[]  [目次]  []



 言葉を切り、少年がディアナの方を向く。
「あんたを探しに来たんだとしたら、妙な感じだね。すごく、物々しい雰囲気だ」
 ぎくり、とディアナは体を強ばらせた。儚げな印象の少年の、あまりにも的確すぎる指摘に、一瞬言葉をなくす。怯えとも動揺とも見える態度に、少年は真剣な目を向ける。
「あんた、何者なの? どうして、追いかけられてるの?」
「――何故」
「ごめん。僕はこの周辺に小さな結界を張ってるんだ。何も防ぎはできないけど、不穏を察することくらいはできる」
 青白い顔が、より一層蒼褪める。
「あんたが来たのは突然だったから判らなかったけど、でも、後から来た人は、――」
「キース!」
 言いかけた言葉が途切れ、少女の叫びが響く。
 木片が舞い上がる。
 北風に耐えていた木の壁を突き破った鉄球は、少年の肩を掠めて藁の寝床にのめり込んだ。咄嗟に少年を引き寄せた少女が、顔を引き攣らせ、大きく喘いでいる。
 室内だった場所に舞い込む、白い華。砕かれた木の破片が散乱する中、ディアナは足を竦ませていた。一旦挫けた心が、抵抗する気持ちを折ってしまったようである。完全に怖じ気づき、立ち上がる気力も湧いてこなかった。
「あ……」
 喉が干上がり、満足な声すらも出ない。
 そんなディアナを見て、雪の中の追っ手たちは嗤う。変わらず、言葉を交わすこともなく、彼らはディアナを追い詰めた。吹き荒れる強風の中、追う者と追われる者が対峙する。
「逃げるよ……!」
 咳き込む少年に肩を貸しつつ、少女がディアナの服を引っ張った。男達はそれを眺めつつ、ゆっくりと近づいてくる。殊更、その歩みが遅いのは、より確かな恐怖心を与えるためだろう。
「何やってんの! 立って!」
「動けない……」
 漸く絞り出した声は、弱音以外のなにものでもなかった。一度目を見開き、しかし少女は食い下がる。
「早く……!」
 無理矢理に、少女がディアナを立たせた直後、突如、雪煙が舞い上がった。
「!?」
「こっちだよ!」
 少年が手を差し伸べる。思わず、反射的に捕まったディアナは、予想以上の力に引っ張られ、煙る視界の中を一歩二歩と進み行った。
「……何、したのだ。今」
「だから、僕は魔法使い。ちょっと不良品だけど、逃げるくらいなら、手伝える」
 ふと振り返って背後を見ると、まだ粉雪が舞い上がっている。元からの強風もあり、量を増し行く降雪もあり、視界は一面、ただの白に覆われてしまっていた。よくよく目を凝らせば、その先に歩き回る人の姿が見える。
「長くは持たない、早く」
「駄目だ。走れぬ。置いていけ」
 言い捨てるディアナに、少年は苦笑を浮かべたようだった。ちらりと一瞥を返し、軽く首を傾げてみせる。
「無駄だよ」
 少年と、指先で繋がった少女もまた、困ったように笑う。
「そうだね」
「何故、決めつける、お前達には何の関係も」
「ない。けども、あんたを追ってきた奴らは、僕たちの家を壊すことに躊躇わなかった。今は目撃者となった僕たちを、見過ごすとは思えない」
 はっとして、ディアナは先行くふたつの背中を凝視した。
(――ああ、そうか。巻き込んでしまったのか)
 今更ながらに、そう、気付く。
 だが、罪悪感が浸食する前にディアナの胸に落ちたのは、不信感という名の疑心だった。
 さして年も変わらぬ子供である二人が、何故こうも冷静に、状況を判断することが出来るのかと訝しむ。普通なら、始めに家を破壊された時点で一目散に逃げているだろう。
 おかしい、と思った。そもそも、こんな雪深い山の裾に、子供二人が何故いるのだろう。
 これ見よがしに貧しい生活ぶりが、尚更に奇妙に映る。常識を考えてみれば、子供ふたり、しかも虚弱な様子さえ見せる少年と、やせ細った少女が、過酷な環境の中で生き延びていられるわけがない。獣に襲われでもすれば、ひとたまりもないだろう。
 それに、魔法に対する疑問がある。魔法は一般知識ではない。高度な教育を必要とするのだ。辺境国では、満足に本も揃えられないだろう。まかり間違っても、日々の食事すら事欠くような底辺の人間が習えるものではない。
(まさか、罠か……?)
 思えば思うほど、疑念が広がっていく。
 親切に見せかけて、欺く――使い古された常套手段だ。それでも未だに使われるのは、それだけ効果が高いということだろう。
 なんてタチの悪い、とディアナは歯噛みした。村への道筋が判ったら、二人から離れなくてはならない。いや、放っておけば追っ手に加わる可能性もある。少なくとも、離れる前に、戦闘力は削いでおく必要があるだろう。
 決心を固め、ディアナは深く息を吸い込んだ。


