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 アッシュが戻ってきたのは、半日も経った後のことだった。反射的に身構えるも、この時彼が放り込まれたのは、ヴェロナとは別の牢だった。遠目にも目立った外傷はなかったが、食い縛った歯の隙間からくぐもった呻きが聞こえてくる。意識があるにも関わらず、為されるがままに抱えられ、床に落とされたときも受け身一つ取れない様子は、彼らしくなく尋常ではなかった。
「……何をしたの」
 立場を忘れて、ヴェロナは鉄格子を揺する。ローブの男はちらと視線を向けたようだったが、答えが返されることはなかった。
 男が階段を昇り、少し高い位置にある扉が閉められたのを確認し、アッシュの近くに寄る。格子とその間の溝が隔ててはいたが、声が通らない距離ではない。投げ出された状態のまま、アッシュは両腕で自らを抱き、忙しない息を吐いていた。
「お水、いるかしら?」
「……いらん」
 荒い息の間に、短く絶ち切る言葉。少し前のヴェロナであれば確実に怯み、そして大人しく引き下がっただろうが、この時には別の感情が生まれていた。短い会話でも判ったとおり、この男は無愛想だが、人の心を知らぬわけではない。馴れ合いの出来る気易い存在ではなく、まして好意を抱くわけでもなかったが、同じ境遇の者としての心配が先立った。
「そう。それでしたら、とりあえず置いておきますわ。少しでも良くなったら飲んで下さいな」
 アッシュは、苦しげに呻きながら、小さく頷いた。少し遅れて、悪い、と掠れた声が聞こえる。
 それから更に一日ほどが経ち、少し落ち着いたのだろう、彼はヴェロナに体調不良の原因を簡単に言って聞かせた。そうして、何かあったときには自分を置いて逃げろと繰り返す。
「逃げるって、この鉄格子がありますのに?」
 相変わらず背を向けたままのアッシュに、ヴェロナは小さく声を返す。
「そこの扉も閉まってますわよ」
「何とかする。逃げろ」
「……捨て置けるほど、私は薄情ではありませんわよ」
「少しでも逃げ遅れたら、あんたは死ぬ。いいか、躊躇うな」
 何度も強く念を押す。あまりに強い調子に、ヴェロナはさすがに面食らった。
「連れ出されたときに、何かご覧になったんですの?」
 ずっと無言だったアッシュが、急にもしものときを前提とした話を口にするには、相応の理由があるはず。そう思い彼を伺うが、その後には、肯定とも否定ともつかぬ沈黙だけが横たわった。
 そうして彼を眺めつつ、また更に一日が経過した今、アッシュはもはや、ヴェロナの方を見ようともしないで背を向けている。ただ素っ気なかっただけの背中が、今やはっきりと拒絶の意思を示していることに、ヴェロナは居たたまれない気持ちを抱く。
 じっと見ているだけという事がこんなに苦しいことを、初めて思い知ったようだった。
 外は酷く雨が降っているのだろう。ヴェロナが浅い眠りから目覚めたときには、いつもどんよりと湿った空間が、更に重みを増していた。少し高い位置にある通風口から吹く風も強い。石壁の隙間、苔生した場所にはいつもにはない水の流れが微かな音を立てていた。
 嵐か。季節の変わり目には、区切りを示すかのような不安定な天候が続く。鉄格子の外を始終歩き回っている、狼のような獣も、心なしか落ち着かない様子に見えた。すっかり見慣れてしまった、小型の禽獣のような魔物も、忙しなく牢の間を行き来している。
(湿気が、悪い影響を与えなければいいけど……)
 仰向けに寝転がったアッシュの喉が、再び強い音をたてた。吐き気を堪えているようにも、無理矢理喉を潤しているようにも見える。特別な何をすることも出来ず、ヴェロナはただ、端の欠けた小さな椀に水を取り、彼の手元に置いた。ふと、僅かに触れた指先が、異様なほどに熱い。
