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「確かめていないとおっしゃるなら、わたくしはまだ、あの子が生きていると、考えざるを得ませぬ」
「死んだに決まっているわ!」
「あなたとは違う。どういう状況であれ、あの子は生きることに全力を尽くす。少しでも余地があるのなら、あの子は戦います。戦うことを、知っています」
 エレンハーツは、唇を噛み締めた。あやふやな情報でディアナを傷つけることが出来ると思う、その考えこそが痛ましい。縋るでもなく甘えるでもなく、ただ信じるという感情を、彼女は知らないのだろう。
 ディアナは、ふと、ある事に気付き、エレンハーツに問いかけた。
「どういう状況で、アリアに会ったのでしょう? 全く異なる場所に隔離されていると思っておりましたが」
「あの子が何故あの場所まで来ていたかなんて、知らないわ」
「あの場所、とは?」
「私の部屋よ。焦ったわ。誰もいないと思っていたのに、あの子が来るんですもの。慌てて魔物に襲われている振りをしたら、莫迦みたいに簡単に信じ込んで、必死で魔物を追い払っていたわ」
「義姉上を助けようと?」
「そうみたいね。演技に全く気付かないで、莫迦な子」
「――そう、判っていなかった」
 目を眇め、ディアナは窓の外の魔物を睨む。
「魔物の脅威を知っているにも関わらず、屈強な肉体を持っているわけでもないのに、自分だけ、逃げようとはしなかった」
「!」
「違いますか?」
 ディアナの胸には、確信がある。アリアは、恐怖を理由に、自分だけが助かろうとは考えない。必ず、一緒に助かろうと、その道を選び、努力する。
「本来、あの子には、あなたを護る義務など、ないはずなのに、ですよ?」
 真っ直ぐに見つめ遣るディアナとは対照的に、エレンハーツは忙しなく目を彷徨わせた。彼女の中で、気付かなかった事実が、広がっているのだろう。
 しばしの沈黙。やがてエレンハーツは、ぽつりと言葉をこぼした。
「――逃げな、かったわ」
 口にして、初めて事実を確認したかのように、奥歯を噛み締める。
「怯えた顔を、していたのに……」
「……ええ」
「私が魔物を操ってるなんて知らない癖に、足手まといになるのが判っていて、一緒に逃げようと、道を、選んで……」
 声から、力が消える。
「魔物を、けしかけたわ。邪魔だったんですもの。私一人なら幾らでも離宮から出ることが出来たのにって。魔物を見れば、置いて逃げると、……思ったのよ」
 アリアには、常人にはない力がある。ひとりでなら逃げられたというのなら、それはむしろアリアの方であっただろう。だがそれは、エレンハーツに言う必要のないことである。
 間を空けたエレンハーツの言葉を継いで、ディアナは予測を口にした。
「だが、そうはならなかった。あの子は、立ち向かったであろう……?」
「ヒュブラは、私のために、あの子を殺すと言っていたわ」
 突然、言葉が飛んだのは、内に生まれた感情を、押さえつけるためだったのだろう。
「誰も知るはずのない魔法を掛けた扉に反応してたからって。どういうことか判らなかったから、問い詰めたら、ヒュブラは、私まで攻撃してきた。だから、魔物を呼んで」
 早口に言い切り、そしてふと言葉を止め、ゆっくりと、エレンハーツは頭振った。
「……あの子を置いて、助ける事なんて考えずに、私は、……逃げたわ」
 俯き、唇を噛む。ディアナには、彼女の持つ、確かな美点が辛かった。
 エレンハーツはけして、王族なのだから助けられて当然とは、思っていないのだ。人を使うことに慣れ、仕える者に労働を与えることに頓着はせずとも、感謝する気持ちは持っている。己の境遇に悲嘆し、道を歪めなければ、王家の姫として、立派に立つことが出来ていただろう。
 ――だがそれは、あくまで過去の時点での、可能性の話だった。彼女はもう、引き返せないところまで来てしまっている。
 そしてそれは、エレンハーツ自身も、理解していることだった。今となって何に気付こうとも、既に起こったことを変えることは出来ないのだ。
 吹き抜けとなった窓から、冷たい風が吹き抜ける。それに押されたように、エレンハーツは顔を上げた。
「ディアナ」
 無言で、ディアナは彼女を見つめ遣る。
「私は、謝らないわ」
 強ばった、しかしどこか泣き笑いにも似た表情で、エレンハーツは一歩、窓際へと後退した。魔物がそれに反応し、首をもたげてひと声唸る。
 喉を鳴らし、ディアナは剣を構えた。
「後悔なんて、していない。ただ、悔しい」
「義姉上」
「一番の裏切り者を、ディオネルを、誠に死に追いやった者を、のさばらせてしまった自分が悔しい。でも、私はここまでだから――」
「義姉上!」
 エレンハーツが、腕を振るう。反射的に身構えるディアナ。
 しかし、予想した衝撃は訪れなかった。代わりに、魔物が背景から消え失せる。
 その瞬間――否、同時に、エレンハーツの体が、宙に翻った。
「義姉上!!」
 駆け寄り、ディアナは手を伸ばす。しかし、完全に出遅れたのは、自分でもよく判っていた。
 指先は虚しく空を掴み、淡い色をした服の残像が、見開いた両眼に焼き付けられる。

