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「私としては、セーリカ領の進退を窮めるようなことはしたくないんだ。だから、撤退してくれ」
 見下したわけでも、莫迦にしたわけでもなく、本気でフェルハーンはそう告げた。戦いは無意味だと、そう伝えたつもりだったが、しかし、セーリカ軍の方はそう取らなかったようである。
 隊列の奥から走り出た巨漢が、ニコラを目にした途端に唸り声を上げた。
「ふざけるな!」
 大喝に、横で見ていたゲイルの方が、あからさまに顔をしかめた。
「ここまで来て、手ぶらで帰れるか! 魔物を操って暴挙に及ぶ輩を、王族だからといって、通過させるわけにはいかん!」
 額を抑え、フェルハーンは深々と息を吐く。愛国心、もとい愛土心があるのは結構だが、ことの真偽を考える脳を持っていないことは極めて致命的であった。このままでは、一兵残らず朽ちようとも――などと言いかねない。
 仕方ない、とフェルハーンは再び、指笛を高く鳴らした。
 夕闇に、もの悲しい音が高く響き渡る。空気が揺れたのは、その直後だった。
「……?」
「何……!?」
「副団長、あそこに……!!」
 隊列の外側から、悲鳴に近い声が上がる。震える指先の指し示す方向、暗くなった空を背に、黒々とした人の壁が突如として出現した。残照を受けて、舞い上がる土煙が朱く染まる。近づき来る馬と人の姿も同じく照らされ、鮮やかに朱い。――否、その服は、もとより深い紅に統一されていた。
「……エルスランツ騎士団……!」
 セーリカの赤紫の団服よりも血の色に近い、機動力では国内随一の実力を持つ騎士団。非常に堅実で規律の厳しい軍でもあり、滅多なことで軍を動かすことはない。
 その彼らが領境を越え、セーリカ軍を上回る規模で結集しているとすれば、その目的はひとつしかなかった。
「悪いが、セーリカ騎士団には、当分活動を止めてもらうことになるよ」
「そんな勝手なことが許されるとでも思っているのか!」
「勿論、許されるとは思ってもいないよ。ただ私は目的のために、使えるものを使っているだけさ。君たちの団長がそうだったようにね」
 セーリカ騎士団副団長の、小山ほどの巨躯を見上げ、フェルハーンは笑う。
 そう、話の続く中にも、エルスランツ騎士団の一軍は距離を縮めつつある。その脅威に気を取られ、捕らえるべき犯罪者を手の届く範囲に置きながらも、副団長は迫り来る一団に決断が下せずにいた。おそらくこの状況は、一触即発。
 だが、戦闘の火ぶたは、思いもよらぬところから切って落とされた。
「う……」
 低く呻いたニコラが、地面に近い場所から、懐剣を投げつけた。虚を突くような素早い動きではない。気付いたフェルハーンが跳び、避ける余裕は充分にあった。
 だがそれは、紛れもない殺意の込められた一撃。遠目からも、守るべき対象が攻撃を受けたことに気付いたのだろう。
「――殿下!」
 太い声が、夕闇の空にこだまする。
「殿下をお助けしろ! ――かかれ!」
「応っ!」
 唱和が続く。その津波の様な勢いに、セーリカ軍は明らかな逃げ腰を見せた。もともと、死者こそ出ていないとは言え、半分以上が何らかの怪我を負っている。馬を失った者も多い。人数で互角と言えど、劣勢は明らかだった。
「行くぞ、ゲイル」
 押し寄せる人馬の軍。土煙が立ちこめ、逃げる者と応戦する者が交差する中、フェルハーンは呆れたように事の成り行きを見守っていたゲイルの袖を引いた。
 げんなりしたように、しかし目には悪戯っぽい光を宿し、ゲイルはフェルハーンを見つめ返す。
「やっぱり、お伴は僕ですかー?」
「まぁ、アッシュほどの破壊力はないみたいだけど、あの人数相手にかすり傷とは、恐れ入ったよ」
 遠回しに、いつもの護衛の代役をやれと命じている。苦笑し、ゲイルは腕を組んだ。
「でも、馬がありませんよ。逃げようにも――」
「殿下! フェルハーン殿下!」
