[]  [目次]  []



「……退いて」
 す、とエレンハーツは壁際に手を伸ばした。そこに掛けられた飾りの剣を手に取り、刀身を抜き放つ。
 ディアナは、目を眇めて彼女を眺めやった。
「――そのようなもので、如何なさるおつもりか」
「退きなさい。でないとあなたも、裏切り者とするわ」
「おかしなことをおっしゃる。わたくしは一度たりともあなたを裏切った覚えはありませぬよ」
「なら、何故、邪魔をするの!」
「しておりませぬ。わたくしが、あなたに逆らったことがありますか? ないでしょう。わたくしはただ、あなたに真実を伝え、側に居ただけ。今までのことは全て、あなたが見て聞いて感じて、判断されたことですよ」
「戯れ言を!」
 一喝。だがヒステリックなそれは、ディアナの心胆を一分たりとも動かしはしなかった。使い慣れない剣を必死で構えてはいるが、剣先は震えて定まらぬまま。振り上げでもすれば、傷つくのはエレンハーツ自身だということは、考えるまでもなく明らかだった。
「ああ、義姉上」
 悲痛に、ディアナの言葉は響いた。
「貴方が亡き弟君、ディオネル様を思う気持ちは間違ってはおりません。義姉上が義兄フェルハーンや陛下に仇を感じ、復讐されようとするのをお止めする気はありません」
「では、そこを退きなさい」
「義姉上がその手に刃を持ち、彼らと自ら対峙なさるなら、わたくしはお手伝いすら申し上げたでしょう。しかし、義姉上、貴方の行ったことは、復讐ではない。無差別な殺戮です」
 声には同情を、しかし目には鋭い怒りを忍ばせて、ディアナはエレンハーツを真っ直ぐに睨みやった。
「貴方の思いは、理不尽に肥大してこの国を、国の民を巻き込んだ。それ故、わたくしは貴方を許すわけにはいかぬのです」
 一歩、追い詰めるように足を進める。
「貴方の手は大地を耕さぬ。貴方の手は糸を紡がぬ。剣を握り弱き者のために闘うこともなければ、その声で癒すこともありません。貴方が口にした食物、袖を通した衣服、その与えられたものに対し、与えてくれた者に何一つ返すこともなく、苦しみと嘆きを持って報いた。王族として、いや、人として、わたくしは貴方をお止めせねばならぬのです」
「私の気持ちなど、お前には判らないわ」
「判りたくもありません」
 きっぱりと否定して、ディアナは声高く、宣言を持って姉王女を制した。
「王女であれば願わなければならないのは、自分の幸せではなく、国の安寧。その為に全てを投げ出せとは言わぬが、自ら混乱を起こすとなれば、論外。それすらも判らぬ義姉上に、王女たる資格はありません」
「――では何故、私は王女なの!」
 手にしていた剣を床に叩きつけて、エレンハーツはついに、一筋の涙をこぼした。
「王宮に生まれ、体の弱さから外に出ることもなく、お父様が亡くなられてからは離宮に隔離され、何をすることも許されず、――私は、何のために生きているの!」
「……」
「ディオネルだけだったわ。あの子がいつも、私を気に掛けてくれた。全てから忘れられ、王女として見られながら、その数には入れられないような状況の中で、あの子だけは来てくれた! 私が安心できるようにって、ヒュブラもくれたのよ、自分の陣営に置いておけば、力になるはずなのに」
 それは違う、とディアナは直感でそう思った。ディオネルは、エレンハーツを心配して、ヒュブラを与えたのではない。内々に仕事をさせるために、隠れ蓑として少し離れた場所に置いたのだ。護衛の相手が、ただでさえ外出などせず大人しくしてるエレンハーツなら、幾らでも二重生活を送る時間くらいは作れよう。
 短く息を吐き、ディアナは頭振った。考えれば裏のある事柄も、エレンハーツには幸せな思い出なのだ。この期に及んで、否定することもあるまい。
「内乱で、王位を得たのはあの子だったわ」
 ディアナの胸中を知らず、エレンハーツは言葉を重ねる。
「反逆者というなら、ハインセックの方よ。二度も内乱を起こして、多くの死を与えたのは、あの男だわ」
「……そうですな。もしか、ディオネル義兄上がエルスランツの軍勢に勝っておれば、時代はそう流れたやもしれませぬ」
 ディアナは、真っ直ぐにエレンハーツを見つめた。
「しかし、勝利なさったのは陛下です。陛下は、己の理想を掲げ過ちを糾弾し、陣頭に立ち、その時その現場で戦われた。それもまた、違えようもない現実です。あなたのなさったこととは、わけが違う。それはわたくしが、この昔語りをする前に、申し上げたとおりに」
「!」
「どのような境遇に生まれようと、自分の生き方を決めるのは自分自身です。義姉上は、幼かったわたくしが逃げ出したのと同じ事をなさるおつもりか。振り払っても目を閉じても、常につきまとうのが現実です。それだけは、何をどう足掻こうと、覆しようのない事実です」
 すらり、と慣れた仕草で、ディアナは腰の剣を抜き払う。
「あなたがこれ以上罪を重ねるとおっしゃるなら、わたくしは全力で、お止めいたします」
 低い声に、エレンハーツはびくりと体を震わせた。そうして、凍り付いたように動きを止める。
