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(十四)

 陽の差さない石壁の空間に、勢いのない橙色の灯りが揺れる。ぼんやりと、何を喰らうでもなくただ惰性のまま、茫洋と周囲を照らす灯りは、過ぎた日が如何ほどのものかを忘れさせるには充分だった。昼も夜もない、只同じ、沈殿した闇と表情のない橙のかすかな光、そして、低く唸る獣の声。
 ヴェロナ・グリンセスは、浅い微睡みからゆっくりと浮上した。硬い石と土の壁だけで出来た空間は、満足な眠りすら与えてくれようとはしない。何度も眠り、目覚め、いつの間にか置いてある粥を啜る、そういった生活に、彼女の精神はすっかりすり減ってしまっていた。
「……起きてますの?」
 少し離れた場所にある、同じような空間。鉄格子で区切られた向こうに、僅かに揺れる背中がある。ほ、と息を吐いて、ヴェロナは湿りを帯びた石畳に目を落とした。
 ここへ閉じこめられて何日経っただろうか。既に感覚は麻痺している。深く思い悩むことも無くなったが、足掻こうとする気力も湧いてこなくなっていた。何があるわけでもない、同じ時間の繰り返し。何の希望もなく、息をして生きているだけというのが、ここまで苦痛だとは思ってもいなかった。
 ――だが、今は少しだけ違っている。けして気楽な相手ではなかったが、話すことの出来る人間が同じ場所にいるというだけで、自分が人であることを思い出す。
「大丈夫ですの?」
「ああ」
 短い、最低限の返事。無理もない。彼は本来持っている力を無理矢理押し込められた状態にあり、体の調子がおかしくなっているのだ。魔法を使うことの出来ないヴェロナには判らないが、それは相当に辛いことであるらしい。噂通りの無表情、或いはどこか少し怒ったような顰め面であったが、寄せられた眉根と額に浮く汗、時々それと判るほどにはっきりと上下するのど仏を見れば、彼の不調は医学的な知識のないヴェロナにも明らかだった。
 彼、アッシュ・フェイツが同じく牢に繋がれたのは、少し前のことである。そのときから彼は既に、憔悴しきった状態だった。
 牢の準備が間に合わなかったのだろうか。はじめ、アッシュはヴェロナと同じ牢に放り込まれてきた。黒いローブを羽織った人間が、意識を失った状態の彼を連れてきたときには、さすがにヴェロナも蒼褪めたものである。去り際、顔面を覆ったフードから覗く唇が、意味ありげに曲げられたことに、本能的な身の危険さえ感じた。ヴェロナは何一つ、身を守る得物を持っていない。男との体格差を考えただけでも目眩がするようだった。
 アッシュは果たして正気だろうか、錯乱した男に嬲り殺されるのではないだろうか。怯え、無駄な抵抗だと自覚しながらも、少しでも見つからないようにと、牢の端で蹲っていた。
 ――しかし、目を覚ましたアッシュは、ヴェロナに全く無関心だった。時折苦しげな息を吐く他は無感動に、別段取り乱すこともなくヴェロナの対角にあたる隅で遠くを見つめて過ごす。ヴェロナが拍子抜けするほどに、彼は何の反応も示さなかった。
 だが、彼も成人した男。囚われの身という鬱屈のはけ口が、いつヴェロナに向くか知れたものではない。今は何月何日か、外の様子はどうなっているのか、聞きたいことは山ほどにもあったが、話しかけることでアッシュの意識がこちらに向く可能性がある。知ったところでどうしようもないと自分に言い聞かせ、ヴェロナもまた、口を引き結んで彼の存在を排除した。
 とは言え、完全に居ないものとして過ごすにはさすがに無理がある。棲み分けるには狭すぎる鉄格子の中、努力して外を見ていない限り、どこにいても相手が目の端に映ってしまうのだ。ずっと固まった姿勢で座り込んでいる訳にはいかない以上、動く度に相手のことを意識してしまうことは避けられなかった。
