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「……悪いが、お前の連れと引き替えになる気はない」
 交渉の余地を残さないように、きっぱりと言い捨てる。少年は辛そうな顔で、しかし毅然とした態度でディアナに向き直った。
「あんたにその気はなくても、僕の方はそうはいかない。あんたが僕たちの家に飛び込んでこなければ、こんなことにはならなかったんだから」
「何を……、どうせお前達も、金に目が眩んだのだろう」
「金? ……まさか、僕たちを疑ってる?」
「でなくば何故、お前達は私を誘導する? 慣れた場所であれば、私を置いて隠れやり過ごせばよかろう。それをしないのは、お前達があの追っ手どもの仲間だからだ」
「莫迦言うな!」
 吐くように叫んだ少年の言葉に、ディアナはびくりと体を強ばらせた。
「アリアがあんたを置いていかなかったのは、捨てられる辛さを知ってるからだ。あの子は優しい。自分が辛い目に遭っても、誰かにそれを恨み返したいなんて思っちゃいないんだ。だから、一緒に逃げようとした、それだけだよ」
「……」
「僕の方は、そこまで親切じゃない。けど、あんたが金持ちだとはすぐに判った。だから、上手く逃がすことが出来れば、せめて、どこかの村にでも住めるように、取り計らってもらえるんじゃないかって、ちょっとは思った。下心はあるよ。だけど、あんな追っ手と手を組んでるわけじゃない」
 言い切って、少年は荒い息を吐いた。真剣な目に、ディアナは自分の誤解を知る。だが、今それを知ったところで、過去は変えようがない。
 短い沈黙の後、少年が口を開いた。
「取引、してくれないか?」
「取引?」
「そう。僕は、あんたを今助ける。何をしてでも、あんたを追ってきた人たちから、逃がしてあげる。その代わり、これからのアリアを助けてあげてほしい」
「……何故だ? こうなった限りは、わたくしを奴らに渡して、逃げるしかないだろう」
 少年は、哀しげに首を横に振った。
「何故だ。奴らは確かに、お前達をこのまま見過ごしはしないと思う。だが、お前の魔法があれば、わたくしを引き渡すときに、連れを助け出すことくらいはできるだろう?」
「そうだろうね。……でも、僕はもう、駄目なんだ」
 言って、汚れた上着の裾を捲り上げる。つられてのぞき込んだディアナは、次の瞬間に激しく後悔をした。
 少年の肋の浮いた側胸部、そこに、どす黒い染みが広がっている。
「さっきの矢だよ。ほんの少し、掠っただけだけど。……毒矢みたいでね」
「即効性ではないだろう。今からでも、村に助けを求めれば……」
「村に行けるような人間が、あんな場所に住むと思う? 医者にかかる金なんてない。追い出されるのが落ちだよ」
「……」
「それに、運良く診てくれる人がいたとしても、僕はもう、長くは持たない。乗り越えられるだけの体力がないんだよ」
「魔法使いなのに、か?」
「……僕ひとりなら生き延びることはできるかも知れないけど、それじゃ、意味がないんだ」
 顔を歪め、少年は嗤う。
「僕は体が弱い。アリアは健康だ。だからいつも、アリアは僕を助けてくれる。ろくに遠出もできない僕の代わりに、狩りをして、食べ物を集め、世話をしていてくれる。僕は代わりに、アリアに命をあげている」
「命?」
「魔力」
 短い返答に、ディアナは目を見開いた。魔力を遣り取りできるなど、聞いたこともない。おそらくは、稀にも見ないような特殊例なのだろう。
 本来、知り合ったばかりの人間に話すような内容ではなく、――つまり、それほど少年は切羽詰まっているのだと言える。だが、そんな様子は微塵にも見せず、表面上、蒼褪めた顔に落ち着いた色を浮かべて彼は言葉を続けた。
「僕は多すぎて、アリアは足らない。だから僕たちは、ふたりでひとり。アリアにあげる魔力を、全部体の治癒に使ったら、もしかしたら毒に勝って生きられるかも知れないけど、代わりにアリアは死んでしまう。それじゃ、意味がないんだ」
「今、乗り越えても、アリアを失えば、これから生活が出来なくなるからか?」
「アリアが生きてなくちゃ、僕に生きてる意味はない」
 深い色の目が、ディアナを見つめる。
