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 だが、だからといって容赦する気も、余裕もない。ちらと視線を走らせれば、ヒュブラは腕を組んで、屍の兵たちのするように任せている様子であった。傍観しているようでもあるが、アリア達が逃げようとするならば、牙を剥いてくるに違いない。
 ならば、とアリアは素早く魔法式を口にした。手始めに放射状に風を起こし襲い来る敵を後退させ、その隙に長い式を構築する。横から来る攻撃は、心得たものか、アッシュが的確に払い落として防いでいた。
「っ……」
 自ら生み出した熱に顔を顰めつつ、アリアは腕を大きく旋回させた。
 熱気が渦を巻いて敵を襲う。だが、幾つかの肉片を散らしながらも、それらは動きを鈍らせすらしなかった。
「効いてない……?」
 錆ついた剣をなんとか避け、壁際に後退したものの、アリアは咄嗟に次の手を失い、動揺を身に走らせた。けして、普段のように威力が弱いわけではない。先ほどまでの攻撃は、充分に効いていた。
 おそらくは、魔法による攻撃を緩和させる保護が掛けらたのだろう。
 戦闘能力を持たないヴェロナを庇いつつ、アリアは攻撃を、右に左に受け流す。だが、数日間に衰えた筋肉は、思うようには動いてくれなかった。
「下がってろ」
 怒鳴るように声を絞り出したアッシュが、アリアの前に立ちはだかる。彼の手にはいつの間にか、敵から奪ったものと見られる剣が握られていた。
 苦しそうに荒い息を吐き、息を詰めて剣を振るうさまを見れば、気力だけで持たせていることは明らかだった。だが、剣筋にはひとつの迷いもふらつきも認められない。衰弱していても、彼は一流の剣士だった。
 多少の傷では、生ける屍とも言うべき存在を止めることは出来ないと判断したのだろう。アッシュは主に、完全に四肢体幹を切断して切り離す方向で剣を振るい続けた。
 粘液と腐敗した肉を散らせながら、一体、また一体と敵は数を減らしていく。アリアもまた援護をよくしたが、それが上手く行っていたのは、ヒュブラが黙ってみている間だけだった。
 面白そうに、遠巻きに見ているのにも、飽きたのだろうか。
 ヒュブラは突然、組んでいた腕を解き、魔法式を口にした。身構える暇もあらば、炎の矢がアリア達を襲う。咄嗟に防御壁を展開したものの、精神的な動揺を含んだ魔法は、強固なものにはなり得なかった。
 勢い、吹き飛ばされたアリアは、背を強かに打ち付けて息を詰める。
「アリア!」
 続く第二撃、第三撃をアッシュの剣が弾く。ようやく体勢を立て直したアリアは、思いつく限りの魔法を繰り出した。
 だが、元々の資質に差がありすぎる。単純に、魔法放出レベルだけで言うなら、アリアの方が有利ではあっただろう。だが、使いこなせる魔法の範囲、経験、戦闘のセンス、全てにおいてヒュブラはアリアを凌駕していた。
(駄目だ)
 次第に、アリアは形勢不利なまでに押されていく。アッシュの方も、襲い来る屍の兵を相手にするだけで精一杯という状況にあり、援護は期待できそうにない。ヴェロナはもとより、足手まといにならないようにするのが関の山だろう。牢のあった地下室の方へ下がり、両手を胸の前で組み合わせて祈る。
 集中力の限界、そして霞んでいく視界のなか、アリアは必死で魔法を展開した。だがそれを、ヒュブラは余裕の表情で迎え撃つ。
 このままでは数分後には決着が付く、そう、誰もが思い始めたとき――
 突如、低い轟音と共に、通路の壁が崩れ去った。
「何……!?」
 勢いよく飛来したそれを、ヒュブラはギリギリのところで避けたようだった。だが、余波を受けて崩れてきた壁を前に、体勢を大きく崩す。その隙に、アリアは風の弾をヒュブラに撃ち込んだ。
「小娘っ」
 憎々しげな声に、地響きのような咆吼が被る。はたして、土煙の中から現れたのは、一匹の巨大な魔物だった。滑らかな、しかし確かな厚みと硬さを思わせる皮が、ぬめりを帯びて光っている。爬虫類にも似たそれは、巨大な尾を振り上げて、ヒュブラを追い詰めていた。
「くそっ……」
 さしものヒュブラも、魔物相手には分が悪いようである。突然壁が崩れたために、足場が不安定になっていることも、彼には不都合だっただろう。
 肩で息をして、アリアは呼吸を整える。
「アリア」
 声に顔を上げれば、屍の兵と切り結びながら、アッシュが目を向けていた。
「逃げろ」
 短く、告げる。何を言い出すのかと、アリアは目を剥いた。
「冗談じゃありません。何、言ってるんですか」
「向こうから逃げろ」
「向こうって――」
「移動陣があっただろう」
 かつて一度、魔法院から飛ばされてやってきた場所のことを言っているのだろう。
「今しかない、早く」
「早くって、いくら何でも、無理ですよ!」
「ここは俺が食い止める。さっさと行け」