 食事はさして問題がない。排泄場所もかろうじて粗末な戸で区切られている。だが、常に少しずつ水の湧いている場所はひとつきり、丁度牢のど真ん中。溜める容器も満足な量の布地もない以上、体を拭うのはその場で行う必要がある。はじめは緊張もありそれどころではなかったヴェロナであったが、次第にねっとりと垢の浮いてきた体に我慢出来なくなってきた。
 体を拭う間向こうを向いていろと、果たして聞き入れてもらえるだろうか。
 口を開きかけては、躊躇って口を閉ざす。そんな行動を、ヴェロナは幾度となく繰り返した。体ぐらい拭わずとも、すぐに死ぬことはない、だが他に何もすることがない以上、事あるごとに気が向いてしまう。いっそ鎖に繋がれてでもいれば諦めもついただろうが、男の目さえなければ容易く出来ることだけに、要求が抑えきれないでいる。
 ヴェロナの葛藤に気付いたのか、意外なことに、最初に言葉を吐き出したのは、アッシュの方だった。
「――え?」
 突然のことにぽかんと口を開けたヴェロナに、彼は煩わしそうな顔を向けた。如何にも億劫そうに、髪をかき上げる。
「女をいたぶる気などない、と言った」
「それは……」
「あんたに興味はない。向こうを向いてるから、やりたいことをやればいい」
 言って、それで終わりだと言わんばかりに背を向ける。拒絶というほどではなかったが、言葉の通り見事に素っ気ない態度だった。気を遣っているなどという、良心的な誤解すら入る余地がない。
 ヴェロナはぽかんと口を開いた。噂には聞いていたが、実際に当事者になってみると誰の口からも無礼、無愛想と言われる意味がよく分かる。ひとしきり唖然とし、その波が収まる頃に、ふと怒りのような感情が湧き起こった。
 それは、女の部分の矜持であったのかもしれない。
「随分なおっしゃりようですわね」
 微動だにしない背中に、恨み言のような言葉を投げかける。
「お噂通り、ひどいお方ですのね。もう少し、言葉をお選びになった方がよろしいのでは?」
 単なる愚痴のつもりだった。久しぶりに言葉らしい言葉を聞いた為に、鬱屈したものを吐き出したくなっていたのだろう。
 だが、アッシュの言葉はどこまでも素っ気なく、遠慮がなかった。
「頭のおかしな女だ」
 振り向くでもなく、感情の乗らない平坦な声。
「興味を持たれて困るのはあんただろう」
「……平気ですわ。慣れっこですもの」
 嘘ではない。それでも僅かに間が空いたのは、それがヴェロナにとって苦痛以外のなにものでもなかった事実を示す。食べるものがある、寝るところがある、それが与えられているだけまだましなのだと、かつては何度も自分に言い訳をしたものである。
 アッシュは、ただ頭を掻いた。そして、勢いを付けるでもなく身を起こす。一度ちらりとヴェロナに目を向けてから、彼はため息を吐き出した。
「莫迦言え。無理矢理意に染まない事を強要されて、平気でいられる奴なんかいるか」
「……あなたに、何が判るって言うの」
 低く、ヴェロナは唸る。無遠慮な男のことなど無視しておればよい、そう思う中に、人というものに触れたがっている自分がいることに気付いていた。笑って話せる状況ではない。だが、詰り合いでもいい、ひとりでないことを実感したがっていた。
 ――喋ることで、人間であることを思い出したかったのかもしれない。
 それを感じ取ったわけでもあるまいが、アッシュは黙って話を閉じたりはしなかった。
「そうだな。俺は男だから、あんたの気持ちをどうこう言う権利はない」
「判ったような口を……」
「だがそれ以前に、他人の痛みなんか正確に判らなくて当然だ。同じ経験をしても、人によって受け止め方も処理の仕方も違う。あんたは平気な振りをして、敢えて相手を見下してそれで押さえ込んでいるが、自殺した奴だっている」
