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 (二十)

 遙か東、コートリアまで伝わった離宮炎上の報は、その時点では、正確に言えば誤報であった。ただし、周辺の人間がそうと間違えても仕方がないほどに、離宮の一帯は異様な熱気に包まれていた。
 陽炎のように揺れる大気、まるで本物のように離宮を取り巻く幻の炎。
 近隣の村の者がこぞって避難する中、離宮の一室で、ひとりの男が目を覚ました。一声唸り、額に手を当てて何度も頭振る。
「――くそ」
 普段の冷静さ、そして紳士的な態度をかなぐり捨てて、ひたすらに罵る様は、周囲の状況に負けず劣らず常軌を逸していた。
「あの――若造がっ」
 思い出して、奥歯を噛み締める。数日間の治療で肉体の傷は消え失せていたが、心の傷の方は遙かに根深かった。――もともと、その為に道を踏み外したようなものである。
 男、ヒュブラは苛立たしげに立ち上がり、周囲の状況を見回した。宮の中には異常な熱が籠もり、ひと動作ごとに汗が流れるような状態であったが、彼には予想の内であったらしい。休む前との差違にさして驚いた様子もなく――むしろ満足そうに、先ほどまででの怒りを忘れたかのように、薄い笑みを口元に刻み込んだ。
 しばし思案した後、椅子に掛けていた上着を羽織り、ヒュブラは部屋を後にした。熱により、廊下に散らばる遺体の腐敗も急速に進んだのだろう。怖気立つような不快な臭気が蔓延している。常人であれば一目散に逃げ出すであろう道を悠然と歩き、時折出現する小さな炎を好ましげにすら眺めて進む。
 やがて辿り着いた部屋の前で、ヒュブラはふと眉根を寄せた。封印を施しておいた扉自体に異常はない。もともと、常人の目には映らないように仕掛けてあった場所である。通路に惨状に比べると、おかしな程にその周辺は汚泥から免れていた。
 だが問題は、見た目の話ではない。その扉の内側、だだ広い部屋の中に魔法で縛り付けていた魔物の気配が、奇妙なほどに消え失せている。
「まさか」
 勢い付けて、蹴るように扉を押し開く。踏み込んだ室内、そこに累々と横たわる獣の姿を見つけ、ヒュブラは体を強ばらせた。どの肉体にも、動く様子はない。すでに抜け殻と化しているようだった。
(魔物が抜けたか)
 獣の遺体に取り憑くよう、魔物に命じたのは、無論エレンハーツである。その制御が解かれ、ただでさえ力を弱めていた魔物は拠り所を失い、魔力を拡散させて消えたのだろう。他に、獣に入れずに止め置かれていた魔物も、姿を消している。
 魔物が解放された。それの示すところ、考え得る事はふたつ。エレンハーツが自ら魔物との契約を切ったか、或いは、彼女の死と共に束縛が消えたか、である。
 おそらくは、後者だろう。武力を持たない彼女が身を守る術として使えるのは、魔物しかないからだ。離宮で表向き静かに暮らしていた頃ならばともかくも、争乱に身を投じた彼女が、自ら身の回りを無防備にするはずがない。
(惜しいことをした)
 先天的に生まれ持ったそれに比べれば、遙かに劣化した力に過ぎなかったが、聖眼の力は思った以上に強力だったのだ。実験段階にしては、良くできた方だったのかも知れない。
 その時、カタリ、と奥の方で音が鳴った。
「……ああ」
 思い出したように、ヒュブラは薄く嗤う。
「お前は、さすがに残っていたようだな。――束縛を解かれても還れんか」
 もぞり、と立ち上がる姿は奇妙なことに、異形ではなく、人のそれだった。幽鬼のようにふらりと歩き、口から青白い炎を吐く。
 それが切っ掛けであったか、後に数体、同じ様な風体のものが、闇の中から身を起こした。もともとは仕立ても良かったであろう衣服は無惨にも汚れ、裂けた袖口を引きずるように垂らしているものも居る。それらは連なるように進み、ヒュブラの前で立ち止まった。
 腐敗した肉体の奥、爛れた臓器から、腐臭と共に怨嗟の音が鳴る。他の獣とは違い、明らかに意志を持って動いているその様に、ヒュブラですら人間の持つ業を感じた。入り込んだ魔物すら取り込んで結びつけてしまうほどに、人の思いは強いものか。
「ふん……生ある者が、憎いか」
 或いは、生きながらにして魔物を体に入れられた、その影響かもしれないと思い、やはり聖眼は惜しかったと独りごちる。それでいて、自らその特殊能力を得ようとしないところに、この男の狡猾さが潜んでいるようだった。
「面白い。お前達を使い捨てにした奴らのところへ、運んでやる。――せいぜい、奴らに呪いを吐いてやることだ」
 嗤い、魔力を投じて誘導する。ぞろぞろと、濃い魔力に惹かれるように進む、人とも屍とも、また魔物とも言えぬそれらをヒュブラは満足げに眺めた。放っておけば、移動した先で狂宴を繰り広げてくれるだろう。
 見送り、ヒュブラは額の汗を拭った。
「あと少し、か」
 いよいよ暑さを増す宮殿内を見回し、ヒュブラは口端を曲げた。数時間後に訪れるその時を思うと、気分は自然と昂ぶっていく。
 ――鬱屈をしばし忘れるには丁度良い。
 それまで、余興を楽しむのも悪くないと思い直し、ヒュブラは室内を後にした。

