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 開いた隙間から、おそるおそる、顔を出す。その先に見えた通路は、確かに離宮に相違なかった。ただ、アリアが気を失った場所とは異なる様子である。如何にも逃げ道と言わんばかりの地下通路ではなく、奥まったところにある廊下のようだった。
 しん、と静まりかえっていて、辺りは陰鬱に、暗い。それでも薄く廊下を見渡すことができるのは、まだ離宮の魔法装置が生きている証拠だろう。
 既に熱いという域に達した気温のなか、僅かな腐臭が漂っている。
「なんです、これ……」
 さすがに、ヴェロナには嗅ぎ慣れない臭いなのだろう。アッシュが短く答えを返すと、怯えた色は一層強く増した。臭いの元を知っているアリアもまた、浮かび上がった数日前の映像に喉からこみ上げるものを覚える。この暑さがずっと持続していたとすると、屍体の腐敗は倍ほどの速さで進んでいるだろう。
 なるべく、屍体の少ない道をとは思うが、離宮はアリアにも馴染みのない場所、方向感覚は全く当てにならない。かつて離宮に向かう馬車の中で覚えた見取り図を、頭の中で必死に思い出す。
「逃げる当てはあるのか?」
 体が辛いのだろう。額を抑えながら、アッシュが問う。頷いて、アリアはヴェロナにわざと、安心させるように笑う。
「タラントの砦までの道は、だいたい判るから、そっちに行けばいいと思う」
「なら、あんたたちは行け」
 言い捨てるアッシュに、アリアは驚きの目を向けた。
「俺は、――行けない」
「歩けませんか?」
「いや」
 彼には珍しく言い淀み、眉間に強く皺を寄せる。
「やることがある」
「何、言ってんですか。倒れそうなのに」
「判ってる」
「判ってるって――」
 同意を求めるように、アリアはヴェロナを再び見遣る。しかし、その直後にアリアは後悔をした。
 ヴェロナは、アッシュを見ない。気まずそうに、しかしはっきりと強ばった顔を背けている。自然、アリアに縋るように、アッシュからは距離を取っていた。
 複雑な表情のまま、アリアは唇を噛む。ヴェロナの気持ちは判る。暗い牢の中、アッシュが自らを傷つける様を何度も見せられていたのなら、その度に驚異的な回復力を目の当たりにさせられていれば、確かに恐怖も覚えよう。何故アッシュが、自虐的な行為を繰り返していたのかはアリアには判らない。ただけして、ヴェロナを怖がらせたくてやったことではないのだろう。
 頭振り、アリアはアッシュの腕を掴んだ。
「とりあえず、ここを出るまでは一緒しましょう」
「……駄目だ」
 頑な態度に、アリアは眉を顰めた。もともと、何を考えているのか判りにくい男だったが、今はそれに拍車が掛かっている。だが、どう見ても普通ではない状態の彼を、いつ火事になってもおかしくないような場所に置いておけるわけがない。
「でも――」
 押し問答をしている場合ではないと思いつつ、反論を口に仕掛けたアリアの耳が、その音を拾ったのは、運が良かったとしか言いようがないだろう。
 何の音か、考える前に体は動いていた。声が、一瞬遅れて喉を通る。
「伏せて!」
 呼びかけながら、魔法式を口にする。
 壁際に這い蹲った姿勢のまま、アリアは大きく腕を水平に振るった。そこから生まれた魔法の波が、一瞬とも言える速度で突き当たりに到達する。途端、轟音と共に建物の一部が崩落した。
「アリアさん!?」
 塵を吸い込んだのだろう。咳き込みながら、ヴェロナが驚きの声を上げた。アッシュの方は、さすがに状況を察したようで、一旦伏せた身を起こし、牢から持ち出した折れた鉄棒を構えて立つ。アリアもまた、流れ落ちる汗を拭い、目を凝らして正面を睨んだ。