 ――このときもし、彼女に正常な思考能力が残っていれば、気付くことが出来たかも知れない。
 掠われたのも突発事項であれば、ディアナが逃げたことも、この場所に迷い込んだことも予想外の偶然に因る。追っ手の男達に周到な罠を張る時間はなく、ましてや年端もいかない子供を効果的に協力させることなど不可能であること、欺くことが目的なら、大人を配した方がよほど確実であること、そういった矛盾点を思い至る余裕は、この時のディアナにはなかった。
 ただただ、全てが疑わしい。
 そしてそのことが、すぐ後に、償いようのない悲劇を引き起こすこととなる。

 *

 ゆっくりと、しかし確実に、夜は更けていく。
 少年の使う魔法により追っ手を攪乱しつつ、三人は麓を目指して足を急がせた。子供の足を半分ほど埋める雪に難儀しつつ、少女の案内の元、獣道を進む。慣れているのだろうか、少女は驚くほど身軽に駆け、時にはふたりに注意を促した。
「向こうの道を行ったら、多分川が凍結してる。近道になるから、行こう」
 子供らしからぬ鋭い目つきは、ディアナを慰めていたときと別物だった。五感を研ぎ澄ませ、周囲の様子をくまなく探るうちにそういう表情になったのだろうが、ディアナには違うように映った。見られる度に、獲物として狙われているような緊張を覚える。
 ――いつ、逃げだそうか。そう思いながら雪を掻き分けて進む。件の川は少女の予想通り厚い氷に覆われて流れを止めていた。
「追っ手ってのは、何人いたの?」
 崖にも似た下り道を慎重に降りつつ、少女が背後を気にしながら呟いた。白々しい、と目を眇め、ディアナは素っ気なく答えを返す。
「五、六人くらいだろう」
「ずっと追われたの? よく逃げられたね」
「少しなら、魔法も使える」
 でなくば普通、雇われて子供を掠うような大人から、逃げられるわけがない。そんなことも判らないのかと、些細な言葉がディアナを苛立たせる。
「魔法かぁ。いいよね、使えたら」
「お前の兄弟も使えるはずだが」
「うん。でも、本当にちょと、かなぁ……。私が足手まといになってるしなぁ」
 これには、少年の方が反論の必要性を感じたようだった。先導していた頭が振り向き、眉を顰めて少女を睨む。
「アリアは関係ない。上手く使えないのは、そもそも、ちょっと基本を盗み聞いて覚えただけの、独学だからだよ」
「魔法は、おいそれと適当に使って良いものではない。きちんと習うべきだ」
「……それは、習えるだけのお金とコネのある人の発言だよ」
 少年の指摘に、ディアナはさっと顔を赤らめる。世間知らず、そう言われていると思えば、小さな自尊心に抵触した。実際にはこの時、少年がディアナの身分を察していた事実はなく、――追っ手がかかっている時点で相応の身代だとは判っていたとしても、責める意味合いはなかったのだろう。ただの愚痴、しかし、この時のディアナに不機嫌から口を噤ませるには充分な一言だった。
 俯き、明らかに入れ過ぎと判る力加減で雪を踏むディアナ。少年と少女は肩を竦めたようだったが結局は何も言わず、風の鳴る音だけを耳に、坂を下ることとなった。
 枯れた草を掻き分け、ようやく辿り着いた川岸で一度立ち止まり、氷の厚さを確かめる。一応の行為だったが、少女の行動には慣れた様子が窺えた。年に合わぬ慎重な行動が、ディアナの目には如何にもとってつけたように映る。
「大丈夫、渡ろう」
 少年が決定を出し、まずは彼自身が凍った川に足を踏み入れた。続いてディアナも数メートルほどの川幅を慎重に歩き、対岸に渡ったところで息を吐く。
「大丈夫?」
 同じように荒い息を吐く少年が、ディアナよりも青白い顔で問いかける。優しげな表情に騙されまいと、ディアナはかじかんだ手で枯れ枝を握りしめた。問いかけなど必要ないという素振りでそっぽ向き、虚勢に背を伸ばす。