 *

 アリア、と声がする。
 僅かに浮上した意識の中、アリアは死んだ兄の声を耳に聞いていた。生きて、と少年の高い声が脳裏にこだまする。
(ああ……)
 見下ろす兄に触れようと、必死に伸ばした手は、虚しく宙を掻いた。陽炎のように消えていく、静かな兄の顔。涙に滲んだ視界のせいかと思い、腕で瞼を拭う。
(違う)
 眦を伝い、髪に染みていく雫を感じ、アリアは何度も瞬いた。あの時、のぞき込んでいたのは自分の方だ。兄は、起き上がる気力もなく倒れ伏していた。
 ならば今は、と思い、大きく息を吸う。
「――アリアさん!」
 悲鳴に近い声に耳を疑えば、意識は自然と覚醒していった。
「アリアさん、――良かった!」
「……?」
 聞いたことのある声だとぼんやり思い、ゆっくりと身を起こせば、強ばった体に激痛が走った。咄嗟に屈み、低く呻く。
「アリアさん、判ります? ああ、無理はなさらないで!」
「……ヴェロナ、さん?」
 再び聞こえた声に眉根を寄せ、アリアはおそるおそる、周りを見回した。
 酷く熱気の籠もった、薄暗い空間。むき出しの土壁と石の床、陰鬱な雰囲気に拍車をかける鉄格子の檻が並ぶ。わずかに頭を巡らせば、見たことのある簡素な階段が、文様を描いた扉へと繋がっていた。黴臭さに腐臭の混じった、独特の臭気にも、覚えがある。
 まさか、とアリアは自分の感覚を疑った。しかし、相違点を探そうと見回せば見回すほど、類似点ばかり見つかる始末である。異常な暑さを除けば、以前見た光景と殆ど変わりない。
「何で……」
 呟き、記憶を探る。自分は離宮にいたはずだと思い、順を追って思い返す内に、アリアは目を見開いた。そう時間がかからなかったのは、それがあまりにも印象的だったからだろう。
 おそるおそる、階段の上の扉に目を遣ったアリアは、予想通りのものを見つけ、短く嘆息をもらした。同じだと思い、項垂れる。そこに描かれていた文様、魔法式を含んだ装飾は、明らかに離宮で気を失う前に見たものと同じだったのだ。もっとも、同じ封をされた違う扉という考えもあるが、確率は低いだろう。エレンハーツに誘導され潜った地下の通路、その壁の材質は、以前アリアが迷い込んだ地下通路と酷似していたのだ。
(そうか、離宮だったんだ……)
 建物の古さを思えば、納得も出来る。だが、とアリアは鈍く痛む頭を緩く振った。
「ヴェロナさん、なんでここに?」
「そ、――それは、私の科白ですわ!」
 安堵にか、幾分興奮した様子のヴェロナに、アリアは苦笑を向ける。その様子では、ヴェロナは自分がどこにいるのかも知らないのだろう。
 これまでの経緯を話そうかと迷い、改めてヴェロナに向き直ったアリアは、そこで初めて、自分がただ床に転がされていただけということに気がついた。凝り固まったように体は言うことを聞かないが、それにしても、別段縛られているわけでもない。牢の中に閉じこめられているヴェロナを思えば、放置されていることにこそ違和感を感じた。
 懐剣は抜き取られているが、他に探られた様子もない。訝しく思いながらも体の内面に意識を集中させ、アリアは更に首を捻る羽目になった。
(魔力が補充されてる?)
 エレンハーツを逃がすために連発した魔法のせいで、そろそろ残量が心許なくなっていたというのに、何故か今は、驚くほどに満ち足りている。魔力不足がいよいよ危機に直面したときには、意識外に自然界から集めてしまうこともあるが、こうまで必要以上に吸い取るということはない。
 気を失っている間に何が起きたのか――。
 先に、ヴェロナに自分が運ばれてきたときの状況を確認しようと顔を上げ、そうしてアリアは、ふともうひとつ、牢の中に蠢く影あることに気がついた。
「あれは……」
 血にまみれた、黒髪が見える。ひどく汚れてはいるが、生ける屍のそれとは違うことを認め、アリアはゆっくりと立ち上がった。軋む音がしそうな程強ばってはいるが、歩く分には問題もなさそうである。
「アリアさん、――駄目っ」
 ヴェロナの制止の声に、首を曲げる。
「危ない、から……!」
「でも」
 明らかに、人である。荒い息づかいは如何にも苦しげで、強く作られた拳は、何かに耐えるように震えている。かなりの大怪我をしているようだが、体力が残っているならば、治癒魔法が使えるだろう。
 ヴェロナの、揺れる目を振り切り、アリアは向かいの牢の前にしゃがみ込んだ。
「あの……傷口とか、治しましょうか?」
 大丈夫かなどと訊ねるのは、愚問に近い。
「血まみれですし、傷口だけでも塞いだ方がいいと思うんですが」
「……た」
「え?」
「……あんた、なん、で、効いて、ないん、だ」
 途切れ途切れに吐かれたその言葉に、アリアは瞠目した。聞かれた内容ではない、問題は、その声だった。
「――アッシュ、さん?」
 返事の代わりに、頭が僅かに揺れる。
「なんで、こんな大怪我を……」
「俺のことは、……」
「アリアさん、逃げて!」
 言いかけたアッシュの声を遮るように、ヴェロナの悲鳴が響く。


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