取るように揺れている。
 気配を殺し、ディアナはゆっくりと魔物の方へと近づいた。好奇心ではなく、冷静な判断に依るものである。離宮に、人を探しに来た以上、当然そこに居るものとの戦闘は避けられない。援軍が期待できない以上、ひとつずつ潰していくしかないというのが現状である。
 雨が叩く魔物の体は厚い鱗に覆われていた。生中な剣の腕では、傷一つ付けられないだろう。幼少時からの訓練で、大概の騎士にも引けを取らない腕前を持っているディアナであったが、力そのものはやはり成人した男性に劣ることを自覚している。受け流し、急所を突くことが主体の剣術は、破壊力において遙かに人に勝る魔物には通用しないだろう。
 充分な間合いを空けて、魔物の隙を探る。聖眼がない以上、動きの僅かな変化から急所を予測し、確かめていくしかないのだ。
 そうして、右に左に魔物を伺っていたディアナは、ふとその口が、何かを咥えていることに気がついた。長い舌が巻き付き、すぐ側の歯が鈍く光っている。目を凝らし、ディアナは息を呑んだ。
「義姉上」
 まさか、と思い、頭振る。だが、魔物の歯の隙間から覗く薄い金髪は、紛れもなくエレンハーツのものだった。生きているのか死んでいるのか、さすがに遠くからでは判らない。
 意を決し、ディアナは魔法式を口にした。上空に、身を切るような冷気が渦を巻く。
 降り続いていた雨が急速に冷やされ、幾つかまとめて固まり、大粒の雹を形成した。重力に従い、氷の刃が魔物の上に降り注ぐ。多くは硬い鱗に弾かれて散っていったが、幾つかはその隙間に、或いは急所とも言うべき柔らかい部分に突き刺さった。
 咆吼を上げて、魔物は仰け反る。瞬間、照準を合わせていたディアナは、短刀を一撃、魔物の口の中に命中させた。
 さすがに、口腔内は人と同じく粘膜だったようである。狂ったように頭部を振り回し、魔物は何度も足踏みを繰り返す。周囲の木々が地響きに揺れ、生い茂った枝葉から大量の雫が撥ね落ちていく。
 そのうちに、咥えられていたエレンハーツが、巻かれた舌から滑り落ちた。抗う様子も見せない彼女に向けて、ディアナは局地的な上昇気流を起こす。果たして、エレンハーツはゆっくりと、地面にその体を横たえた。落ちたという衝撃は、殆どなかっただろう。
 ディアナは目の端にエレンハーツの無事を捕らえつつ、魔物へと攻撃魔法を繰り出していた。炎の渦、風の刃、跳ぶ石礫、降り注ぐ氷塊、どれがどの位置にもっとも効果を及ぼすか、確かめながら魔物を追いやっていく。
 やがて、魔物が一際高い咆吼を上げた。魔物の生命線、そこを突くことが出来れば瞬殺することも出来ると言われる一点に命中したのだろう。
「逝け!」
 狙いを澄まし、ディアナは見えない弓矢を放つように腕を動かした。大気が鋭く鳴り、圧縮された風が魔物の尾の付け根を襲う。体を捩り、逃げようとする魔物の側面を炎で牽制し、ディアナは第二弾を解きはなった。
 低く、重く、大気が震える。唸りとも叫びともつかぬ音が空に放たれ、凄まじい圧力が放射状に飛び散った。目の前を腕で庇ったディアナの体も、抗しきれずにじりじりと下がっていく。だが彼女は、敢えて防御結界を展開しなかった。それが攻撃ではなく、膨大な力の解き放たれる反動であると判ったからだ。
 自然の力が収束する力を失い、巨大な体躯は自然の中に溶け、力は分散した。そういうことだろう。
 強く押す力が失われていくのを確認し、ディアナは僅かに強ばった体をほぐして息を吐く。魔物と闘うことは初めてであったが、どうにかなったということに、彼女なりに安堵したのだ。もっとも、事前に魔物と遭った時の対処方法を聞いていなければ、こうもすんなりと片付けられはしなかっただろう。
 癪だと思い、苦笑する。なんだかんだと言って、あの男の予見はディアナのそれを上回るのだ。悔しいというよりも、してやられたという感がする。
 頭振り、ディアナは完全に静寂の戻った庭を見回した。
「義姉上」
 ぬかるんだ地面に横たわったままのエレンハーツであったが、胸は軽く上下している。さしたる外傷もない。しかし、真っ青な顔と紫色の唇、冷え切った手足はまるで死人のようだった。
 どうしたものかと思案する。その時、遠くの草むらが勢いよく分けられる音がした。
「ディアナ様!?」
「レン、か……?」
 驚き、ディアナも目を丸くする。全身ずぶ濡れのまま走り寄ってきたのは、間違いなく彼女の侍女であった。
「ディアナ様、ご無事で!? その、何か凄い音がしましたが」
「ああ、わたくしは問題ない。そうか、レンは無事だったのだな」
 緩く笑みを浮かべるディアナとエレンハーツを交互に見遣り、レンはほっとしたように息を吐いた。
「しかし、レン、アリアはどうした?」
「その……、別れました。アリアはやることがあるって言ってましたので。私は砦か軍の駐屯地まで助けを呼びに行くつもりで、外に出ました。昼過ぎまではアリアを待つつもりでしたが……」
「だとすると、アリアは中にいるのだな?」
「そう、です」
 僅かに気まずそうにレンは言葉尻を濁した。
「済みません」
「お前が謝る必要はない。この三日、私がお前達に連絡を取ろうとしなかったのが悪いのだ。それに、アリアは自分から行ったのであろ? であれば……」
 言いかけ、ディアナは目を下に落とした。
「義姉上?」
 呼びかけに、レンも顔を向けた。ディアナの膝の上、エレンハーツが苦しげに呻いている。眉根を寄せ、強く歯を噛み締めるその姿は、苦しみとも悲しみとも取れぬ、怨嗟に近い苦悶を滲ませていた。身を捩り、何かを詰るように両手を宙に震わせる。
「義姉上、お気づきか。義姉上」
 呼びかけるディアナに反応して、エレンハーツは戦慄く瞼を、ゆっくりと持ち上げた。
「義姉上、判りますか。ディアナです。――判りますか?」
「う……」
 呻き、エレンハーツは何度も瞬いてみせる。そのうち、茫洋と漂っていた焦点が、ディアナへと合わされた。小刻みに震える唇が、緩慢に開いていく。
「……ディアナ」
「そうです。良かった。ご無事でしたか」
「ディアナ、……、ああ、ディアナなのね」
 途端、瞼からどっと涙が溢れ出る。
「良かった……! 私、怖くて、怖くて……!」
「ご無事で何よりです」
「ああ、ディアナ、早く、早く逃げましょう。化け物たちが来てしまうわ」
 切羽詰まったように身を起こすエレンハーツだったが、その体からはすっかり力が抜けてしまっているようだった。レンとディアナが支え、ようやくのようにふらつきながら立ち上がる。その場から少し離れ、正門の横、生け垣の縁にエレンハーツを座らせて、ディアナは真正面から彼女を見つめた。


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