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 王宮内には、王にのみ口伝されている隠し通路が幾つかある。ティエンシャ公が逃げた夜に使用した、奥宮と本宮を結ぶ通路もその一つであった。本来秘密であるはずの道が、どうやって外部に漏れたのかは判明していない。調査する暇も取れぬうちに、宮殿自体が崩壊の危機に立たされている現状を顧みて、国王は短く苦笑した。
 即位後、ここまで大規模な騒動はなかったが、暗殺の危機には幾度となくさらされている。だが、憤慨する部下を余所に、国王自身は彼を亡き者にしようとする者たちに、さしたる感慨を抱いているわけではなかった。ただ、物好きだなと思っている。
 先王が崩御し、兄王子が即位を前に殺された後から、国は荒れた。目の色を変えて王位を望む派閥を尻目に、少しでも行政を安定させようと慣れない政に手を出していたのが間違いだったのだろう。王位に色気があると判断されてしまい、ハインセックは、そのまま王権争いの渦中に巻き込まれた。
 第一次内乱後の二年間の短い統治、迷走、そして第二次内乱の勃発。いずれにも参加しながら、ハインセックは一度として王位を望んだことはなかった。ただ、国内の安定をと願い、国を導くために働き続けた結果、必要だったのが王位だったというに過ぎない。
 故にハインセックには、いつでも王位を退く用意があった。己の理想とする国、民のあり方、そしてそれを実現させるための具体案、それを上回る考えと行動力を持った者が必要とするならば、彼は喜んで引退しただろう。そうして、慎ましく妻子と共に暮らすのが夢であったと言ってもよい。
(上手くいかんものだ)
 ハインセックより総じて能力の高いフェルハーンに、全てを譲ってしまいたいと思うこともあったが、彼には彼なりの、頑ななところがあるらしい。いつも上手く躱されてしまう。
(私が王でなければ、このような非道な反乱は、起きなかっただろうか)
 その問いは、即位しては討たれ潰えた、かつての幾人もの王の呟きだったかも知れない。そうして、ハインセックもまたため息を吐く。
「陛下!」
「……何事だ」
 息を切らせて飛び込んできた近衛騎士に、国王は鋭い視線を向ける。
「あまり騒々しくするな。周りの者が気にするだろう」
「は、はい。申し訳ございません。しかし、新手が、新手がやって来ております……! 魔物ではありません、狂った獣が結界を破壊しております。魔物のような魔法生物ではなく、結界を施した扉ごと壊されており……」
 悲鳴に近い報告を、国王は表情も変えずに聞き遣った。無論、落ち着いているわけではない。ただ彼の中で、上に立つ者は如何なる時も動じてはならないという思いがあった。
 詳しく現状報告をする兵の額には、いくつもの汗が浮いている。不安、緊張、興奮、全てがない交ぜになり、そこに具体的な恐怖が加わった今、彼の動揺が汗となって噴出してきたのだろう。職業軍人ですら、そろそろこの状況に耐えかねている。逃げ遅れて一緒に隠れている文官と女官が、精神的に病んでいくのは時間の問題だと、想像に易い。
 限界か、と国王は目を細めた。
「わかった」
 頷き、国王は立ち上がる。
「私が行こう」
「え!?」
 目を見開き、息を呑む近衛騎士の横を通り過ぎ、国王は扉に手を掛けた。
「陛下、――陛下、何をおっしゃいます! 避難していただけるならともかく……!」
「痴れ者が!」
「!」
 打たれたように仰け反る近衛騎士を一喝し、国王は顔だけをそちらに向けた。目には強い怒りがある。
「奴らの狙いはどこにある? 国ではない、私個人だ。であれば、私自身が出向けば事は済むだろう」
「しかし、陛下は国の王、国を狙うも陛下を狙うも同一のこと。陛下が今お斃れになっては本末転倒にございます!」
「少し、違うな。まぁ、判らぬのも仕方あるまい」
「陛下」
「とにかく、私がここを去れば、魔物やその獣も引くだろう。私を追ってくるはずだ。その間に、皆の逃走経路を確保するように」
「まさか、そんな! お伴いたします、陛下の身が危険です!」
 目の勁さを緩め、国王は、困ったような笑みを口元に刻み込んだ。
 ここへ魔物や不可思議な獣を放った人物の狙いが、無差別の虐殺、或いはただ破壊することにあるのなら、国王はけしてひとりで戦おうとは思わなかっただろう。自らの首を差し出したところで、何も収まりはしないのだ。だが、今は違う。国王ははっきりと敵の存在を捉えており、その目的とするところも把握していた。
 命を惜しんで躊躇えば躊躇うほど、無関係の所に被害が増えていく。
(仕方のないことだ――)
 引く様子のない近衛騎士に釘を刺し、国王は室を後にした。王命を無視してまで強硬に護る意思を捨てない、といった程の覚悟と思い切りはなかった様子である。勿論、その方がありがたいことに違いなく、国王はひとり、人気のない廊下を歩いていった。
 一、二階を崩壊させた魔物の姿はない。別の方面へ行ったのか、魔力の希薄な王都で力尽きたか、どちらかだろう。代わりに、今し方の報告にあった、狂ったような獣の姿が見受けられた。涎を流しながら、忙しなくうろついている。
 剣を抜き、国王は獣と対峙した。戦場では陣の奥、護られながら座っていることが仕事だったが、けして剣の腕で周囲に劣るということはない。己一人を護ることに専念するならば、大概の場面を切り抜けられるだろう。
