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 (十八)

 十年前。
 ディアナは、生まれてこの方、出ることもなかった王宮を離れ、遙か遠い属国、イースエントの地を踏んでいた。勿論、まだ十にも満たぬ彼女自身の意思ではない。
 父であった王、ホランツの崩御、即位前に暗殺された長兄、ふたつの死を発端に生じた王権争い。それを憂い疎んじた母親によってディアナは、母の出身領の北に位置するイースエントに逃げ込むことになったのだ。後から考えれば、それはまさしく英断だった。この母親の素早い判断がなければ、権力者達の陰謀の渦中に引きずり込まれ、ディアナは確実に精神を崩壊させていただろう。
 だが、それもあくまで、「後から考えれば」の話である。有無を言わせず見知らぬ地に放り出された、当時のディアナには心細さしかなく、別の意味で精神に失調を来していた。凍えるような、北国の厳しい自然に打ちのめされ、イースエントの王族の口さがない言葉に傷つき、腫れ物のように扱われることで、幼い少女の心は萎縮していったのだ。唯一の頼りであった母親もまた、心労が募ったのか、慣れない土地、気候も相まって体調を崩し続けていた。
 一本の縄の上を歩くような、危うい均衡が破れたのは、亡命して約半年後。空が雪をこぼし始めた、初冬のことだった。


 ディアナは、深い雪の道を必死に走り続けていた。
 追いかけてくる者が居る。それがけして、ディアナの味方ではないことは、子供の目にも明らかだった。身を案じ、戻るよう促す類の者はけして、その手に抜き身の剣など携えてはいないだろう。この追っ手が誰の手によって放たれたものであったか、後にそれを知ることとなるが、この時にはどうでもいいことだった。誰が何を思って遣わした者であれ、逃げる側のすることはひとつである。
 何時間、そうして走り回っていたかも判らぬほど、ディアナは無我夢中だった。先に斬りつけられた脇腹がじくじくと痛む。子供と侮った追っ手から辛くも難を逃れたのは良いが、しかし、どこに助けを求めればいいのかすらも判らない。
(助けて、母上)
 何故、こうなったのか――。
 元はといえば、自身の置かれた状況に耐えかねて、衝動的に与えられていた宮を飛び出したことに原因がある。おそらくは、ディアナが一人になるのを待ちかまえていた者たちがいたのだろう。宮を離れて少しも立たぬうちに、ディアナは突然数人の覆面姿の男達によって、馬に担ぎ上げられてしまった。
 転がされた馬車の中にひとりきり、外で馬を歩かせる男達は、一言も喋らなかった。それが、ディアナの恐慌状態を決定的なものにしたと言える。そんな、極めて不安定な精神のまま、無我夢中口にした魔法式が正確に発動したのは、偶然の要素が強かっただろう。
 だが、とにかくも、魔法は男達を怯ませた。吹き上げた火柱から逃れるために距離を置いた彼らを横目に、ディアナは逃げることだけを考えて、馬車から飛び降りた。転がり出た先は、無論、見知らぬ場所。木枯らしが吹きすさぶ、葉の落ちた木々だけのある、林の中だった。
 魔法を危険だと感じたのか。はじめは誘拐するということを前提に、特にそれ以外の危害を加える様子のなかった者たちも、ディアナの思わぬ抵抗に考えを改めたようだった。ディアナにとってはより悪い方向、――確実に仕留める方向を選んだようである。対象が子供であるにも関わらず、それからの男達は、慎重に且つ計画的にディアナを包囲していった。
 危険に陥る度に魔法を使い、手を逃れ、そしてまたしばし後に追い詰められる。その繰り返しに、いつしかディアナは、距離感はおろか、時間の感覚まで鈍り始めていた。
 喉が、ぜいぜいと鳴っている。限界など、とうに越えていた。