 生来、病気に強いはずの魔法使いがこのように発熱するなど、余程のことではないだろうか。目を見開いて凝視するも、当の本人が辛さも恨み言も口にせず、ただひたすら苦痛に耐えている以上、ヴェロナには詳しく知る術がない。
「……どこが、大丈夫ですか、ひどい熱ではありませんか」
 掛ける声すら掠れてしまう。もともと、人の世話を焼くことを好む方であり、ヴェロナには今の何も出来ない状況があまりにも歯痒かった。
「私に、できることはありませんの?」
 問えば、ただ、逃げろ、と言う。喘鳴にも似た息が男の喉から漏れるのを、ヴェロナは唇を噛んで見つめた。
 何が出来るでもなく、それから数時間経った頃。
 突然、常には聞こえることのない、激しい音が響き渡った。階段を少し上がった場所の扉付近が、強く物を当てたように揺れる。高い天井から、パラパラと細かい砂がこぼれ落ちた。
「……何!?」
 一度ではない。立て続けに数度、同じような衝撃に壁が震える。
 さすがにこれは驚いて、眉間に皺を寄せながらアッシュは身を起こした。ヴェロナも鉄格子の端まで寄り、何事かと食い入るように震える壁を見つめ遣る。
 間を空けて、それは何分間続いただろうか。獣が十数匹寄り集まり、不穏な唸りを上げる中、漸く静かになったと思った矢先に、扉が勢いよく開かれた。
 それは、けして予想外の人物ではなかった。目深に頭巾を被った、黒いローブの男。その姿を見るや急に威勢を無くしたように怯み、獣たちは広い空間の隅へと散っていく。それまでに何度も、男が訪れる度に見た光景である。
 だが、どうしたことだろう。男の動きは明らかに不自然だった。見れば、割けた服の裾から、小さな雫が垂れている。夕暮れ時のようにどこか影のはっきりしない空間にあっても判るほどに、それは赤黒いぬめりを主張していた。
 先ほどの衝撃は、ローブの男が何者かと遣り合ったものだろうか。もしかしたらすぐ近くに、助けの手が来ているのかもしれないと、ヴェロナの心臓は鼓動を速めた。
 だが、その淡い期待は長続きはしなかった。決定的な否定を聞かされたのではない。それ以上に大きな驚愕に、心が引き攣ってしまったからだ。
「……アリアさん!?」
 悲鳴に近い声がヴェロナの口から発せられた。辛そうに目を伏せていたアッシュが、弾かれたように顔を上げる。
 否定したくとも、する術がない。暗がり、しかし男に引きずられながら項垂れる人物は、間違いようもなく知った少女、アリアだった。

 *

 夕暮れ、ライカの村にたどり着いたギルフォードは、マリクの言葉にあった診療所を訪れた。村は広く、閑散としている。無理もない、魔物が出たともなれば、しばらく土地を離れる者も出よう。それでも完全に無人にならなかったのは、秋の収穫が間近に迫っていたからに他ならない。
 だが、静かだ、とギルフォードは小高い丘から村を見下ろした。活気がないのは予想の内だったが、こうもあっさりと、目的地にたどり着けるとは思ってもいなかったのだ。マリクの様子からして某かの妨害に遭うだろうと予想し、その為に準備したものは、ただの荷物となっていた。
 マリクとアッシュを襲った魔法使い。おそらくはその力量からして、マエントで外交官の殺害に手を貸した者に違いないだろう。「聖眼」を仲間とし、魔物さえ誘導しうる力を持つ、相当な手練れ。村に今ある平穏は、その魔法使いの目的がルセンラークと異なり、村そのものになかったことを示す。
 大きな犠牲を生むことはなかった。そう思えば幾らか気分は楽になるものの、それはそれで、ギルフォードに別の憂いを与えることとなる。出立前にはいくつも考えられた魔法使いの目的は、旅の過程で段々と選別され、絞られていった。
「にーちゃ、いるかなー」
