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「その人、怪我なんてしてないわ。だから……!」
 でも、とアリアはアッシュに目を落とす。生乾きの血が床を塗らし、握りしめる拳にも赤黒くこべりついた跡がある。牢の中にアッシュしか居ない以上、これは彼の流したものに違いないだろう。怪我をしていないどころか、生死に関わる大怪我だ。
「本当よ、だって、怪我をしたって、すぐに治ってしまうんだから!」
 その言葉にぎよっとして、アリアはヴェロナに振り返った。蒼褪めた顔と、恐慌寸前の状態に見開かれた目が、嘘を言っているわけではないと如実に語る。
 化け物、と声にならない叫びが、アリアの脳裏に響いた。
「アッシュさん……」
 アリアの声に、アッシュはちらりと目を向けた。そのまま、渾身の力を振り絞るように、小刻みに震える腕を支えに身を起こす。
「……っ」
 顕わになった腹部に、引き裂かれた衣服。どす黒く染まったその下、覗く素肌には何の傷もない。だが、凝固した血の固まり、それの流れた跡は、かつてそこに確かな傷があったことを示す。
 緩慢な動きで髪を掻き上げると、指の隙間からボロボロと、かさぶたのようなものが崩れ落ちた。
「――本当、の、ことだ」
 言い、アッシュはおもむろに鉄の棒を取り上げた。牢の一部が折れたものを見られるそれは、片方の先が鋭く切り立っている。
 何をする気かと眉根を寄せるアリアの背を、ヴェロナの引き攣った悲鳴が叩く。しかし、それに気を取られる暇もあらば――。
「アッシュさん!?」
 アリアの叫びと、ヴェロナの細い悲鳴が二重奏のように響く。
 どこにそんな力があったのか。突然、アッシュは自らの腹に、勢いを付けて鉄の棒を突き立てたのだ。
「な……、何を、やってるんですか!」
 躊躇いもない自傷行為に、アリアは慌てて鉄格子を揺さぶった。苦しげな息をもらし、身を屈めながらもアッシュは彼女の方へ目を向ける。そうして、再び勢いを付けて、腹を串刺しにしていた鉄の棒を一気に抜き捨てた。
 莫迦な、とアリアは手を伸ばす。軍人であるアッシュが知らぬわけでもあるまいに、あれでは出血量を増大させてしまう。
「ちょ、待って、今、治――」
「いらん」
 きっぱりと、先ほどよりも強い声で言い切ったアッシュは、額を手で押さえつつ、壁に身を預けた。いっそ無造作とも言うべき動作に焦ったのは、むしろアリアの方であっただろう。勢いよく流れる血を目の当たりにし、アリアは反射的に魔法式を口にした。
 だが。
「……傷が」
 式の途中で、アリアは茫然と呟いた。目の前にある光景が信じられないように、目を丸くして凝視する。アッシュの傷は、ヴェロナがそう告げたように、瞬く間に肉芽を盛り、塞がっていった。魔法使いが治癒力に優れているとは言え、これはあまりにも規格外な早さである。
 そうして、数分と経たずに綺麗に元に戻った皮膚を見て、アリアは深呼吸を繰り返した。
「私に、……見せるために、わざと?」
 掠れた声に、アッシュは短く頷いてみせる。随分とやつれ、無精髭も伸びきっているが、相変わらず、目だけは憎たらしいほどに落ち着いていた。何かに自棄になっているわけでもなく、計算した上での行為だと、アリアとしては、いやがうえにも悟らざるを得ない。
 そう思えば、自然に怒りが湧く。
「莫迦じゃないですか」
「なに?」
「何、莫迦なことやってんですか、って言ってるんです」
 眉根を寄せるアッシュを、アリアは睨みつける。
「どんな回復力があるのかは判りましたけど、だからって、痛みがないわけじゃ、ないでしょうが!」
「まぁ、それは」
「あなたの体がどういう仕組みでそうなっているのかは判りませんけど、自虐にも程があります! 見ている方が辛いこともあるって、ちょっとは自覚して下さい!」
 その剣幕に押されたのか、アッシュは心持ち顎を引いたようだった。
 アリアには、彼が化け物だとは思えない。何故というなら、答えは単純である。――アリア自身が、通常人が持ち得ない力を持っているからだ。アッシュを、その治癒能力をして化け物というなら、自分はそれ以上のものだという自覚がある。彼の力は、少なくとも積極的に人を害することはないが、アリアのそれは、一歩間違えば、最も恐ろしい凶器となるのだ。どちらが人から忌避されるべき力かは、比べるまでもない。
 故に、アリアはアッシュのことを、怖いとも思わなかった。ただ、自らを蔑む行動が、鏡を見ているようで、痛い。
「――悪い」
 ぽつり、とアッシュは謝罪を口にした。アリアは、口を引き結んだまま首を横に振る。
「なるべく、あんたたちの前では、しない。だけど、教えてくれ。――あんたは、なんともないのか?」
「どれを指して、聞いてます?」
 自分が気持ち悪くないのかと、そう聞いていたのなら、アリアは手を出していたかも知れない。だが、双方にとって幸いなことに、アッシュの質問は、それとは全く別の話だった。
「体の調子、だ」
「調子、ですか? それは、勿論筋肉痛みたいに体ミシミシ言ってますけど、特に、なんともないです」
「魔法は、使えるのか?」
 訊ねられて、一応のように確認をする。不思議なほど魔力に満ちている他はさして変わったところもなく、初歩的な魔法式も、特に問題なく発動した。