 朝から床に伏していた母親は、一人娘が掠われたことに気付いてくれただろうか。或いはそのまま、熱にうなされているかと思うと、涙がこぼれくる。そうして、母親の病身ではなく、自分の境遇に嘆いていることに気付き、ディアナは更に情けない気持ちに囚われるのだ。
(もう、死んでしまいたい)
 辛さに、そう思う。だが、追ってくる者達の手に掛かることは嫌だった。それは、なけなしの自尊心であったが、本音の所では死にたいなどと思ってもいなかったのかもしれない。
 だが現実、九つの子供には酷なほど、追っ手は容赦なかった。ディアナの手足は既に感覚を無くし、心臓は破裂するかと思うほどに早鐘を打っている。
 小柄であるというただひとつの利点を生かし、大人には通ることの出来ない木の隙間をくぐり抜け、枯れた林の中をディアナは進む。硬い枝は服を裂き、冷え切った腕を傷つけていたが、彼女は走ることを止めなかった。もはや、自分がどこにいるのかなど、完全に判らない。
 ふと、眼下に灯りを見つけたのは、既に陽も落ち、いよいよ気温も下がる宵のことだった。遙か遠くに見える村の灯り、それより手前の山の中に、儚げに揺れる光がある。
(誰か――)
 夏の間であればいざ知らず、獣も巣に潜む冬に、山の小屋を利用する者など存在しない。だが、ディアナは当然、そんな庶民の暮らしの事情などは知らなかった。誰かの家だと思い、外れにあるからには大人が居るだろうと期待し、なけなしの力を振り絞った。この時、大人が居ようと、追い出される可能性を考えなかったのは、彼女が愚かで世間知らずであったから、だけではない。そう考えるのも億劫なほどに、疲弊していたのだ。
 そうして辿り着いた一件の小屋の、廃墟一歩手前の崩れた外観に怯む。このような破れ家に住む人間の気が知れないと思いつつも、後ろから迫る追っ手を思えば気は急いた。躊躇う時間が長ければ長いほど、確実な死は近づいていく。
 唸る風の音に押されるように、ディアナは問いかけもせずに軋む扉を開けた。
「え!?」
 小屋の中は、仕切すらなかった。戸口からすぐそこに座していた少女が、目を丸くしている。それより少し奥、枯れた草を敷き詰めただけの寝床に、身を横たえた少年もまた、同じようにディアナを凝視した。
 冷え切った室内、外よりは幾分ましという程度の温もりが、開け放たれた戸口から拡散しつつ逃げていく。
 ディアナは、思いも掛けぬ光景に、思わず言葉を失った。このような辺鄙な場所に、さすがに子供がいるとは思わなかったのである。しかも小屋の中は、おそろしく粗末なもので埋め尽くされていた。
 だが、どうにか使えそうな廃品を集めたような、用途の判らない備品の中、幾ら見回しても子供二人以外の姿は見あたらない。明らかに栄養不良と判る、痩せた子供達。おそらくは、ディアナよりも年下だろう。
 息を吐き、ディアナはなんとか声を絞り出した。
「……大人は?」
「え?」
「お前達では話にならぬ。父か母はおらぬか」
 言えば、阿呆のように更にぽかんと口を開ける。
「早くしろ。父か母を呼べ!」
「え、でも、……」
 戸惑うばかりの少女に、苛立ちと焦りの極限が振り切れた。側にあった皿を手に取り、木の壁に叩きつける。
 呆気にとられていた少女はしかし、それを見て漸く我に返ったようだった。
「えと、……あの、あなた、誰?」
「誰でもよいであろう! 早く大人を呼べ!」
「え、でも、……ねぇ?」
 困ったように、少女は後ろを振り返る。目を向けられた少年は、苦笑したようだった。
「待って。落ち着いて」
 落ち着いて聞こえはするが、明らかに子供の声。ディアナに判るわけもなかったが、それは、少しばかり大人になることを急ぎすぎた――急がざるを得なかった、哀れな子供の声だった。