「ヒュブラを、殺して」

 落ち行くエレンハーツの、聞こえるはずのない言葉が、ディアナの鼓膜を叩く。強い、呪いにも似た、静かな声。
 窓枠に手を掛けて、ディアナは、エレンハーツの体が地面に叩きつけられるのを、ただ茫然と眺めやった。遙か下で、動かない体から放射状に血が飛び散っている。
「ディアナ様!」
 集中が途切れ、魔法効果が消失したのだろう。叩き割らんばかりの勢いで扉を開けたレンは、放心したディアナの肩を強く揺さぶった。
「ディアナ様、おけがはございませんか!?」
 ゆっくりと振り返ったディアナを見て、レンはほっとしたように息を吐いた。
「何があったのでしょうか」
「いや……」
 言葉を濁しかけ、ディアナは頭振る。
「義姉上が、決着をつけられたのだ」
 ディアナの願った形ではなかったが、彼女は彼女なりのけじめを付けたのだ。絶望からくる逃避ではなく、最期の最期で――憎んできた相手と、自分もまたさほど変わらぬのだと気付いたのだろう。故に彼女は、己の過ちを精算した。
 彼女の罪がそれで消えることはなく、償い切れるものでないといえ、ディアナがそれを、いい加減に濁すのは失礼に当たるだろう。
 首を傾げたレンの頭に、ディアナは掌を落とした。レンは、訝しげに彼女を見遣る。
「終わった、ということですか?」
 裏で、全ての情報を集めていたレンにも、思うところはあるのだろう。表情無く割れた窓の外を見つめ、静かに訊ねくる。
「いや、あと一幕、残っている」
 窓の下、ざわめきを背に、ディアナは立ち上がった。
「行こう。――わたくしの役目は終えたが、最後まで見届ける義務がある」
 おそらくそこに、全てが収束するだろう。
 確信を胸に、ディアナは毅然と顔を上げた。

 *

 同刻、コートリア騎士団領内――。
 何重もの壁に遮られた牢の中で、ひとつの異変が起きた。中に閉じこめられているのは、滅することの出来なかった魔物。その監視の任に当たっていた騎士は、ふと違和感を覚え、交替の時間を前に牢の近くへと足を踏み入れた。
 いつものように静かだと思い、しかし不安が拭いきれずに眉根を寄せる。寡黙な同僚と入れ違いになるとき、陰鬱な気分になるのは常だが、今はそれ以上の胸騒ぎが押し寄せていた。
「おい――……」
 角を曲がり、呼びかける。返事がないのもいつもの通りだったが、今日は、少し様子が違っていた。
 臭いが、する。慣れそうで慣れない、生臭さと鉄錆の金臭さが混じった、独特の臭いが奥の方から漂ってきた。
「まさか」
 予感を確信に変え、騎士は牢へと向かう足を速めた。
「おい、返事をしろ!」
 槍を構え、走りながら仲間を呼ぶ。しかし、それに応える声はない。
「何が、――!」
 ぞわり、と背筋を何かが這い上がる。
 その衝動に足を止め、薄暗い奥に目を凝らせば、そこに蹲る影を見つけた。地面に倒れ伏す影の、何倍もの大きさのそれに、目が釘付けとなる。
「あ……」
 構えた槍先が、小刻みに震える。影は、低く唸った。
「ああっ……!」
 咄嗟に、騎士は懐を探った。極度の緊張の中、強ばった手でそれを成し得たのは、平常時からの訓練の賜だったのだろう。反射とも取れる反応で、騎士は取りだした笛を唇に当てる。
(誰か、来てくれ――!)
 歯の根も合わぬ状態のまま、騎士は、必死で大きく息を吸い込んだ。


「何事ですかな?」
 ふと響いた高い音に、エルスランツ騎士団大隊長は眉を顰めながら顔を上げた。同じく訝しげに眉間に皺を寄せ、ウルラは耳に意識を集中させる。
 そこへ再び、風を切るような音が響く。
「あれは――緊急の応援要請です。何事か、生じたようです」
「見に行きましょう」
 言うや、立ち上がった大隊長に後れを取るものかと、控えていた騎士が駆けていく。あれこれと判りもしないことを詮議せず、急ぎ行動に移ることの出来る速さは、これまでのコートリアにはなかったものだ。騎士団内の独断で団長を軟禁するという異例の事態の中、他騎士団から応援に寄越された騎士の影響は、よい意味で浸透しつつあった。


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