 アリアの指先に小さな光が灯るのを見て、アッシュは驚いたように目を見張る。
「失敗……? いや、まさか……」
 効いていたはずだ、と彼は掠れた声で呟いた。
「あんた、沈黙の魔法をかけられたはずだ。確かに発動した。現に、意識を失ってもう何日も経つ」
「え?」
「そうですよ、アリアさん!」
 後ろから、ヴェロナも大きく肯定の声を上げる。多少努力して、のようではあるが、落ち着きを取り戻したようであった。反対に、戸惑ったのはアリアである。
「え……でも、本当にどうということもないですし」
「ずっと、意識なかったんですよ。死んでしまわれたのかと思ったくらい」
 真剣な目にたじろぎつつ、アリアは己の身に起こったことを考えた。
 アッシュの証言によれば、アリアは彼と同じく、黒いローブの男に「沈黙の魔法」をかけられた。およそ回避不可能と思われるそれが、完全に効力を発揮していたことは、術を掛けられたときの状況からして、まず間違いない。そして、ヴェロナの見ていたアリアは、長い間仮死状態のように微動だにせず、横たわっていた。動き始めた当初も、ひどく苦しんでいたという。
 おそらく、考えられることはひとつ。
(私の力の方が、勝ったんだ)
 アリアの体内に直接効力を及ぼした魔法は、忌避すべき特殊な力によって、根源たる魔力を逆に吸収されてしまった。それが今、アリアの中で使用可能な魔力と変換され、息づいているのだろう。
 自分の中では腑に落ちたものの、説明の出来る話ではない。
「なんで助かったのか、私にも判りませんけど……、でも、これで、逃げ出せます」
 言うや、それ以上の問答を断つように、アリアは両手を水平位置に構えた。
「牢の鉄柵を切ります。大丈夫だとは思いますが、少し離れていて下さい」
 ヴェロナは牢の端に寄っていったが、アッシュの方は動く様子もなかった。起き上がってはいるものの、暗がりにもはっきりと判るほど、顔色が悪い。大量に血を失っているから、というわけではなさそうである。
(沈黙の魔法の影響……?)
 元来、肉体的にも頑強なはずのアッシュを、ここまで弱らせたのがそれであるとすれば、相当にタチの悪い魔法だと言わざるを得ない。それをこの世に出したのは研究の一環だったとしても、作ったこと自体に、拭いきれない悪意が根底に存在するようにすら思えてくる。
 だが、明らかに害あるものと判っていても捨てきれないのが、また人間という生物なのだろう。丁度、忌避すべき力を持ちながらも、生きることに執着するアリアのように。
(違う)
 アリアは強く頭振った。そうして、魔法式の詠唱に意識を集中させる。今やることは考えることではない、ここから三人で脱出することだ。
 アリアの手に、圧縮された風の力がこもる。沈黙の魔法の使い手は、相当に質の良い魔力を持っているのだろう。イメージした以上に力強い波動が、掌から鼓動のように伝わった。
「伏せて下さい!」
 大気すらも切り裂くような、鋭い風の刃が鉄の柵を襲う。立て続けに高い音が鳴り響き、それに少し遅れて土煙が舞い上がった。
 続く第二波。今度はカンマ何秒の差を置いて、もうひとつ魔法式を発動させる。切断された鉄の棒が、一斉に地面に落ちたときの衝撃と音を考えて、空気で緩衝材を作り上げたのだ。それは正確に効力を発揮し、一撃目と同じく耳に痛い金属音を奏でた鉄柵はその後、通常では有り得ないほどゆっくりとした速度で床に落下した。
 目の前が解放されたのを認めて、ヴェロナが歓声を上げる。息を吐き、アリアは彼女に手を差し伸べた。
「歩けますか?」
「ええ。それは大丈夫みたい。ちょっと、お腹が空いてて力は出ないけど」
 安堵した表情のヴェロナに向かって笑い、アリアはアッシュの方へ振り返った。常にある機敏さこそ損なわれているものの、予想外にしっかりした様子で、彼は閉じこめられていた牢の外へ足を下ろしている。だが、表情は苦しそうに、険しい。
 眉間に強く皺を寄せたまま、アッシュはアリアの方を見る。
「ここがどこだか、判るか?」
「……離宮、です」
 ヴェロナが、目を見開く。だが、アッシュの方は、ある程度予測していたのだろう。そうか、と短く呟き、口を閉ざした。
「あそこの扉から、外に出られると思います。ちょっと待ってて下さい」
 幸い、必要以上に衣服を改められてはいないようだった。ギルフォードが導き出した解除呪文を書いた紙が、ポケットにそのまま残っている。
 難解な式ではあるが、それ以上にギルフォードの解答は洗練されていた。ひとつふたつと、組み合わされた式を解いていく毎に、連鎖反応が起こる。その為か、数十分かかると見込んでいた解錠は、思いがけない早さで進んだ。
 長い解除式の後、全体を光らせた扉が、一度だけ小刻みに揺れる。手を当てて確かめ、アリアは階段の下を振り返った。もう、扉に魔法の反応はない。
「行きましょう」
 警戒しながら、扉をゆっくりと押す。鉄で出来たそれは、その場の気温に比例して異様は程の熱を持っていたが、どうにか素手で触れる範囲にはあった。


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