「たったひとりの僕の妹。大事な僕の半身。アリアが居ないと生きていけない。でも僕は卑怯だから、アリアに生きていて欲しいと思う」
 ディアナはこの時、大人びた少年の言葉を、半分ほどにも理解できていなかった。王女として生まれ、自分中心に生きてきた彼女に、奉仕、或いは自己犠牲の精神は存在しなかったのだ。そうして、何が卑怯なのかも、判ってはいなかっただろう。
「……アリアとやらを助けるために、わたくしを助けると言うのだな?」
「そう。……魔力も僕よりは多い」
「判るのか」
「なんとなくね」
 咳き込み、少年は何度か深呼吸を繰り返した。気管を通る空気の音が、ひどく濁る。毒の効果ではない。もともと、彼の体はそういうふうに出来ているのだ。
「時間がない。あいつらは本当に、アリアを殺すだろう。そうなったら僕は、何としてでもあんたを奴らに突きだして、皆殺しにしてやる」
 真剣な目に、気圧されたようにディアナは一歩退いた。そうして、自分に選択肢などないことを悟る。
 少年や少女を見捨てて逃げたところで、彼らを殺し終えた男達に、捕まるのは時間の問題だとも判っていた。
「……わかった。お前の妹とやらを保護してやる。その代わり、約束は守れ」
「大丈夫。それは、絶対に」
 強い態度とは裏腹に、少年の表情は、あまりにも儚げだった。

 *

 姿を見せたディアナに、追っ手のひとりが皮肉っぽく嗤ったようだった。今は粉雪が舞う程度にまで止んだ寒空の下、ディアナは白い息を吐いて男達と対峙する。
「その子を放しなさい」
 言葉の放たれた先には、体格の良い男が数人。一時はディアナの魔法を前に殺すことを選択した彼らも、今は優勢に立ったことに気をよくしているのか、再び捕らえる方向に転換したようであった。でなくば、待つことなどせずに、川と崖を越えてディアナを追い詰めていただろう。
「来るのが先だ」
「信用できぬ。全く無関係の者だ。わたくしはもう、逃げも隠れもせぬ。魔力も残っておらぬ」
 今この時だけを切り取って見るなら、ディアナは間違いなく、慈悲深い王族だった。殆ど見知らぬ者を助けるために、自らが犠牲になるという、自己陶酔にも似た演技。
 殴られたらしく、頬を赤く腫らした少女が、後ろ手に捕らえられながら、必死で首を横に振っている。自己犠牲の心というものがあるのなら、それは彼女に宿っているに違いない。巻き込まれたが故に否応なく一緒に逃げていただけの異邦人の為に、逃げろと全身で訴えている。
 さすがにディアナは、恥も外聞もなく自分だけが逃げ、助かる道を選んでいたことを恥じた。だが、それを表に出すほど愚かではない。毅然とした態度のまま、ディアナは男達に告げた。
「わたくしはここに居る。その子を置いて、お前達がこちらに来い。それなら良いだろう?」
 ディアナの言葉に、男達は顔を見合わせた。そうして何事か話した後、頷いて離れやる。
「いいだろう」
 ほっと息を吐いたディアナは、背後にいる少年に、合図を送った。彼が、何をする気なのかは判らない。何度訊ねても教えてはくれなかった。――そこに不審や不安は残る。
 だが、少女を見捨てるならば、少年が容易く追っ手の方に付くだろう事は明らかだった。短い会話にも判るほどに、彼の中心は少女にあるのだ。彼の証言を得てディアナがひとり逃げたことを知れば、追っ手は勿論、ディアナを追うだろう。完全に降りた闇の中、今度こそ、疲弊したディアナに逃げ切る術はない。
 少女を見捨てても死、少年の策に乗っても大した差はないだろう。しかし、僅かでも生き延びる隙があるとすれば、ディアナに残された手は、彼を信じるより他になかったのだ。
「――動くなよ」
 男達の蔑んだ表情の中に、ちらりと愉悦が混じる。
 羽交い締めにしていた少女に当て身を喰らわせ、彼らは凍り付いた川へと足を踏み入れた。もともと、底が浅いというのもあるだろう。完全に凍り付いていた川は、数人の大人が歩いてもびくともしなかった。
 一歩一歩、彼らは慎重に歩み寄る。だが、ディアナが荒い息を吐き、立ちすくんでいるのに気を緩めたのか、柄に手を掛けてはいるものの、鞘から剣を抜いている者はいなかった。追い詰めた者の余裕を示すように、弓は捨て置かれている。