 舞い上がった土煙が落ち着くにつれ、破壊した辺りの様子がはっきりと映り出す。
「――人?」
 薄い煙の奥に見える影に、アリアは眉を顰めた。その大きさ、形からして、人間以外には有り得ない。だが、魔物も徘徊する離宮の中に、何故人が居るのだろうか。
 救援、と楽観的に考える気にはなれなかった。人だとすれば、敵でしか有り得ない。そう思う内に、ふと、腐敗臭が急速にきつくなっていることに気付く。
(まさか)
 戦慄が、体を突き抜ける。人影と、腐敗臭。アリアには、思い当たる存在があった。そうして、違って欲しいと願うときに限って、想像というものは的中してしまうものである。
 天井から落ちる漆喰の欠片を降り積もらせながら、自らの体を引きずり歩くその姿に、ヴェロナは細い悲鳴を上げた。肉が腐り、骨が露出し、内臓であったものが裂けた部分から垂れ下がっている。それでいて、奇妙なほどに迷い無く歩く、人の屍体。
 何故、と思いながらもアリアは身構える。そこにふと、明朗な声が響き渡った。
「――おや、どういうことだ?」
「え……」
 聞き覚えのある声に、アリアは眉根を寄せた。まさか、と思い、頭振る。
 だが、低く絞り出したようなアッシュの呻きが、勘違いではないことを決定した。
「ヒュブラ……」
「どうやって、逃げ出したのか、教えて欲しいところだが」
 フードの奥、鋭く光った目に、アリアははっきりとたじろいだ。
「ああそうか、あなたは魔法院に出入りしていたな……」
 意味ありげに嗤い、ヒュブラと呼ばれた黒いローブの男は、固く拳を作ったようだった。
「あの男が、何か小細工でもしていたか」
「あの、男……?」
 魔法院とくれば、ギルフォードのことだろうか。だが、考えは長く続かなかった。
「くっ」
 短く、アッシュが唸る。黒いローブの男に気を取られている内に、歩く屍体は確実に距離を詰めていた。
 腰にはいた剣を抜き、躊躇いなく振り下ろし来る。ヴェロナを庇い、アリアは数歩後退した。前に出たアッシュが、鉄の棒で剣を受け止める。
 前に戻ったアリアは、使い慣れた風の魔法を連発した。幅の広い風圧を受けて、屍が数体、大きく後ろへ退がる。続けて小さな竜巻を起こし、足下を掬うように低い位置から解き放つ。
 いくつもの魔法が連鎖し、固まって蠢いていた屍の間に突き上げるような突風が巻き起こる。煽られ、再び舞い上がった塵を避けるように、アリアは腕を眼前で交差した。周りの大気を巻き込んだ魔法は、短い吸気の間にも、熱を孕んで喉を灼く。
 咳き込んだアリアの前に、繰り出される剣先。殆ど紙一重で横に避け、倒れ込んだ彼女をアッシュが引き起こす。拍手がくぐもって響いたのは、その直後だった。
「なかなか、やる」
 残る風に、はためくフード。取り払われたその下にあった顔は、間違えようもない。
「本当に、ヒュブラ、さん……」
「また会うとは、思わなかったよ」
 顔つきが違う、とアリアは思った。厳しい中にも、年月を経て円熟した穏やかさをもった、かつてのヒュブラとは明らかに異なる。
 短い間に、彼に変化があったわけではないだろう。皆に見せていた顔が嘘だったのかどうかは判らない。彼は強く自信に満ち、真面目で穏やかで、――同時に、残酷で狡猾だったのだ。そう、アリアは思う。
 何故、と呟いたアリアに、ヒュブラは肩を竦めてアッシュを見つめた。
「願いのために、必要だったのだよ」
「何人もの、無関係の人を殺して、ですか」
「厳しいですね。しかしそれは、私が望んだことじゃない。私の願いの為には殿下の力が必要で、故に私は彼女に協力したに過ぎない。大勢の死を願っていたとすれば、それは私ではなく、彼女の方だ」