「でも、魔法式、判りませんよ!」
「移動先が魔法院なら、いつも唱えているもので大丈夫だ」
「だから!」
 言い募るアリアから視線を外し、アッシュは大きく剣を振りかぶった。向かう敵が距離を空けて後退したのを見計らい、握りしめた剣を己の腹に突き立てる。
「なっ……」
 突然の事に、アリアは言葉をなくす。だが、対照的に、アッシュの方は静かな目を再び彼女に向けた。
「時間がない」
「――って、何やってんですか!」
「こうするしか、ないんだ。だから、行け」
 アリアは、混乱する頭の中でアッシュの言葉を反芻した。だが、いつも以上に足らない言葉は、支離滅裂に近い。それでいて、アッシュ自身が極めて冷静であることが、余計にアリアを悩ませる。
「行け」
 アッシュが繰り返す。だが、アリアは動けずにいる。その内に、アッシュの方にも余裕が無くなってきたのだろう。
 辛そうに顔を顰め、絞り出すように声を上げた。
「行け!」
 同時に、遠くに炎の柱が立ちのぼる。魔物と交戦中のヒュブラが、魔法を放ったのだろう。だが、そのあまりのタイミングの良さに、アリアはぎよっとしてアッシュを見つめた。
「俺に、あんたたちを殺させないでくれ!」
「!」
 目を見開き、びくりと体を強ばらせる。
「――頼む」
 あまりに真剣な声に、アリアは――ようやく、彼の思いを知った。
 ヒュブラの意図は判らない。だが、彼の言うことが本当なら、彼の狙いはアッシュひとりなのだ。アリア達のことは、正直、アッシュを苦しめる為の玩具としか思っていないのだろう。
 自分たちが踏ん張り、共に頑張ろうとするほどに、それはアッシュを苦しめる。
 でも、とアリアは苦悩した。本当にどうしようもないのなら、決心するのは早かっただろう。だがけして、アリアには、手がないわけではないのだ。
 そんなアリアから目を逸らし、アッシュは正面に向き直る。
「――無理する、必要はない」
 唇を噛み締めるアリアに、彼は掠れた、しかし驚くほどに穏やかな声で言った。
「あんたが何を迷ってるのかは判らん。だが、辛いなら逃げ出せばいい」
「だけど、」
「大事なのは、生きることだろ。常に全力を尽くしたり、前に進むことじゃない。自分に無理強いをしてまで、他人のために進む必要はない」
 喋ることも負担であるだろうに、アッシュはアリアに背を向けたまま、語る。
「誰かのために生きて、誰かのために死ねるなら、それは幸せなことだと思う。だがそれを己に課していたのだとしても、その誰かの中に、自分もちゃんと入れてやれ」
 魔物の攻撃の隙を見て、再び放たれた炎の矢を打ち落とし、アッシュは苦しげに呻く。
「だから、行け」
 背中にあるのは、確固たる意思。
 奥歯を噛み締め、アリアは身を翻した。戸の向こう、ヴェロナが驚いた目を向ける。
「来て」
 言葉短かに、アリアはヴェロナの手を引いた。そうして、振り返らないように前だけを向いて走る。
「アリアさん、――どうしたの!?」
 躓きつつ、必死で付いてくるヴェロナに、アリアは説明ができなかった。口を開けば、嗚咽が漏れそうだったのだ。
 目が、熱い。視界がぼやけて滲む。
 無力だ、とアリアは思った。一方で、頭の奥では、否定する声が聞こえる。――お前は所詮、自分が可愛いのだと。
(違う)
 ――違うものか。力を使えば、アッシュを助けて逃げることだって可能だろう。
(だけど、説明が出来ない)
 ――説明? お前が化け物なのは、確かだろう。何に、言い訳がいるというのだ。
(違う)
 ――違わない!
 いつか、アッシュに助けられて進んだ道を、アリアはヴェロナを連れてひた走る。力強かった背中はなく、見通しの良い前方からくる風がただ、痛かった。
 幾つもの枝道を越え、突き当たった小部屋でアリアは足を止める。一瞬、本当にこの場所であっているのかと不安を覚えた彼女の目に、小さな反射光が飛び込んだ。
 その場にへたり込んだヴェロナを横に、アリアはその欠片を拾い上げる。
「騎士団章……?」
 何かの留め具のような物の平らな面に、キナケスの騎士団に共通する紋章が刻まれている。色は、黒。シクス騎士団のものだと気づき、アリアは裏に目を走らせた。そこに期待したもの――名前などの彫刻はなかったが、ふとその手に、力強い波動を覚えて首を傾げる。
(魔法鉱石だ)
 それが特殊なのか、全てがそうなのかは判らない。だが確かに、その金具からは力を感じた。力強い、濃密な魔力。どこかで知っていると思い、そうしてアリアは目頭を押さえた。
(これは、アッシュさんのだ)
 以前、この地下通路に迷い込んだ後、彼の誘導で魔法院に戻る際、アリアは彼の魔力を幾らか奪っていたようだった。体にかかった負担を、無意識に緩和しようと力が働いたのだろう。


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