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「糞ガキがっ!」
 目を見張る少女の腕を掴み上げ、宙に吊る。
「――おい! こいつを死なせたくなけりゃ、火を消せ!」
 先ほど、彼女を助けるためにディアナが現れたことを思い出したのだろう。騙された上での演技だったとは、気付いていないらしい。
 自嘲の念を覚えながら、ディアナは口元に、年には似合わない冷笑を浮かべた。確かに、先ほどまでの行動が自発的なものなら、慈悲深い王女は少女を助けるために攻撃を止めただろう。
 ――だが。
「断る」
「――っ!」
 男は顔を顰め、少女は目を伏せる。ディアナの様子から、少年はこの返答を予測していたのだろう。血の気のない顔を一瞬ディアナに向けた後、おそらくは力の入らない体で大人の男につかみかかる。
 ディアナは、あえなく返り討ちに遭い、その場に倒れ込む少年を、ただ侮蔑を込めた視線で見つめやった。
「くそっ! 役に立たねぇガキ共だ!」
「キース!」
 悪態を吐きながら、男は無抵抗の少年を蹴り続ける。
「止めて、止めてよ、お願い!」
 雪の溶けた痩せた土の上、少年の体から流れた血が小さな溜まりを作る。
「お願い、お願いします、止めて下さい!」
「っるせぇ!」
「それ以上したら、死んじゃう! お願いします!」
 自業自得だ、とディアナは口端を歪めた。止めるわけがない。男は半分、恐慌状態に陥っているのだ。目の前にしたディアナという捕獲対象には、炎が行く手を阻み、近づけない。周囲もまた火の海と化し、手を引くにも逃げられない状態になっている。その中で、一番の弱者に矛先が向いているのだ。事態が改善しない限り、男は虐待の手を緩めないだろう。
「止めて、止めて――」
 少年を蹴る足にしがみついた少女が、今度は別の男に引きはがされ、殴られる。少年は、丸めていた体から頭だけを上げ、少女の悲鳴のする方向に視線をやった。
「……」
 掠れた声が、短く何かを呟いている。ディアナには、聞こえない。
 少女に手を伸ばす、弱々しい仕草。だが男達はそれを、抵抗と取ったのか。一際強い蹴りに、少年の体が激しく仰け反った。
「――っ!」
 それを見、息を呑んだ少女が、――ふと、抵抗を止める。
 諦めたか?
 既に夜は更けていたが、炎に照らされた周辺は、昼のように明るく見通しが良くなっている。少し離れた対岸から様子を見つめていたディアナは、少女の、空いた方の手が、ゆっくりと持ち上げられるのを認めた。細い腕で何をする気かと、男達も嗤いながら彼女を見遣る。
「放して」
 少女の呟きは、何故か恐ろしいほど通りよく響いた。哄笑が、それに続く。
 もう一度、少女は警告するように呟いた。
「放さないと――」
 細い、小さな手が、何かを掴む仕草をする。
 ――途端、ディアナの体を、何かが走り抜けた。疼きとも痺れともつかぬ、総毛立つような衝撃。同時に生まれた感情は、強いて言えば畏怖に近かっただろう。
 本能を直撃する、戦慄。全身が、総毛立つ。
(――これは……!)
 例えようもない、不快感。そして恐怖。ディアナは反射的に、両腕で自らの体を抱きしめた。
 不可解な感覚を覚えたのは、男達も同様だったのだろう。気付かぬうちにか半歩後退し、それぞれの面持ちで周囲を見回している。
「……なんだ?」
 ひとりが呟き、思い出したように少年に目を向ける。
「そういや、こいつ、魔法を使いやがったよな……」
 忘れられていた事実に、男達の目が色を変える。ディアナの例を見るまでもなく、魔法使いというのは子供であっても侮れない存在なのだ。捕らえられても魔法を使わなかった少女と、逃げるために大規模な魔法を使った少年、どちらに不審の目が向くかは、あまりにも明白だった。
「てめぇ、何しやがったっ!」
 表現しようのない不快感を、今は無抵抗な少年に向ける。ひとりが始めた暴力が、他の男に伝播するまでに、数秒も要しなかった。
「この、――」
「止めて、って、言った!」
 苦痛に呻く少年を目に、少女が叫ぶ。
 そうして、再び持ち上げられる、腕、そして、奇妙な動きをする、指先。
 駆け抜ける、死という名の絶対的な恐怖。
「――許さない!!」
「――駄目だ!!」
 悲鳴のような制止の声、そして同時に強い風が駆け抜けた。
 一瞬の、閃光。
「……っ」
 煽られ、足下を掬われ、ディアナは耐えきれずに後方に倒れ込んだ。薄目を開けてみれば、川の中にいる男達も、ほぼ同様の状態であるらしい。
 何が起こったのだろう――。
 ほぼ瞬間的に、ディアナの魔法はかき消されていた。同時に、得も言われぬ不快な感覚もまた、消え失せている。だがどうにも、体に力が入らない。無理に起きようとすれば目眩に倒れる有様であった。
 目を閉じ、ディアナは深呼吸を繰り返す。暖まった空気に、冷たい風の流れを感じる。
 しばらく後、ようやくのように上半身を起こして対岸を見れば、先ほどまで少女を持ち上げていた男が倒れ、その近くに少女が蹲っているのが目に入った。
(泣いて……)
 吐き気を感じる頭の奥で、ぼんやりとディアナは思う。男達は微動だにしない。少年の姿は、ディアナの位置からは見えず、少女だけがしっかりと座り込み、低い位置に向かって何かを語りかけていた。
 彼女が持続して使っていた魔法は途切れてしまった為、既に炎と風の唸りは消失している。だが、彼女の声は小さく、何を言っているのか、ディアナには聞こえなかった。ただ、少女の頬を流れる涙だけが、残り火に照らされて光っている。
 ディアナは、力の入らない体を無理矢理立たせ、ゆっくりと彼らの方に近づいた。何故か、そうしなければならないと思ったのだ。一時の屈辱も怒りも、哀しみも忘れて、ただ茫然と、歩み寄る。
 干上がった川の中に倒れている男達は、気絶しているのだろう。横を通り過ぎるディアナを遮る者はいなかった。
 足下に、ちらちらと雪が舞う。
 既に焼き尽くされた周辺、炭と化した狭い一帯の炎は消えていたが、その輪の外は赤く燃えさかっている。濡れた大地とはいえ、魔法から生まれた炎は強い。下手をすれば、山の麓の村にまで延焼するだろう。
 茫洋と考えながら、逃げることも忘れ、ディアナは対岸へと渡った。
「キース……っ」
 嗚咽混じりの、悲痛な声が耳を打つ。
「ごめん、ごめん、あたしのせいで……」
「……泣かないで」
 自ら流した血を褥に、少年は薄く微笑んだようだった。ディアナが小石を踏む音にも気付かず、ただ少女を見上げている。少年の顔からは、もはや、僅かばかりの生気も感じられなかった。
「無茶、しないでって、言った……のに」
「アリア、僕の大切な、アリア……」
 細かく震える手が、少女の頬に伸ばされる。
「その力で、人を、殺めちゃいけない……」
 は、と少女が見開いた目で少年を見つめる。
「二度と、こっちに、戻って……来れなくなる」
「でも、でもっ……!」
「僕を、助けて、くれようと、したんだよね。……ありが、とう」
「でも、そのせいで、そのせいで……」
 少年の手を握り、少女は滂沱と涙をこぼす。
 ああ、とディアナは目を細めた。――あの不可解な力を振るったのは、少女の方だ。少年はおそらく、その力が完全に発動するのを防ぐために、瞬間的に無茶な魔法を使って、彼女を止めた。
 結果、――少年は、魔力という、唯一自分の身を守る力を殆ど失ってしまった。魔力による回復が追いつかなくなるほどに。
「アリア」
 だが、瀕死には見えぬ、穏やかな表情で、少年は微笑う。
「火は、消さなきゃ、いけない」
「そんなこと……!」
「だから、僕の力を使って。僕の、力を、受け取って……」
「! 駄目だよ、そんなことしたら、キースが!」
「後のことは、頼んであるから……」
 近くにいることに、気付いていたのか、或いは少女に言い聞かせているだけなのか。言葉に、それの示す先に、ディアナはただ喉を詰まらせた。
 ――そして、それが、少年の最期の力なのだろう。全てを注ぎ込むように、彼は強く言った。
「アリア、生きて」
 少女は、頭振る。
「辛いことも、あるかも、しれないけど、……生きていて。それが僕の願い。アリアが生きている事が、僕の生きていた証だから」
「キース」
「僕の全てを受け取って……、それで、……」
 咳き込み、少年の喉が細い音を鳴らした。
 そして、沈黙。頼りない息づかいが、恐ろしいほど耳に響く。
 血だらけの手を握りしめ、少女は歯を食いしばったようだった。つなげた手を額に当て、滂沱と涙を流しながら、彼女は祈るように膝を折る。
 淡く光る、指先。
「生きて――……」
 微かに微笑んだ口元から、最期の願い。
 頷き、少女は強く、ただ強く手を握りしめた。