 と。半分ほど進んだところで、男達は足を止めた。そうして、意味ありげに嗤う。
「後ろの小僧、出しな」
 さ、とディアナの顔が蒼褪める。
「出てこい、小僧」
 カマを掛けているという様子ではない。ディアナが後ろに視線を送ると、少年は変わらぬ青白い顔のまま、短く頷いた。
 細い腕が雪を掻き分け、窪地より這い上がる。
「てめぇは、向こうだ」
 顎をしゃくる男。少年は、ちらりとディアナに目を向けた。一瞬、ディアナの胸に不安が過ぎる。
 ――魔法を使うのなら、この瞬間ではないのか。
 今にも倒れそうな少年に残された手と言えば、それしかないのではないかと思う。
 だが少年は、一歩、促されるままに足を進めた。
「――っ!?」
 ディアナは驚愕に、目を見開いた。
 少年が、少女の元へ駆け寄る。手を伸ばせば捕まえられる距離にあるというのに、男達は手出しをしなかった。
 魔法を警戒するのは判る。だがそれならば、少女の元へ放たずとも、その至近距離にある内に、斬りつければ済む話ではないのだろうか。いみじくも少女が言ったように、顔を覚えた目撃者を、みすみす逃がす手はないのだから。
「アリア!」
 安堵の声。
 雪を踏みならす、複数の足音。近づく、背高い影。
 ディアナは、茫然とそれを眺めやった。
 近づいた男達が、悦に入った、人の悪い笑みを浮かべている。それを目の端に捉えたディアナは、瞬間的に、顔に朱が走るのを感じた。
(騙された)
 ディアナを助けると言った少年は、一目散に少女に駆け寄った。助けるどころか、離れてしまっている。そんな彼を、男達は黙認した。――やはり、彼らは繋がっていたのだ。
 瞬間的に押し寄せる、後悔と虚脱感。
 健気な少女の行動も、感心したその心根も、全部、示し合わされた演技だったのか。
 絶望と、哀しみと、圧倒的な怒りが、倒れそうなほどの疲労を凌駕した。
 屈辱が、ディアナの拳を振るわせた。
「ふざけるなっ!」
 叫びは、そのまま力となった。残り少ない魔力を振り絞り、ディアナは知りうる限り、最も強い攻撃力を持つ魔法を口にした。制限を加えることをせず、限界を超した力を発動させる。
 魔法が型を成す、その直前に生じる不可視の戦慄。振るう力が強大であればあるほど、それは人の感覚を強く刺激する。
 ディアナが身を焼き尽くすことを承知で叫んだ魔法式は、語気の荒さと共に、追っ手たちを、少年と少女を強く打ち叩いた。
「死ねっ!」
 紅唇から発せられた呪詛。
 ディアナが空に向かって吼えるのと同時に、天を貫かんばかりの火炎が、勢いよく立ちのぼった。渦巻く炎が、ディアナ達を囲うように踊り狂う。
 ごう、と大気が低く咆吼を上げた。大地が赤く熱を孕み、木々が瞬間的に全身を炎に包む。爆ぜ、飛ぶ火の粉は枯れた樹木を積もった雪ごと焼き払い、次々と延焼していった。
 折り悪く、降り止んだ雪――、否、魔法により成った炎は、降り続いていたとしても、容易くは消えてくれなかっただろう。
 さしもの追っ手たちも、これには度肝を抜かれたようだった。据わった目つきで魔法を繰るディアナから離れ、激しく水を蒸散させる川の中に逃げ込んでいく。
「止めろ!」
 男達を挟んで対岸、少年が少女を抱えながら悲痛な声を上げる。
「死んでしまう、今すぐ魔法を消すんだ!」
「――今更、何を」
 奥歯を噛み締め、ディアナは唸る。
「人を、騙してっ……!」
「誤解だよ、落ち着いて!」
 立ち上がった少年はしかし、そのまま再び膝を突いた。口を押さえ、咳き込みながら蹲る。
「キース!」
 抱え起こす少女。少年の口からは、鮮血が吐き出されたようだった。ディアナは、そんな彼らの様子を、周囲とは対極に位置する冷えた目で見つめる。少年達と彼女を隔てる距離、熱に歪む大気、そして不審という感情が彼女の正確な認識を妨げた。
 その間にもいよいよ火勢は強く、じりじりと輪を縮めていっている。男達は目的も忘れ、己の置かれた状況に混乱しきっていた。故に、正常な判断ができなくなっていたのだろう。
 水飛沫を上げて川から走り出た追っ手の一人が、ディアナではなく、少年を労る少女の方へと向かった。


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