 語尾に重なるように、この場にあって少し異質な声が近くから上がった。
「すごい煙。――見失ったかと心配致しました」
 低めであるが、あくまで女性の領域を越えない、耳に通りよい声。心から安堵したような響きに、ゲイルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。そのまま、二頭の馬を引き連れて走り寄る人影を見つめ遣る。
「悪いね。任務ご苦労さん。いいタイミングだったよ」
 フェルハーンがにこりと笑う視線の先に、旅装姿の金髪の女性。人目を惹く美貌の持ち主だが、わざと地味に目立たない姿をしている。ゲイルにとっては初対面のはずであるが、これまでのフェルハーンの行動を思い返し、該当する人物を弾き出したらしい。値踏みするように眺めやり、やがてゲイルは、額を抑えて無言のままに俯いた。
 そんな彼を脇に、フェルハーンは女性、ソニア・ジーンの手を握り無事を讃えた。
「よくザッツヘルグから逃げ出せたね。心配していたよ」
「そ、そんな、勿体ないお言葉です」
「いや、本当にありがとう。君のおかげでザッツヘルグでもやり過ごせたし、今もなんとかなりそうだよ」
「当然のことをしたまでです。殿下に教えていただかなければ、私は命令のままに罪を犯すところでした」
 頬を染めながらも言動が硬いのは、彼女本来の生真面目さに因るものだろう。
「それよりも殿下。早くこの場から移動なさって下さい」
 言い、誘導してきた馬の手綱をフェルハーンとゲイルに握らせる。
「私は少し離れた場所に馬を繋いでいます。はじめから、殿下の指示で二頭用意しておりました。どうぞ」
 ゲイルが僅かに躊躇ったのに気付いてか、ソニアはにっこりと笑った。フェルハーンは素早く騎乗しつつ、ゲイルにも乗るようにと促して顎をしゃくる。
「ソニア、君も、気をつけて逃げるんだよ」
「はい」
「全部落ち着くまで、コートリアには戻らない方が良い。私の言った場所で、待っていなさい。事が終わったら、必ず知らせに行くから」
「はい。承知しております」
 ソニアが頷き、敬礼を取る。信頼と、それ以上のものを含んだ視線を受け、フェルハーンもまた礼を返した。
 そうしてそのまま、馬の腹を蹴り、手綱をしならせる。一歩遅れて、ゲイルも後に続く。見送るソニアの姿は、あっという間に土煙の中に消えた。
 視界の悪い中、ひたすらふたりは馬を飛ばして駆け抜ける。逃げるふたりに気付いた者はあっても、追ってくる者はいなかった。怒濤のように押し寄せるエルスランツの軍勢を前に、逃げる者に構う余裕がなかったのだろう。この分ではソニアも無事に脱出できるだろうと、フェルハーンは息を吐いた。
「……何か、言いたいみたいだね」
 馬を駆ることしばし、ゲイルのじっとりした視線に気付き、フェルハーンはちらと背後を振り返った。
「あなたって人は……まったく」
「人望だよ、人望」
「色仕掛けの間違いでしょう」
 羨んでいるのか呆れているのか、どちらともつかぬ声で、ゲイルがぼやく。フェルハーンは器用に、片方の眉を上げて彼を見つめ遣った。
「彼女の頑なな心を、真実で溶かしてあげただけだよ」
 嘘ではないが、無論、それだけではない。朗らかな声音で言い切ると、ゲイルは今度こそ呆れたように空を仰いだ。
 笑い、フェルハーンは陽の落ちた道の先を眺めやる。
「さて、これからが正念場だよ」
 全く重みのない声に、ゲイルは苦笑したようだった。
「とりあえず、ザッツヘルグ領内はよろしく頼む」
「……安請け合いしときましょうかね」
 行く先は、遠く見渡せぬ暗いばかりの道。それは、ふたりのこれからを予見しているようにもみえた。――だが、進まないことには、どこへもたどり着けはしない。
 闇の奥を見据え、フェルハーンはゲイルとふたり、一路、王都へと馬を走らせた。


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