 憂色を浮かべるギルフォードとは対称に、共に行くユマの声は明るい。浮き足立つ足取りを後ろから眺めつつ、ギルフォードはため息を吐いた。まだ幼い子供が無邪気に笑う姿は微笑ましいが、表面上どう取り繕おうと、到底同じ気分にはなれそうにもない。
 ほどなくして辿り着いた家の前で、ギルフォードはユマを止めた。丘の上の木に馬を繋ぎ、ギルフォードは汗の滲む手で扉を叩く。
「……はい?」
 程なくして開かれた扉から現れた女性は、訝しげに二人を眺めやった。不審の混じった目をしているが、その程度であれば、閉鎖的な村にはよくある種類の出迎えである。魔物の出現した後だ、もう少し警戒しているものと思っていたギルフォードは、彼女の無防備とも取れる様子に面食らう羽目になった。
「あの……、どちら様でしょうか」
「マリク・フェローの知人です。彼に頼まれて、様子を窺いに参りました」
 内心の疑問や動揺など露ほどにも見せず、ギルフォードはにこりと笑って礼を取る。何度か瞬きを繰り返した女性は、僅かに頬を染めながら、中途半端に開いていた扉を完全に押しやった。
「まぁ、マリク様、ご無事でしたのね」
「とりあえずは。ですが彼も、自身が去った後のことを気にしておりました。サライアさんと伺っておりますが、少し時間を取って、お話を聞かせていただいても構いませんか」
 やや強引とも取れる言葉に、女性、サライアは大きく頷いた。挨拶もせぬままの別れたのだ、彼女なりに消えたマリクたちの身を心配していたのだろう。
 診療所の奥に通されたギルフォードは、僅かに緊張した様子のユマをサライアに紹介した。王都に住むマエントからの移住者という設定は、案外無理なく通る。両親は都合が付かず、無理を言って来てもらったと言うと、サライアは疑う様子もなく頷いた。
「まぁ、そうすると、マエントの方のお知り合いなんですか?」
 病室の前で立ち止まり、サライアは幾分驚いた様子でユマに目を落とす。ギルフォードはユマの頭を撫でながら、慎重に言葉を選んだ。
「可能性、ですが。――彼は無事でしたか?」
「え? ああ、あの時のことですね。はい、騎士様に助けていただきましたので……」
 ギルフォードは驚いて目を見張る。そうして、眉根を寄せて頭を掻いた。
 アッシュが件の魔法使いを倒した後、こちらに駆けつけたのだろうか。だがそれならば、その後なんらかの連絡が来そうなものである。騎士団の門が閉じられている以上、マリクの逃げ込む先は魔法院にしかないのだ。ティエンシャ公の逃亡に手を貸した彼であれば、そうと気付くだろう。
 すれ違ったか、と思い、首を横に振る。こちらは子供を連れた旅行き、魔法院でマリクから事情を聞くという時間のロスがあったとしても、アッシュならここへ来るまでに合流できただろう。
(アッシュさんの他に誰か……?)
 そんな話は聞いていない。第一、ティエンシャ公救出に参加した騎士が、ふたりを除いて全員蟄居中であることは確認済みである。
 考えても埒があかないと、ギルフォードはサライアに向き直った。
「すみませんが、その騎士というのは、マリクさんと一緒に居た、背の高い黒髪の男でしたか?」
「いえ、その方はこちらには……」
 一瞬、きょとんとした表情で見返してきたサライアは、しかし、訝しげに首を傾げた。
「あら、そうするとあの方は、お知り合いではなかったのかしら?」
 若干の焦りを含んだ独り言に、ギルフォードは唾を飲み込んだ。
「その……、はじめにマリク様といらした方は見ておりませんが、他の騎士様が、この周辺に出た魔物を追い払って下さいました。てっきり私は、その、マリク様たちと一緒に旅されていた方かと……」


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