「ここには、大人はいないよ。いるのは僕らだけだ」
「いない……?」
「うん。少し先の村にならいっぱいいるけど」
 ディアナは、自分が開け放したままの戸口を振り返る。外は既に、ほんの僅かな先も見えないほどに暗くなっていた。
「お前達、だけ……」
 かじかんだ手足の力が抜ける。極限まで来た疲労は、絶望を前に抗う力を削ぎ落とした。
 この子供達が、何故人里離れた場所に居るのか、無論、ディアナには知るよしもない。だがひとつはっきりしたことは、もう、追っ手から逃げられないということだった。先を行く力はなく、頼りになる大人も居ない。
 落ち込み、疲労と落胆に肩を落としたディアナに、薄汚れた少女は懸命に声を掛ける。
「ね、――ねぇ、どうしたの? どっから来たの?」
「……」
「寒いの? お湯でも飲む? 暖まるよ?」
 同年代の子供が珍しいのか、しきりにディアナを構う。盗られて困るものなどないのだろうか、突然の訪問者を怪しむ様子もなく、世話を焼き始める始末だった。座り込み、ディアナは煩わしげに生返事を返す。
 だが、一旦端に下がり、再びやってきた少女が手にしたものを見たディアナは、はっきりと顔を顰めてみせた。欠けて汚れた茶碗に、何の草を炒って淹れたのか、僅かに色が付いただけの湯。心まで蕩かすような甘い蜂蜜が入っているわけでも無し、気持ちを静める香草で淹れたものでもなし、本当に、何の匂いもしない、得体の知れない草の浮いた、ただの湯であった。口に含んだところで、一瞬の温かさ以上のものは得られそうにもない。
「……要らない」
 この山奥、陽が照ることも少ない冬に、薪を作っておくだけの腕力もない子供が、湯を沸かす枝と火を作るのに、どれだけの労力を費やすか、ディアナは考えもしなかった。入っていた草が貴重な食料だと、気づきもしなかった。ただ、示された好意を粗末なものとして、受け入れるに値しないものと決めつけたのだ。
 キナケスの王宮では、誰もが傅いた。寒さに凍えることもなく、望めばいつでも美味しい食事がそこにあった。なのに、今はどうだろう。年下の浮浪児のような少女に慰められ、何とも知れぬ草を浮かべた湯を渡される。濡れた服の替えもなく、暖まる毛布もない。
 惨めだ、と思った。母親は事あるごとに、奢らぬよう口にしていたが、王宮育ちの子供がその言葉の本質を理解することなど、不可能に近いことだったのである。身に染みて感じる貧しさは、如何にも耐え難いものだった。
 そして、近くなる死への恐怖。
 帰りたい。ディアナは遂に涙をこぼした。遠い異境で、家畜小屋にも劣る崩れかけの廃屋で、学も品もない子供に慰められ、何故自分は死ななくてはならないのだろう。そう思うと、情けなく、悔しく、どうしようもなく辛くなった。
 突然、泣き始めたディアナを見て、少女はおろおろと、挙動不審な動作を繰り返す。
「ね、ねぇ、どうしよう、キース」
 助けを求めた先、しかし、少年は困ったように眉根を寄せた。自分に振られても判らない、そう言いたげな沈黙はしかし、より切羽詰まった声で破られることになった。
「しっ、――黙って、アリア」
 口に細い指を当て、眉間の皺を深くする。
「誰か、いる」
 立て付けの悪い家中が、壊れそうなほどに軋む。隙間から入り込む風が高く鳴る中で、少年は何かを聞いたようだった。突然緊張を示した彼に従い、不安気に周りを見回しながら、少女は口を噤む。
 ディアナは彼らの様子に、来るべき時が来たことを察した。涙に濡れた顔を上げ、恐怖に喉を鳴らす。
「なんだろう、三人、……いや、五人。村の人じゃないな」
「え? でも、なんで?」
「判らないけど……」


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