「何が言いたいんです? くだらないことで意地を張って、見苦しいとでも言いたいんですの!?」
「あんたが痛いというなら、痛いんだろうさ」
「は?」
 あまり上手く話が繋がらない。アッシュの言葉は妙に飛ぶ。いや、戻っているのかも知れないと理詰めで考えると、更に判らなくなってくるから不思議である。
 いつの間にか、アッシュは離れた位置からヴェロナの姿を捕らえていた。暗がりの中、読み取れない表情の、しかしそうと判るほどに落ち着いた灰色の目が、静かに見つめ来る。
「他人の痛みは分からない。だけどそれは、無理矢理判る振りをすることでも、むやみに同情するものじゃないだろ。ただ、相手の痛みを信じてやればいい。他人にとってはたいしたことのない事でも、あんたが辛いと思えばそれは、あんたにとって確実に辛いことなんだ。その他大勢の価値観に置き換えて強がる振りをする必要はないし、誰しも、他人の身に起こったことを自分の身に置き換えた、自分の感情を混ぜた主観的な感想を押しつける権利はない」
「……」
「あんたがそう思うなら、確かにあんたはひどい目に遭ってきたんだ。客観的に見ても、充分辛い事だ。無理に、なんでもないように振る舞う必要はない」
「同情してるつもり?」
「言ったろ。俺は男だ。そういう括りでは、同情する権利なんかない。ただ別に、こんな場所で、初対面の俺に強がる必要はないと言っているだけだ」
 言って、乱暴に髪をかき混ぜた。
「あんたが何もしたいことないというなら、そこをどいて、向こうに行ってろ。俺だって、いい加減体が痒い」
 けして、和ませようとしたわけではないだろう。真実そうだからそう言った、彼にとってはごく自然なことだっただろう。だが、その時確かに、ヴェロナの体から、ふと力が抜けた。
「――もう。騎士って、もっと、女性を大事に扱う教育は受けてないのかしら?」
「ない」
 短い即答に、しかしヴェロナは久方ぶりに頬の筋肉が上に持ち上がるのを感じた。自分は笑ったのだと気づき、まじまじと男の顔を見遣る。
「なんだ」
「嫌な奴だと思ってましたの」
「そうか」
「怒りませんの?」
「どうでもいい」
 上手く繋がらない、短い言葉の投げ合い。しかし、当たり障りのない内容ながら、ふたりの間に会話らしき言葉が交わされるようになったのは、確かにそれが切っ掛けであった。連帯感を覚えるほど親密になることはなかったが、少なくともその時から、ヴェロナの抑鬱が幾分緩和されるようになったことは確かである。
(ああ、そうだった)
 男の背中を見つめながら、ヴェロナはそんな初めての会話を思い出していた。あの時の彼はまだ、疲弊していたとは言え、まともな受け答えが出来ていたのだ。それが今は、単語レベルでの言葉を吐き出すのみとなっている。彼から話しかけてきたこと自体が彼の気遣いであったのなら、最早、彼には欠片ほどの余裕もないのだろう。
 そうなったのには、勿論原因がある。言葉を交わした日から、それほど時を経てはいない、おそらくは翌日のこと。
 ヴェロナが閉じこめられてから半月ほど、1、2回しか姿を現さなかったローブの男が、日を置かずに突然牢を訪れた。それだけで、明らかにアッシュが目的だと判る。
 案の定、ヴェロナには目もくれず、男はアッシュを牢から引きずり出した。抵抗の余地などはない。鉄格子の外から容赦ない痛烈な攻撃魔法が繰り出され、粉塵が落ちた頃には既に、アッシュは男に担がれていたのだ。ヴェロナに、何をすることが出来ただろう。
 それから、彼の身に何が起こったのかは無論、ヴェロナの知るところにはない。


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