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 (十六)

 離宮に魔物が出現、グリンセス公は行方不明――公の離宮占拠の報に続く、否、それ以上の凶報が持ち込まれたのは、一日前。離宮からほど近いタラントの騎士の早馬は、王都に住む者を驚愕の渦に落とし込んだ。
 離宮近くの館で保護された者数名を除いて、ふたりの王女を含む何十人もの人間の生死が判らない状態にある。タラント騎士団より派遣された調査員もまた、馬で半日とかからぬ距離にあるにも関わらず、誰一人として戻ってこない有様に、噂を聞く者は総じて肝を冷やす。いち早く避難してきた住民の口から、遂にはタラント地方の管理官により、離宮一帯の立ち入り禁止令が言い渡されたと伝え聞くや、それもまた瞬く間に王都全体に広まった。
 不安気に、人々は暗い表情で空疎な笑いを浮かべる。内乱から三年、少しずつ復興してきた国は今や、染み渡るような不穏に落日の翳りを落としていた。表立って人が傷つけ合う、目に見える戦争よりも実態の知れない分、人の心をより深い闇へと突き落とす。血の代わりに流れ落ちるのは、疑心暗鬼という名の国王に対する反発だった。
 誰が何を企み、事を起こしているのだろうか。それとも、魔物の生態の方がおかしくなっているのだろうか。
 一部の人間にのみ明らかになりつつある回答は、無論、一般市民にはあずかり知らぬ所にある。通常、歩くのも困難なほど賑わう市でも、人々は挨拶の代わりに不安そうな目配せを交わし、足早に帰路につく有様だった。
 魔物と関連の深いと言われている魔力、及び魔力の研究所も、連日閑古鳥が鳴いている。もともと賑わうという場所でもなかったが、最近は所員自体も通ってくることを忌避している傾向にあった。
(気持ちは判るけど……)
 広い部屋の中でひとり、黴臭い本に囲まれてフロイドはため息を吐いた。外は雨、霧のように細かい水の粒が木の葉を叩く。その微かな音以外は何もなく、静かであるのは大変に結構なことであったが、ふと思いついたことを語る相手が居ないというのも侘びしい話である。個人に与えられた研究室を訪れれば、同年配のナナリが待機しているが、これといって用があるわけでもない状況で足を運ぶのは些か億劫だった。
(帰るかなー……)
 国を取り巻く不安定な状況に怯え、家に引きこもる者が多いためか、各家に流れている魔法設備への魔力供給は普段よりも倍増していたが、装置の発注や買い付けに訪れる者は殆どない。一時期は、護身になる魔法の入った魔法鉱石も飛ぶように売れたが、噂を聞くに当たり、多少の防衛では魔物に対応できないと気付いたのだろう。今では、すっかり客足も途絶えていた。
(帰ろう)
 フロイド自身、騒ぎに無関心では居られないこともあり、魔法院に詰めていても研究の進みは芳しくない。そう判断し、大きく伸びをしてから席を立つ。
 異変が起こったのは、丁度、その直後だった。
「……!?」
 書庫に、警報が鳴り響く。緊急度を示す音階は最大級。つまり、魔法院で最も重要な物、巨大な魔法鉱石が攻撃を受けていることを示す。
 反射的に廊下へ飛び出し、フロイドは地下遺跡の区域へと一直線に向かった。
「フロイド!」
 同じく、駆けつけてきたのだろう。ナナリがやや蒼褪めた顔でフロイドを見遣る。ふたりの頭を過ぎったのは、ひと月ほど前の事件、魔法院に通う少女が移動陣の異常により別の場所へ飛ばされたときの事だった。
 地下の遺跡区域に入ることが出来る人物は、限られている。ギルフォードに許可された者か、その者と同伴してきた者かの二択しかない。それ以外に侵入してくる者があるとすれば、それはおよそ非常識な手段を用いてのこととなる。
 移動陣を用いての強引な侵入。
「何者だと思う?」
「一番単純な答えが、一番怖い気がするわ」
「遺憾ながら、僕も同意見だ」
 額に汗が滲む。急激な運動に心臓と肺が悲鳴を上げている。左脇腹、脾臓のあたりも痛い。だが、それ以上の焦燥感に突き上げられて、ふたりは地下へと続く階段を下りきった。
「ナナリ!」
「わかってる!」
 薄暗い、しかし天窓のステンドグラスが美しく床に光の模様を描く静謐なはずの空間。そこは今や、数え切れないほどの獣で埋め尽くされていた。
 犬、猫、鳥、おおよそどこでも見かける獣も居れば、かつて少女が見たという狼に近い形のものも居る。種族としての共通点は探しようもなかったが、どこかそれらには似通った点があった。おそろしく、生気が感じられない。
「生ける屍、ね。確かに壮絶だわ」
 言って、ナナリが唇を舐める。
「でもこんなの、――どうやって作ったのかしら」
「蘇生魔法の失敗例だとか言われてるけども」
「あり得ない。伝説級の魔法でしょ? それに、実験だとしても、あんなに大量に作る必要ないでしょ。失敗したら研究、満を持してまた失敗、って繰り返しても、あそこまでの数にはならないはずだわ」
「わざと、簡易にできる失敗を繰り返すとか?」
「本気で国を襲うつもりなら、犬猫ではやらないわね。人でやったほうがよほど戦力になるでしょ?」
「それは、確かに……」
 話す間にも、ふたりは油断なく突破口を探していた。地下が獣で埋まっている以上、魔法鉱石の根元部分に辿り着くには、獣たちを越えて行かなくてはならいわけだが、肉体的な戦闘能力は勝負にならないだろう。持久戦も分が悪い。となれば必然的に選ぶ道は、一発必勝、綿密に組み上げた魔法で、獣たちに立ち直る隙を与えずに、一気に叩きのめさなくてはならない。
