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 揺れる体を無理矢理立ち上がらせたギルフォードは、床を叩く砂礫を踏みしめた。額から流れる汗を乱暴に拭い、位置を変え、今は蹲る男を静かに見下ろした。
「……捕縛します」
「莫迦な……」
 茫然と呟くヒュブラの服は、血に染まっている。特に酷く裂かれた腕と脇腹は、如何にも重たげに湿っていた。咄嗟に治癒魔法で傷を塞いだのだろうが、動脈性の出血だったのだろう。僅かな間にも大量の血が失われたようだった。
「沈黙の魔法――……」
「……」
「使いすぎた、ようですね。知られすぎた魔法は自ずと、解読されるものですよ」
 妹も、あんな苦痛を味わったのだろうか。目を細め、ギルフォードは唇を噛み締めた。
 僅かな沈黙。ヒュブラは、自嘲にも似た笑みを口元に刻んだ。
「ミリム・アスタールの弟子か……」
「ええ」
「奴め、魔法を口伝えたか。少々、見くびっていたようだ」
 ギルフォードは、傷だらけの彼にある、妙な余裕に眉を顰めた。
「だが、……どちらも、詰めが甘いのは同じだ!」
「!」
 息を詰め、咄嗟に防御結界を展開する。
 だが、そんなギルフォードが次に見たものは、ねじ曲がり、奇妙に歪んだ、ヒュブラの姿だった。足下に目を遣れば、鈍く光る魔法鉱石が目に映る。
「しまっ……」
 魔法鉱石から発せられた光が、螺旋を描いてヒュブラを包み込む。ギルフォードが石を蹴り上げるより先に、傷ついた男の体は虚空へと消えた。
 大気が唸り、歪められた空間が戻ろうと凝縮を繰り返す。小さな爆発が幾つも起こり、その度に空中に火花が散った。
 ――転移陣。
 定位置に起点を必要とする、失われた魔法ではない。ふたつの魔法陣の間でのみ行き来出来る、用途の限定された魔法である。レベルの低い魔法使いなら使うことも出来ないほど大量の魔力を必要とし、緻密な魔法式を駆使したところで、移動できる距離はせいぜい数百メートルという、非常に燃費の悪い魔法でもあった。だが、対になる魔法鉱石に術式を刻んでおけば、発動には殆ど時間を要しない。
「まさか、あれを持っているとは思いませんでしたね……」
 時間をおいて、静けさを取り戻した広間で、ギルフォードは呟いた。逃げた距離は僅かと言えど、追えるとは思っていない。大陸中を、古い移動陣で移動していた男だ。王宮に貴族の館にと、隠し通路の多い王都になら、もうひとつくらい予備の移動陣を押さえていてもおかしくはない。
 殺すのではなく、捕らえようとしていたことが裏目に出たのだろう。せめて口を塞ぎ、手足の自由を奪っておけば良かったと、ギルフォードは歯噛みした。
 だが、と一方で自分の手に視線を落とす。未だに小刻みに震える手は、握っても満足な感覚が得られそうにもなかった。血文字を描いた人差し指には、細かい砂が入り込んでじくじくと痛む。嘔吐感は失せていたが、平衡感覚は未だに狂ったままであるようで、気を抜けば思わぬ方向に倒れそうになる体を自覚して、ギルフォードは苦笑した。
 アリアの持ち帰った、扉に刻まれた魔法式、そこから得られた奇妙な式の形態と、師からかつて教え受けたゼフィル式魔法の一部、その知識を混ぜて編み出した、抗呪式。他にゼフィル式魔法を使う者がいない以上、ぶっつけ本番の賭けに近い魔法だったが、なんとか効果を発揮してくれたようだった。さすがに、血で描く羽目になるとは思わなかったが――……。
(ミリム様……)
 今になって振り返ると、ミリムは、ゼフィル式魔法のうちの、根本となる論理だけを説き聞かせていたように思う。それが、抗呪式を作る上で大きな助けとなった。
(貴方は、本が奪われることを、予測していたのですか……?)
 貴重な、だが同等に危険な本を所持していた事が、ミリムの未来を変えた。おそらくは、手に入れたときから身の危険くらいは感じていたのだろう。だが、そうと知りながらも、彼は本を捨てることが出来なかった。
 ――『ゼフィル式魔法が世に広まらなかった理由、古代魔法文明で使われた魔法が一部ですが残されているにも関わらず、ほぼ完璧に抹消された理由、それはあまりに、自然の摂理に逆らったものだったからじゃないでしょうか』
 身に受けてみて、思う。本当に恐ろしい魔法だと実感した。防御にとかけていた結界は容易く破られ、否、むしろ結界の魔力すら吸い取りながらギルフォードの中に侵入し、その魔法は彼の体の中を逆走するようにかき乱した。今なら、アリアの仮説にも頷くことが出来る。
 身のうちにあるエネルギーを、根こそぎ奪われるような脱力感、真二つに裂かれるような苦痛。それでいて、防ぎようのない絶対的な力。
 しかし、この世にあってはならないものだと思う一方で、魔法の研究者として、根本から仕組みを知りたいと願う心が存在する。――そんな自分が呪わしい。
(ミリム様も……同じ気持ちだったのだろうか……)
 知らず、力の入らない手を握りしめ、ギルフォードは堪えるように歯を食いしばった。

