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 (十五)

 グリンセス公による離宮の占拠、その報は、一旦王都に広まるや否や、瞬く間にキナケス全土に広がった。国の東端のコートリアも、無論、例外ではない。この日の朝に届いた噂はすぐに波及し、人々の口を介して様々な憶測が飛び交った。その中に、根も葉もない邪推が含まれていたことは、噂の長い旅路を思えば仕方のないことなのだろう。
 騎士団の砦、最上階の窓から領内を見下ろし、トロラード・ビアーズは口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「――まさか、詰めを急がれるとは……」
 声に、僅かな困惑の色。彼は言わば、コートリア地方の警備最高責任者である。離宮が如何なる経緯を経てグリンセス公の手に落ちたのかは、当然、密偵を介して正確な情報を耳にしていた。
「まぁ、少し時期が早まっただけで、大事には至らないと思うが……。ちと厄介だな」
 遙か西を睨み、爪を噛む。
「かの方はまだまだ利用価値のある身、助けてさし上げた方が良いかと思うが?」
「……さて、今更こちらの言うことを聞きますかどうか」
「ほう、それはどちらのことですかな。そういえば、最近……」
「トロラード殿」
 遮るように、強い口調が室内を震わせる。
「こちらのことは、任せていただこう。それよりも、そちらの内にある火種に、そろそろ気をつけられたほうが良いでしょう」
「なに……」
「彼の見かけや言動に騙されぬ方がよいと、忠告しておきましょう」
 ふ、と男は口の端を曲げた。そうして、話は終わりとばかりに立ち上がる。一瞬、さっと顔を赤らめたトロラードだったが、男の振る舞いを見る内に、ふと眉を顰めた。
「どこか、怪我をしているのか?」
「……少々。かすり傷です。では」
 いつも通り砦の表には向かわず、団長室の端に足を向ける。そこにあるのはまさに只の壁であったが、よくよく目を凝らせば、僅かに一部分が変色していることに気がつくだろう。だが、それを意味のあるものと捉える者はまず存在しない。それほど巧妙に隠された、地下への直通路の入り口。
 男は、室の主の意味ありげな視線を背に、しかし何を言うこともなく手を伸ばした。そうして現れた狭い穴の奥を、じっと眺めやる。
「いつ、事は成るのだ?」
 痺れを切らしたかのような、苛立ちの込められた声に、男は脚を半歩下げて立ち止まる。ちらと目線を背後に返せば、睨み来る双眸とかち合った。
「もうすぐ、です」
「ほう」
「それまでに彼を引きずり込んだ方がいいでしょう」
「ああ、あれか」
 莫迦にしたように、トロラードは嗤う。
「放っておけば、勝手に踊ってくれるだろう」
「そうですか。しかし、油断されぬよう」
「判っている」
 どうだか。――男は、再び穴に向けた目を皮肉っぽく細めて、唇を奇妙に引き攣らせた。失笑したいのを堪えている、そんな表情である。勿論、男の背中を見つめるトロラードが、それに気付くことはない。
「ではくれぐれも、領の境界には――」
「判っている」
 語尾に、トロラードの吐き捨てるような声が重なった。それが苛立ちによるものか、隠し通路が開かれたままの状態に危惧を抱いているのかは判らない。誰かに目撃されたところで、男にとっては大した打撃にもならないが、トロラードは進退を窮めることになるだろう。
 まだ彼には利用価値がある。男は静かに笑んだ。
 既に事は坂道を転げ落ちるが如く、速度を上げて進みつつある。トロラードはその、重要な駒だった。もう少し後であればともかく、今こんなところで斃れられては、今まで懐柔してきた意味が全て無くなってしまう。
 ここは素直に退散した方が良いと、男は暗く深い穴から目を逸らし、顔だけで振り返る。
「それでは、また後ほどに」
 トロラードが頷いたのを認めて、男は、黒いローブを鬱陶しそうに翻した。