 獣の爪や牙は鋭かった。跳躍力も人間の比ではなかっただろう。だが、国王の剣が空間を薙ぐ度に、それが届いていなかったにも関わらず、獣たちは悲鳴を上げて床に転がった。四肢を切断され、黒く粘りけのある液体が床を濡らしていく。
「……なるほど、妙だな」
 ひとりごち、国王は倒れ伏した獣を観察した。起き上がる様子はないが、死んでもいないようである。普通なら失血死してもおかしくない状態で、獣はまだ国王に恨みがましい視線を向けていた。
 報告にあった生物と同じだなと思いつつ、確かめることに没頭できない状況に肩を竦める。仲間の異変を察したか、血の臭いに引かれたか――おそらくは後者だろう、それまで別の方に興味を向けていた獣が、一斉に国王の方へと注意を向けた。
 容赦なく襲い来る獣を、国王は冷静なままに薙ぎ倒す。基本的な能力は人間の上を行くとは言え、連携のなさと直線的な攻撃は、国王の敵ではなかった。魔法効果の加わった剣撃の前に、異臭を放つ屍が積み重なっていく。
 だが、キリがない。
 魔法使いでもない国王が、一度に倒せる敵の数はせいぜい一、二匹。であるにも関わらず、階下に進むにつれ、獣の数は倍増していく有様である。魔法効果故に剣が使い物にならなくなる、といった事態に陥ることはないが、長く続けば国王の体力の方に限界が来ることは明白だった。
 国王の予想通り、上の階に上がっていた敵も、彼を追って来ている。この隙に、使用人たちの使う裏口を回れば逃げることも出来るだろう。目的としては達成できたものの、そこから先をどうするか、考えていなかったなと国王は苦笑した。だが無論、歩みを止めることはできない。
(謁見の間か……)
 荒れ果てた王宮内を、気の向くままに歩き回るうち、一番慣れた場所に辿り着いてしまったらしい。習慣とは恐ろしいものだな、とひとりごちる。
 国の権威を現すような重厚な調度、熟練の針子が何年も掛けて作り上げる芸術品のような垂れ幕。何百年の間に多くの王が座り、その倍以上の者が触れることもなく、夢に描いたまま散っていった、玉座。
「重いな……」
 呟き、国王は目を眇める。
「そうは、思わんかね?」
 突如。
 虎落笛のような、鋭くも高い、大気を切り裂くような音が鳴り響いた。連動するように、炎の鞭が渦を巻いて謁見の間を疾走する。
「!」
 赤い絨毯が更に鮮やかに朱く染まり、煙を吐いて崩れ落ちる。咄嗟に跳び退った国王は、磨き抜かれた石の床を高く鳴らし、剣を抜き払う。
 剣に掛けられた魔法、見えない、高圧縮された風圧が炎を裂き、国王の前で二つに分かれて飛び散った。はためいていたカーテンに弾かれ、目映い軌跡を残したまま霧散する。耐衝撃、耐火性能を持った特殊なカーテンでなければ、あっという間に燃え移っていただろう。魔法院の品は宣伝通り優良だ、などと場違いなことを考えつつ、国王はそのカーテンを引きちぎった。
 瀟洒で繊細な留め具はあっけなく外れ、長い一枚の布が国王の頭上に滑り落ちる。そこに再び、炎の渦。
 カーテンをして炎を避け、国王はその隙間から短刀を投げ放った。むろん、視界は悪く、当たるとは思っていない。だが国王の思惑通り、一瞬、敵の放つ炎はその攻勢を弱めて逸れた。間をおかず、国王は隙を見計らって広間の中央へと走る。
 転がり出た国王、そこに再び迫る炎の手。体勢を崩した彼に、逃げる術はなかったが――
「せいっ!」
 かけ声と共に、轟音が辺りを揺るがした。反射的に身を屈めた国王を護るように、厚手のコートが上から掛けられる。
「ご無事ですか!?」
 鋭い鍔鳴り。敵の攻撃を剣の根元で防いだのだろう。土煙の舞う中、国王はようやくのように息を整えて、掛けられたコートをはね飛ばした。
「ヨゼル・バグスか……」
「陛下、汚れ物で申し訳ございませんが、そのコートを召しておいて下さいますか?」
 目に見えない何かと攻防を繰り広げながら、ヨゼルは国王を横目に早口で捲し立てる。
「防御の魔法が掛かってます。効果は保証します」
 国王が頷いたのを確認し、ヨゼルは高く指笛を鳴らした。
「陛下はここに! 皆、護れ!」
 応、と応じる声がある。今までどこに潜んでいたのかと思うほどに、雑多な服装の男達が四方八方から走り寄り、国王の元に集合した。そうして王を目に止めると、彼らは一様に、安堵と微苦笑を混ぜ合わせた表情で笑い遣る。何を思ってか、当然国王に知るよしもないが、集まった面子を見れば、誰の教育が反映した結果かは考えるまでもなかった。
 彼ら――シクス騎士団員十数名が、ヨゼルの呼びかけの元、あっという間に国王を取り囲む壁を作り上げる。
「……呆れたな」
 この状態にはさすがに、国王も苦笑いを禁じ得ない。
「私に蟄居命令まで出させておいて、どこから湧いてきたのか、教えて欲しいくらいだ」
「申し訳ございません。王家の方々の逃走通路を使いました」
 恐縮した様子で、ヨゼルが深々と頭を下げる。しかし、態度ほどに、済まなく思っているわけではないようだ。建前上謝りはしたが、自分たちの行動が間違っていないと、はっきり誇りを持っている表情である。
 彼らの行動は正しい。この混乱した事態の中、命令だからといって唯々諾々と従い、周囲を顧みない人形騎士など、いざというとき何の役にも立ちはしないだろう。だが彼らとて一介の騎士、個人個人ではこうまで大胆に、連携を取って王宮に乗り込むなどといった行動には出なかったに違いない。
 彼らの背後に見える男の姿。現状は、ヨゼル達が、彼への信頼の上に作り上げた結果である。


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