「こんなのと出くわして、生きて帰ってこれるなんて、あの子たち、すごいわね」
「まー、僕ももうちょっと若ければ……」
「あんたは昔からひょろひょろでしょうが」
 唯一の救いは、ひとりではないことか。
 親密な関係ではなかったが、長年同じ分野で働き、顔をつきあわせている。阿吽とまでは行かずとも、互いの呼吸や得意とする魔法は手を取るように理解できた。
 代名詞だらけの短い言葉で方針を定め、フロイドとナナリは同時に魔法式を口にする。幸いなことに、獣たちの反応は非常に鈍かった。ふたりが集積していく魔力よりも、比べものにならないほどの巨大な力が、目と鼻の先にあったからかもしれない。
 ほどなくして、多重魔法は組み上がった。タイミングを合わせて、獣たちの中心へと投げ放つ。
 瞬間、瞼をも白く染める閃光が、辺り一帯を埋め尽くした。もしか、光源をまともに見ることの出来る者が居たとすれば、光の筋はフロイドとナナリから、一直線に魔法鉱石の方へ伸びていることに気付いただろう。その光の筋の内側では、高圧縮された空気が、外側に向けて放たれていた。獣たちは訳も分からぬうちに、押し出されて壁際に吹き飛ばされている。
「よし、――確保完了!」
 獣たちが退いた後に出来た直線の道。そこが再び埋め尽くされないように結界を展開し、フロイドはナナリを促した。頷いて、ナナリは彼が保ち続けている結界の道を走る。
 ふたりに共通して言えることは、どちらも攻撃系の魔法が不得意であるということだ。故に、選んだ道は、魔法鉱石に仕組まれた供給回路の機能停止、――獣を斃すことではなく、魔法鉱石を保護するという方法だった。成功すれば少なくとも、魔法鉱石は魔力を放出することを止めるだろう。
 魔法鉱石のもとに辿り着いたナナリは、供給システムを操作し、緊急停止システムを作動させた。
「止まれ、――止まりなさい!」
 指先が踊る。何人もの魔法使いが掛けた防衛機能は強固であったが、ナナリの知識と技はそれを凌駕していた。次々に錠を解除し、王都へ流れていく魔力の道を遮断する。
 今頃、各家では混乱が起こっているだろうと思いつつ、ナナリは指を走らせた。
「ナナリ、まだか!?」
「ちょっと待ちな!」
 怒鳴り返しつつ、最後の式を叩き込む。
「成功!」
 ナナリの語尾に重なるように、痺れるような振動が波及する。一際強く輝いた魔法鉱石の巨岩は、その一秒後に全ての機能を停止した。七色に揺れる水面のような魔力の色彩だけはそのままに、外部に放たれる魔力の波が消失する。
 凪の海底から、空を見上げたような、とナナリはぼんやりと考えた。溢れる色彩は巨岩の周りだけを漂い、巨岩は内に魔力を溜めるだけの存在となったことを示す。
 魔力の放出が止まると同時に、獣たちを寄せていた求心力は急激にその力を失った。当然、それまで殆ど見向きもしなかったフロイドとナナリへ、その注意が向けられる。
 やばいな、とフロイドは独りごちた。予測の内だったとは言え、実際にその状況に陥ってみると、洒落にはなりそうにもない。ナナリと離れている上に、双方とも相当の魔力を消費した状態だった。結界を展開して逃げようにも、正直なところ、あと何分それが持続できるかも定かではない。
 せめて近くにいれば、というのは考えても栓のないことである。今し方終えた作業を成功させるには、そうするしか方法がなかったのだ。
 獣が低い唸りを上げる。じりじりと距離を詰めてくるそれらを見つめ、フロイドは額に汗を滲ませた。ナナリもまた、壁際に追い詰められている。
 駄目か、とフロイドは喉を鳴らした。対抗手段はないに等しい。手当たり次第に、思いつつままに、という力の使い方は、彼の辞書には存在しなかった。ある意味、生きる事への執着心が薄かったとも言える。
 遂に、獣は後ろ肢を強く蹴った。高く跳躍し、フロイド目掛けて襲い来る。
「――ッ!」
 フロイドは竦み、手足を強ばらせた。見開かれた両眼だけが、スローモーションのように飛び掛かる獣の牙を映し出す。
 死ぬ、と思った、しかし、その直後――
「発っ!」
 フロイドを取り囲むように、高熱を伴った突風が渦を巻いて出現した。灼かれ、弾かれ、獣が跳び退って逃げていく。
「そうはいきません!」
 宣言。その言葉通りに、背を向けた獣に火炎が手を伸ばす。しなる鞭のように獣を叩き、絡め、灼熱の蛇は空間の中を存分に暴れ回った。それは果たして、どれほどの高温だったのだろうか。炎に巻かれた獣は、抗う隙も与えられずに肉を焼かれ、炭となって床にその身を横たえる。
 あっけないほど鮮やかに獣を屠る、その実、魔法に関する深い造詣と魔法式を組み立てるセンスを必要とする技に、フロイドは思わず口笛を吹き鳴らした。そうでもしないと、畏れの方が上回りそうな気がしてならなかったのだ。
 天賦の才、と人は言う。だが、彼の魔法に対する関わりは、探求というよりも、執念、或いは意地に近いのだろう。その源となる思いを、後悔と呼ぶ。
「――ギルフォード、いつ戻って来たんだ?」
「たった今です」
 なるほど、技を放ち続けるギルフォードの髪からは、細い水滴が垂れている。
「しかし、これは一体何事ですか? これは、アリアさんが見たというあの……」


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