 *

 呻き声を上げた少女に、ヴェロナは呼びかけを強くした。ふたりを隔てる鉄格子を揺すり、カタカタと音を鳴らす。だが、一昨日から水のみしか口にしていない体は、声であれ物音であれ、少女を起こすほどの響きを与えることが出来なかった。
 何度か瞼を動かし、しかし、開けられぬまま、少女は再び荒い息だけを繰り返す。
 だが、動くようになった。そこにヴェロナは希望を見いだしている。昨日までは、呼吸も浅く少なく、死んだように横たわっていただけだったのだ。
 ヴェロナは今や、牢の向こう、正面しか見ることが出来ない。息づかいだけがどうにか聞こえる左の牢は、怖れと畏れにより、目を向けることが出来ないでいる。
 異常なほどの、代謝能力。まさに、人間ではない。その上、怯えるヴェロナを知りながらも、彼は自傷行為を繰り返した。普通の人間なら、既に何度も事切れているだろう。自らの血に濡れた髪を振り乱す様は、鬼気迫るものがあった。
 何故か、次第に上がっていく気温もヴェロナを萎えさせる。暖かいで済んだ頃が懐かしいほどに、今はひどく、乾いて熱い。干上がった喉に通る、水だけが救いだった。
「アリアさん――……」
 力なく、呼びかける。
 この時、ヴェロナに欠片ほどの余裕があったなら、あと少しでも明るければ、それに気付くことが出来ただろう。
 己を護るように身を屈めた少女の頬には、いつの間にか、一筋の涙が流れていた。



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