 ディアナの剣は、エレンハーツの手にあるものよりも遙かに実用性高く、握る方の手にも迷いはない。さりげなく扉の前に陣取っていたディアナは、肩幅に足を開き、背筋を伸ばしてエレンハーツを眺めやった。
 長い沈黙。否、それは体感によるもので、実際は数分であったのかも知れない。
 やがて、エレンハーツの方が、紅唇を動かした。力尽きたように肩を落とし、額を手で押さえて呻く。
「わたくしの味方でないというなら、……何故、離宮で私の方を選んだの?」
 嵐の中を、単独で駆けてきたディアナの目的が、エレンハーツになかったことは、あの場で明らかになっていたことだ。
「同情したのかしら? グリンセス公に裏切られ、逃げればヒュブラに攻撃され――」
「あの場に、ヒュブラが来ておったのですか」
「そうよ、――そう、あの男!」
 エレンハーツの、どこか調子の狂った目が、妙な光を持ってディアナを見つめくる。
「魔物をけしかけてやったわ! それから、魔物を使って逃げたわ。そこで、あなたが助けてくれた。……ねぇ、あなたは私を選んでくれた。そうでしょう!?」
 ギリギリのところで正気を保っている、その心を思い、ディアナは嘆息する。だが、ここで慰めに優しい嘘をついたところで、何の為にも――誰の為にもならないだろう。頭振ったディアナは、哀しげに、しかしはっきりと言葉を口にした。
「選びなど、しておりません」
「なに……」
「はじめから、あなたを保護することは選択肢には入れていなかった。あくまで、アリアを安全な方に向けるにはどうすればいいか、を考えておりましたよ。果たして、今すぐにでも助けに向かった方がよいか、あなたの意思に従う方が賢明か」
「……どういうこと」
「結局、義姉上をここにお連れしたのは――あなたを選ばなかった場合、積極的に殺す意図の無かったアリアを、反対に殺す羽目になるかも知れないと考えたのですよ。わたくしにまで裏切られたと、逆上したあなたが魔物に命ずる可能性を考えて、ということです」
 はっきりとした、誤解しようのない言葉に、エレンハーツは目をきつく吊り上げた。
「アリアは――あなたが小汚いと評した侍女、あれは先ほど話した少女です」
「!」
「命に賭けて彼が守った約束です。わたくしは、出来うる限りの手を使って、あの子を、死んだ兄の代わりに守ることを誓いました。あの子が生きて、自らの病と闘おうとするなら、わたくしは全力で支援する。誰にも、邪魔立てなどさせませぬ」
 言い切ったディアナを見つめ、エレンハーツは唇を戦慄かせた。
 そうして、歪められる、口元。
「――そう、そうなのね!」
 突然の哄笑。
「そう、はじめから! ――はじめから、誰も! 私のことなど、どうでも良かったのね!」
「義姉上、それは」
「今更、何を言うつもり!?」
 見開かれた目に、ディアナは言葉を失った。繋がる血は薄くとも、ディアナにとってエレンハーツは、姉には違いない。故に彼女自らが過ちに気付き、改めるように願っていた。罪人扱いで、追い詰めたかったわけではない。
(わたくしでは、力不足だったということか……)
 口元を引き結ぶディアナの眼前で、エレンハーツはゆっくりと腕を上げた。そうして、何かを導くように、窓の外へ乞う。
「死んで、頂戴」
 言うや、窓硝子に無数のひび割れが生じる。そうと認めた次の瞬間には、鈍い、濁音だらけの音を立てて、硝子が砕け散った。バラバラと、幾つかの欠片が室内にこぼれ落ちる。
 身構えるディアナの目の先、窓の外に、突如、黒々とした影が現れた。物語にある翼竜のような形の何かが羽ばたき、宙に浮いている。その動きの険呑さに比べ、風圧は、殆ど無い。僅かに、エレンハーツの髪が揺れるのみだ。
(――魔物)
 さすがに、ディアナは一歩後退った。それを見て、エレンハーツは嗤う。
「良いことを教えて上げる」
 奇妙に歪んだ顔が、ディアナを見つめた。
「あなたの大切な侍女、死んでいるわよ」
「何……」
「あの子を攻撃したのは、ヒュブラよ。助かりっこないわ。あの時、どうなったか知らないと言ったのは嘘よ」
「あなたは、それを見ていたとおっしゃるのか」
「そうよ」
 頷き、エレンハーツは窓枠に残っていた、細かい硝子の破片を握りしめた。
「――莫迦な子! たいした力も持たない癖に、私を助けるって言って、ひとりで空回りして、その挙げ句に死んだのでは、浮かばれないわね!」
 極限を振り切るような高い調子の声に、扉を叩く音が重なる。
「ディアナ様、――音が。何かございましたか!?」
 レンの声だった。廊下を走る軍靴の音も響く。王女が滞在する一室の外に魔物が現れ、窓が砕け散ったのだ。当たり障り無く接してくる騎士団の者も、慌ててやってこよう。
 ディアナは魔法式を口にして、扉を開かないように固定した。
「何でもない。大丈夫だ。それよりも、外に気を配れ!」
「ディアナ様!? 扉が……っ」
「よい、気にするな。入ってきてはならぬ!」
 鋭い声で言い切り、ディアナは一歩、退いた分の距離を戻した。何度か深呼吸を繰り返し、扉の外が静かになるのを待って、再びエレンハーツに問いかける。
「確かに、死んだところを見たのですか」
 努めて、冷静にかけた声に、エレンハーツは言葉を詰まらせた。


[]  [目次]  []