 *

 王都に点在する移動陣を全て封じ追えた時には、既に夜半を越えていた。灰色の雲が、弱い月明かりの中を急くようにして流れていく。
 フロイドと名乗る男から報告を受けたヨゼルは、灯りを取り戻した街を見下ろして、ほっと安堵の息を吐いた。魔物の襲撃の中、王宮は無惨に崩壊したものの、その前に存在する執政区の建物がほぼ無傷であったことは救いだった。失われた部分の大半は、王族の住まう場所であり、貴賓室に滞在する要人がいない今は、政治を行うに殆ど支障を来さない。
 或いはこれこそが、敵に国を乗っ取る意思がないことを示すということなのだろうか。
 疑問に思いつつも、王宮から逃げてきた官吏や女官に指示を出し、当座の王の仮住まいを検討する。当時執政区に寝泊まりをしていて全くの無事であった宰相は、王の無事を喜びつつも、権威ある王宮の惨状をありったけに嘆いていた。
「ヨゼル」
 幾分疲れた様子の国王に呼ばれ、ヨゼルは同じく、疲れた体ごと振り向いた。
「魔法院の面々には、予め話が行っていたのか?」
「いえ……」
 逡巡し、しかしヨゼルは頭振った。
「彼らがやって来たのは、魔法院にも魔物が現れたからです。移動陣からやってきたのではとのことで、王宮を訪ねたところ、騒ぎに出くわしたとのことでした」
「ふむ。しかし、お前達、魔物への対処法はもっと考えていなかったのか?」
 国王の、もっともな意見にヨゼルは言葉を詰まらせる。
「非難しているわけではないし、私自身がもっと素直に逃げているのなら、魔物を倒すという選択肢は考えなくて良かったのだろうが、……少し、抜かりがあると思ってな」
「仰るとおりです。ただ、要となる軍の魔法使いが現れず、急遽作戦を変更せざるを得ませんでした」
「……いつも、フェルハーンの後ろにいる、黒髪の男か?」
 さすがに鋭いなと思いつつ、ヨゼルは黙って頷いた。フェルハーンの命令があったにも関わらず、アッシュが現れなかった原因については、謹慎していたヨゼルの知るところにはない。
 だが、見かけによらず真面目なアッシュのこと、考えるに楽観視できない、のっぴきならぬ事情があることは、薄々と感じていた。彼と共にティエンシャ公を送っていったはずのマリクと連絡が取れないことも、ヨゼルの焦燥をかき立てる。
「しかし、彼のことをご存じで……?」
「あの図体で、無表情に突っ立っていれば、誰の目にも止まるだろう」
「はぁ……」
「だがまぁ、あの男が居ないとなると、少々厄介だな」
 眉根を寄せて、国王はため息を吐く。ヨゼルは、その様子に首を傾げた。
「何か問題でも……?」
「あれは、もともとヒュブラの部下で、ついでに言えばディオネルに直接手を掛けた男だ」
「え!?」
「エレンハーツには、最も憎い相手だろう」
「エレンハーツ殿下が……?」
「なんだ、お前、聞かされていなかったのか?」
 不思議そうに、国王はヨゼルをのぞき込む。
「裏にはエレンハーツがいる。あの男が命を狙われても、おかしくはないだろうな」
「!?」
 あっさりと明かされた事実に、ヨゼルは言葉を失った。全ての過程をすっ飛ばして答えだけを聞いたような、腑に落ちない思いが受け入れることを否定する。
 動揺を全身で示すヨゼルを前に、国王は考え込んだ様子で、ブツブツと独り言を呟いていた。
(あの殿下が……)
 にわかには、信じがたい。内乱の終結から三年。何故今頃になって、と疑問が生じる。国王なら全て知っていそうでもあったが、さすがに自分から問いかけるのは憚られた。いくら一国の王らしくもない物腰と言動をしていようと、本来なら、ヨゼル如きの身分では、正面から顔を見ることも許されない相手なのである。
 ヨゼルは迷った挙げ句、もう一つ生じた疑問の方を口にした。
「陛下。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「如何なる理由で殿下が叛かれたのかは、私の知るところにはございませんが、しかし、そうとご存じでありながら、何故陛下は、殿下の右腕たるヒュブラを警備主任に抜擢などなさったのですか」
 敢えてヒュブラを、重要な役目に就けなければ、こうまで見事に王宮が破壊されることはなかっただろう。ヨゼルの、ある意味もっともな質問に、国王は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「奴とエレンハーツの間を裂く必要があったからだ。協力関係が続けば、被害は増え続けるのでな」
「ヒュブラが実動し、殿下が権力と王族という立場を使いわけているという構図で?」
「ふたりの間にどんな密約があったかはともかく、揃えば、影響力は二倍以上になる。今日の騒ぎも、エレンハーツの協力が在れば、もっと凄惨なことになっていただろう」
「しかし、それは、ヒュブラを警備の責任者にしなければ、少なくとも、警備騎士の配置は万全に出来たはずですが」
「王宮の警備を固めれば、城の外が手薄になる。その上で王宮の兵をどこかにやりたければ、まず、奴は第二区画より外で騒ぎを起こすだろう。そうすれば、王宮から兵を派遣せざるを得なくなる。その後、手薄になった王宮を狙うとすれば、どうだ? 今日は王宮だけで被害も済んだが、それでは関係のない王都の住民まで危険にさらすことになるだろう」
「……」
「エレンハーツの狙いははっきりしている。手段を選んでいないのはヒュブラだ。だから、奴がやりやすいように、権限を与えたやったんだ。どうせ、魔物だのなんだのは、無傷で防ぎようがないもの。被害は最小限にしておくべきだろう?」
 ある意味無謀だとも取れるが、確かに一理はある。目的がある以上、敵も完全に無差別の殺戮をしているわけではない。目的を達成するまでの障害を排除しているだけなのだ。それが、必要最小限ではないというだけで。
 故に国王は、敵が自由自在に障害を操作できるところに置き、敢えて自らを晒したというわけである。本来、国を――その首たる国王を護るはずの存在である騎士として、果たしてギルフォードのように怒るべきか、ヨゼルはしばし頭を悩ませた。
 そんな国民の胸中を知らずか無視してか、国王の方が深々とため息を吐く。
「しかし、あれがいないとなると、ヒュブラは……」
 ヨゼルが黙ったことで、思考を少し前に戻したらしい。
「仕方ない」
「はい?」
「ゆっくりとしている時間はないらしい」
 言って、シクス騎士団長とはあまり似ていない、作りの大きい顔をヨゼルに向ける。
「疲れているところ悪いが、セーリカの領主と連絡を取ってくれ」
「……セーリカ、ですか?」
「そうだ。大人しく引退させてやるから来いと言えば、やってくるだろう」
 ぎよっとして、ヨゼルは思わず国王を見つめ遣った。セーリカ領主は確かに高齢だが、引退時期を決める権限は、国王にはないはずである。
 そんな思いを察してか、目を細め、国王は癖のある笑みを浮かべた。そうしてそのまま、口を開く。
「古い脳みそのまま刃向かった者に情けをくれてやるというのだ。――首根っこ掴んででも、引きずってこい」
 低い声に、ヨゼルはただ、身を震わせた。