 少年は、ただ苦笑して振りかえった。
「アリア、いいよ、渡って――」
 子供の体重とは言え、三人が一度に渡れば、氷の薄い部分が割れる危険性もある。そういった場合を想定し、少女は先を行くふたりが完全に渡りきるまで待機する役になっていた。その彼女に合図を送った少年の声が、言いかけのままに止まる。
 なんだろうとディアナは顔を上げ、
「っ、アリア、後ろ!」
 少年の切羽詰まった声に、思わず後ろを振り返った。
 その頬に、鋭く何かが掠る。直後、枯れて乾いた枝だが音を立てた。
 ぎこちない動きで振り返る。その目に映る、木に突き刺さった一本の矢。おそるおそる頬に手を当てたディアナは、湿った感触がないことに安堵した。矢羽根が掠っただけだったのだろう。
「アリア!」
 少年の、悲痛な声。
 対岸に目を戻せば、男ひとりに羽交い締めにされる少女の姿があった。その後方から、追っ手のひとりと見られる男が矢を放っている。暗闇、雪、血管のような細い樹枝、それらの視界を遮るものがなければ、間違いなくディアナ達は容易く射貫かれていただろう。
 転がるように林の奥に入り込み、煩く鳴る心臓に手を当てる。息は荒く、恐怖に強ばった手足は、思うように動いてくれなかった。
「殺すぞ!」
 降り積もる雪の道を、四肢で這うように掻き分ける。その背に、凄みのある声が叩きつけられた。
「出てこい、こいつの手足を引き裂くぞ!」
 語尾に、小さな悲鳴が被る。
「アリア……」
 少年が、苦しげに呟いた。一方でディアナは、何を莫迦なことを、と思う。
(下手な演技で同情を呼ぶつもりか?)
 ディアナにとって、少女と自分の命は、勿論同等ではない。深い恩義ある者ならともかく、つい先ほど初めて会った者を人質にして、その要求が本当に通るとでも思っているのだろうか。
「出ろ、王女!」
 風の音に混じり、息を呑む音がする。それには構わず、ディアナは呼びかける声に背を向けた。
 だが、警告を無視して逃げようとする彼女を、力なく握ってきた手が阻む。
「待って」
「わたくしに命令する気か」
「お願い、待って」
 食い下がる少年の腕を、捻り上げる。それくらいの護身術は体得していた。柔らかい雪の上に少年の細い体を沈め、荒い息を吐きながらディアナは立ち上がる。
 逃げようと身を翻す、しかしその背に射かけられる矢。唸りを上げながら迫る鏃を避けるため、身を屈めたディアナの足を、少年が雪の中から掴み遣った。
「待ってよ」
「離せ!」
 叫び、ディアナは咄嗟に魔法を放った。残り少ない魔力を使うのは惜しかったが、そう言っていられる場合でもない。
 雪を灼き、飛び散った火花が少年の指を弾く。仰け反り、背から倒れる少年、その細い体に矢が飛来する。少女を質に持ちつつ、一方で全員を殺そうとしているのか、或いは同じ年頃の人影に区別が付いていないのか。
 少年の手を振り切り、這い進んだディアナは、突然、抗いようのない浮遊感をその身に覚えた。手が宙を彷徨う。勢い、前のめりの姿勢のまま、ディアナは雪に隠れた窪みの中に落下した。
「――っ!」
 一拍遅れて、もうひとつ、落ちてくる影。身長以上の高さから不安定な姿勢のまま落ち、それでいて全くの無事であったのは、新雪が柔らかく受け止めてくれたからだろう。
 打ち付けた体は、鈍い疼きを訴える。だが不幸中の幸いか、窪みの先は比較的平坦な道が続いている。丁度、川の向こうにいる大人からは見えなくなっているだろう。
(逃げられる)
 思い、よろよろと立ち上がったディアナの足を、またしても掴む指。煩わしげに振り向いた直後、ディアナの視界は白く細かい雪に遮られた。
 魔法だ、と思ったときには既に遅い。
「ごめん。こうでもしないと待ってくれないから」


[]  [目次]  []