 *

 殆ど陽が差さない他は、普通の室内と変わらない、奇妙な地下牢。もともと身分制度のあった時代に、貴人を預かるために作られた一室で、フェルハーンは人目を憚ることなくだらしなく寝転がっていた。王族たる者、如何なる時も民衆の手本となるように――などといった堅い教育係が見れば、泡を吹いて倒れたに違いない。
 ズレ落ちたように長椅子の端から片足を落としつつ、フェルハーンはぼんやりと、変わり映えのしない天井を見つめた。
「……何やってるんですかね?」
「んー……」
 突然の声に驚くでもなく、眠そうな目をちらりと動かして前髪を掻き上げる。
「一応、君を待ってたんだけどね」
 ぼんやりとした視線の先に、黒い人影。闇に紛れるような濃紺の上着にのっぺりとした黒いズボン、いつもの明るい黄色の髪は、低彩色の布に覆われていた。
 一応、隠れていたつもりなのだろう。常人の目であれば、或いはそのまま見つかることはなかったかもしれない。だがあいにくと、フェルハーンの目は稀少なまでに特別だった。見極めようと凝らした彼の目から、逃れられるものはいないと言っても過言ではない。
 そのあたりは承知の上か。フェルハーンと視線があった直後、その影は灯りの下へ落ち、誰の目にも明らかな姿を現した。
「いい身分ですねぇ。働かずに食っちゃ寝、最高でしょう」
「今はそうでもないよ。これ以上ここに居たら、贅肉でダルダルになってしまう。そうなったら、何百人の女性が嘆くことか」
 嘯くフェルハーンに、男、――ゲイル・ザッツヘルグは肩を竦めた。そうして、フェルハーンが声をかける前に勝手に椅子を引き、行儀悪く立て膝で座る。背もたれに前のめりにもたれ掛かり、ゲイルは一度眠そうに口を開けた。不躾で遠慮のない様は、わざとか癖か、判断に迷うところである。そうすることで、相手の反応を探っているのかも知れない。
 フェルハーンは半ばズレ落ちていた身を起こし、一度大きく伸びてからゲイルに向き直った。
「で、何でここに来てくれたんだい?」
「お。興味ありますかー?」
「ないけど、まぁ、念押しにね」
 気のない口調のフェルハーンに、ゲイルははっきりと顔を顰めてみせた。だが、ここで謎の掛け合いを続けていても埒あかないと思ったのだろう。短く息を吐いて、彼は面白くなさそうに口を尖らせた。
「外は大変なことになってますよ。知ってるんですかー?」
「知ってるよ。勿論。私が誰だか忘れたのかな? とりあえず、知らない情報はないよ。敵味方共にね」
 意味ありげに、フェルハーンは片頬を歪めた。
「でも、さすがに人の思惑まではっきりとは判らないからね。君が来てくれて良かったよ」
「喜んでいただいて恐縮ですけど、ここで僕が攻撃したらどうするつもりですか? 武器とか、さすがに取り上げられてるでしょ?」
「ああ、うん。勿論。私は魔法は使えないから、丸腰同然ってやつだね。君に攻撃されたら、確かにまずいだろうな。逃げも隠れもできない牢獄で謎の変死、さすがにぞっとしないね」
「……何言ってんですか。ホント、人が悪いですねぇ、殿下。本当は、逃げようと思えばいつだって逃げられたんでしょ?」
 呆れたような言葉に、フェルハーンはただ笑ってゲイルを見つめた。
「捕まったのもわざとだし。あー、やだやだ。ちょっとでも面白そうなんて思った僕が莫迦だった」
「面白そう? ……そう、君が自主的に来てくれたのなら、そろそろここを出てもいいかもしれないね」
「何ですかねー、その、適当さ加減」
「適当じゃないよ。私にとっては重要なことなんだ。だからずっと待ってたんだよ」
 目を細め体を反らし、顎を挙げ、幾分勝ち誇ったようにフェルハーンは腕を組んだ。見ようによっては挑発しているようにもとれるが、彼の場合は生まれと育ちから来る単なる癖のひとつなのだろう。
 言わんとすることに気付いてか、ゲイルは如何にも不機嫌そうに椅子の脚を鳴らした。
「ザッツヘルグが敵じゃないのは判っていたんだけど、正直、どこまで傾いていてくれてるのかは判らなかったんだ。ツェルマークがひとりで暴走しているのか、ある程度ザッツヘルグでもバックアップしているのかとかもね」
「敵かも知れないですよ」
「いや、違うね。別にはじめからこちら側だったとは思わない。けれど、先にあちらはやってはいけないことをやった。さすがに、内乱期の最大の功労者を殺したのはやり過ぎだった」
 フェルハーンの言葉に、ゲイルは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
 彼の表情の変化を追いながら、フェルハーンは内乱期の功労者、――マエントへ向かい、使命半ばにして命潰えた外交官を思う。内乱という国の存在を揺るがす凶事の中にあり、外国から国を守り続けた縁の下の力持ち。彼の力がなければ、キナケスはとうに諸外国の侵略に遭い、国土を狭くしていたか、最悪、いくつもの小国に分裂した挙げ句に食い散らかされていたに違いない。
 フェルハーン、果ては国王、現政権に叛する一派が彼を殺害したのは、マエントやティエンシャを陥れるための手段の一つに過ぎなかったのだろう。だがそれは結果として、国内最大勢力のザッツヘルグを敵に回すこととなった。
「国の統制が乱れれば、いずれまた内乱が起こる。それはザッツヘルグも許容することだろうね。だけど、あくまで内乱の内に収まらなければいけない。キナケスが他国の侵略に遭うことを許す気はない。――間違っているか?」
「まぁ、その通りですね」
「王を斃したはいいが、キナケスという国が無くなってしまっては本末転倒だろう。ザッツヘルグは今も昔も国内最大勢力だが、内乱に便乗することはなかった。影から国を牛耳ることを目論んでも、王族に取って代わる気はない証拠だ。すごく、頭が良いと思うよ」
「褒めてます? けなしてます?」
「勿論、褒めているよ。国王の椅子など、重いだけだ。国の二番手の権力者というのが一番美味しいと、ザッツヘルグ公はよくご存じのようだね。維持するのは大変だけども、その為に努力する価値はある。国王がぼんくらなら、尚更良いのだろうけど」
「……それは、殿下にも当て嵌まることではないですかね」
「私? それはどういうことかな?」
「本当は力があるのに、全然それを出そうとしないところですかね。本気を出せば誰だって従えるほどの力を持ちながら、何故あちこち走り回って、道化みたいな役回りをしているんです? あなたの威嚇力なら、ザッツヘルグ公だって言うことを聞かせられると思うんですけど」


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