 *

 同日、同時刻、王都より北に位置するタラント領、タラント騎士団施設。離宮を抱える比較的閑静な土地に設けられた騎士団は、今、数十年に一度あるかないかの混乱に陥っていた。
 離宮での異変と魔物の出現、行方不明となっているグリンセス公と王女ふたり。事態は完全に、タラント騎士団長の采配の域を超えていた。
「至急、団長にお目通りを……!」
 砦中をひっくり返したような騒ぎの中、更なる早馬が城門を叩いた。開けられた門に、まだ年若い騎士が転がり込む。肩で息をする彼にとって幸いなことに、団長は丁度、他の用で城内を巡回している最中だった。
「何事だ?」
 普段なら萎縮して尻込みすらしただろう。だが、それを上回る興奮と衝動が騎士を突き動かした。
 頭を垂れ、あらん限りの声で、報告を口にする。
「申し上げます。――エレンハーツ殿下、並びにディアナ殿下のご無事を確認致しました!」
「な、に……? それはまことか!?」
「はい、憔悴のご様子ですが、馬車でこちらに向かわれております!」
 嬉々として告げる若い騎士を前に、額に汗を滲ませる。
 朗報、――或いは更なる混乱の起爆剤か。
 ふと浮かんだ考えを振り捨て、タラント騎士団長は、王女を迎える準備を部下に命じた。


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