 自分の目的ではない、と言いつつも、手を下したのは彼の方だ。あんなに親切に見えたのに、とアリアは頭振る。
「なんで、私にゼフィル式魔法のことを、教えてくれたんですか!?」
「何故か、魔法が作動しなかったからな。いずれ魔法院に話が行くなら、教えてしまった方が、私を信用する人間も増えるだろう?」
「……!」
 アリアは、唇を噛んだ。信用したかどうかはともかく、初対面で少しばかり怪しいと思った以降は、彼を疑っていなかったことは事実である。
 続ける言葉を無くしたアリアの代わりに、アッシュが吐き捨てるように言う。
「――何をどう言おうが、所詮あんたも、目的のために、手段を選ばなかっただけだろう」
「そうだ。お前はよく判っている」
 ヒュブラは、頬を吊り上げる。
「自分のことも、よく判っているだろう。逃げ出すのは構わないが、――もう、遅いんじゃないか?」
「……」
「ああ、アッシュ、お前以外は逃げても良いよ。お前も、自分の巻き添えにさせたと思えば、気分も苦かろう」
 優しげにすら見える目を向けて、ヒュブラは、嗤う。
「まぁ――逃げられるのなら、ね」
「!」
 遮る隙もないほどの、爆風がアリアたちを襲う。吹き飛ばされる途中で、アリアは何層もの空気の膜を後方に放った。床に転がる半瞬前に、それが衝撃を和らげる。
 勢いを持って飛び来る礫に対して防御壁を展開したアリアは、すでに肩で息をしていた。体調は悪くないとはいえ、数日にも及ぶ眠りから目覚めたばかりなのである。体はそのぶん、体力を失っていた。
 今は比較的魔力にも余裕はあるが、使っていけば燃費の悪いアリアのこと、すぐに底をついてしまうだろう。だが、アッシュの魔法が封じられている以上、ヴェロナを守る結界を展開できるのは、今はアリアしか居ない。
 アッシュに魔法が使えれば。そう考え、アリアはふと、眉を顰めた。
 ――アッシュの力をもらえれば。
 沈黙の魔法は、けして、アリアの力のように魔力を根本的に奪う魔法ではない。それはあくまで閉じこめておくもので、つまりアッシュの体の中には、彼の魔力が満ちた状態で残されている。彼も優秀な魔法使いだ。貯蓄量も相当なものだろう。
 アリアは、他のものに宿る魔力を引き出し、自分のものにすることが出来る。アッシュの魔力を奪いつつ戦い続ければ、或いは逃げ出すことも可能であるかも知れない。
 否、それよりも早い方法がある。アリアが、その力を振るえばいいのだ。動く屍は勿論、ヒュブラでさえも太刀打ちできずに一瞬にして死に至らしめることができるだろう。
 そこまで考えて、アリアは大きく頭振った。
(できない。――やっちゃいけない)
 兄の、最期の言葉が戒める。それに、どうみても、通常の魔法とは異なるのだ。それを誤魔化しつつ使う余裕は、今のアリアにはなかった。
 人にあらざるこの力を、知られるわけにはいかない。奇異の目で見つめ来るアッシュとヴェロナを想像して、アリアは身を震わせた。よしんば、アッシュの方は受け入れてくれるかも知れないが、ヴェロナには酷なことだろう。アッシュの治癒力だけでも彼女にとっては化け物の領域だったのだ。
 躊躇い、悩む間にも鋭い剣先がすぐ横を掠めていく。生前の能力が残っているというのなら、この屍のもとは名のある剣士か、職業軍人――騎士だったのだろう。襤褸と化した服も、よく見ればもとはしっかりと縫製された服であったことが窺える。
(マエントから消えた、あの――)
 ティエンシャの兵を装って外交官を殺したとされる、兵達だろうか。そうであるなら、彼らは本質的なところで被害者であったとも言える。


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