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 そのとき受け入れた魔力の感覚と、金具から受ける印象はほぼ同じだった。そう言えば、アッシュが以前この場所で魔法を発動させる前、何か投げ捨てていた記憶がある。いずれ、時期を見て、アッシュはこの場所がどこであるのか、探る気でいたのかもしれない。アリアは多少特殊例としても、魔法使いは概ね、自分の魔力が色濃く残った場所の位置を特定することが出来る。その仕組みを利用すれば、確かに闇雲に見当を付けるより確実に、探し当てることができただろう。
 眉間から指を放し、アリアは顔を上げて涙を堪えた。
 この場所が移動陣のある所であると判った以上、長居に意味はない。迷いが吹っ切れたわけではなかったが、ここまで来たからには、少なくとも、ヴェロナを安全な場所に逃がすことが最優先となる。
「ヴェロナさん、手を」
 恐る恐る伸びてきた腕を、掴み上げるように握る。
「辛いかも知れませんが、絶対に離さないで下さい」
 蒼褪めたまま頷くヴェロナを認めて、アリアは魔法式を口にする。即座に展開される、移動陣。やはり何度も使われている為だろうか、反応は思ったよりも速く素直だった。
 身に覚えのある、締め付けるような圧迫感。苦しげな呻きを上げるヴェロナを抱え、同じく苦痛の中、アリアは叫ぶように式を詠唱した。術者である以上、前回のように、気を失うわけにはいかない。
「――あぁっ!」
 耳に響いた悲鳴は、果たしてどちらのものだったか。ひたすらに歯を食いしばり、アリアは強く魔法院を思い浮かべた。
 魔法は、使う者の意志を強く反映する。願えば願うほど、成功する確率は高くなるはずであったが――。
「っ!?」
 引きちぎられそうな痛みの中、強く弾かれる感触を覚え、アリアは薄く目を開けた。極彩色の嵐、その奥にぼんやりと見知ったステンドグラスが映る。だが、空いた手を伸ばしても、厚い硝子を隔てたように拒絶されるばかり。
 出られない、とアリアに絶望が走る。永遠にも感じられる数秒の間、焦りは頂点に達した。ふと視線をずらせば、ぐったりとしたヴェロナの顔が見える。既に気を失っているのだろう。力の失った体を支えなければならない分、体力的な負担は増えたが、庇護するべき立場の者がいたことは、逆にアリアを奮い立たせた。
 どこかに、と考え、外に、と強く願う。ずっと、長い間空を見ていない気がした。
(空と、星と、大地の上に――)
 この移動陣の繋がっている場所の、どこでもいい。外に行こうとアリアは再び目を閉じた。

 *

 地面に叩きつけられる衝撃に、アリアは思わず息を詰まらせた。喉が鳴り、咳き込んだ後に身を起こす。
 乾いた風を頬に受け、恐る恐る目を開けたアリアの前に広がっていたのは、疎らな木々と短い草の群生、起伏の浅い大地だった。濃い藍の空には、宝石のように星が散っている。
「や……」
 やった、と緩む頬で言いかけたアリアの耳が、砂利を踏む音を拾う。
 一瞬の反転――
 再び、地面に転がったアリアの上に、月明かりを受けて逆光に睨む、人の影。体に何の痛みもなかったのは、そういう転がし方をされたからだろう。もとより、油の切れた器械のように、ぎこちない動きしか出来なかったアリアとっては、些細な問題でしかなかったが。
 状況の判らないままに、ぼんやりとその人を見上げやる。
「何者だ」
 どちらかと言えば甘めの声が、緊張を孕んで問いかける。聞きたいのはこちらの方だと思いつつ、アリアは上手く動かない唇を振るわせた。
 そこに更に、草を分ける衣擦れの音、そしてあまり軽快とは言えない足音。
「物音がしましたが、どうしたんです?」
「ああ――」
 答えかける人よりも先に、アリアは目を見開いた。知っている、その声。
「フロイド、さん……?」
 アリアの手首を掴む手が揺れる。驚いた目が二対、一斉にアリアを凝視した。
 遅れてやってきた人物もまた近づき、アリアの顔をのぞき込む。
「あっ」
「お知り合いですか?」
 怪訝な声音で、アリアを拘束した男が問う。
「今さっき、例の移動陣から出てきたんですよ」
「アリア……?」
 目を合わせたその人、フロイドが言い当てた名に男は首を傾げた。知らぬといった様子である。徐々に闇に慣れた目に映る顔には、勿論アリアの方も覚えがない。
 関連のない二人の共通の知人となるフロイドは、困惑した表情で緩く首を振った。
「最近、顔を見ないなと思ってたけど、――どうして、ここに?」
「何者ですか?」
「三ヶ月ほど前に、所長が連れてきた子です。他の国で医療魔法を研究していたとかで、キナケスに学びにきたと聞いています。前に、移動陣の事故に巻き込んでしまったことがあって、それ以来、姿が見えなくて心配していたんだけど……」
「すみません」
「でもまさか、君……」
 言いかけ、濁した言葉の先は、考えるまでもないだろう。国を混乱に陥れた一味が使っていたと思われる移動陣から、いきなり現れたのだ。仲間、もしくは関係者だと疑われるに充分な状況である。
 しかし、説明の難しい言い訳をしている場合ではない。
「フロイドさん、お願いです。医師のところに、ヴェロナさんを連れて行って下さい!」
 掠れた声を絞り出し、訴える。アリアが示した先、つられて男ふたりが視線を投じた先には、ぴくりとも動かないヴェロナの体が、草むらの中に埋もれていた。
 胸が浅く上下していることから、死んでいないことだけは判るが、強引な魔法の影響が、どんなことに波及しているかは判らない。気張ってはいたようだが、牢に閉じこめられていたくらいだ、衰弱もしているだろう。日常的にある怪我や病気でないとすると、アリアの知識でどうにかなる範疇にはない。一刻も早く、経験深い医師の診察を受ける必要がある。
「あと、離宮に、離宮に助けを……」
「離宮!?」
「離宮にいたんですか!?」
 アリアに向き直り、フロイドと男は驚きの声を上げる。離宮の異変は、さすがに伝わっているらしい。
 答えるより先に、ヴェロナのことを念押し、ようやく離された腕をさすりながら、アリアはゆっくりと立ち上がった。それを横目で見つつ、迷うように男はフロイドに声を掛ける。
「フロイドさん、頼めますか?」
 指示するでもなく相談している様子から、なんとなしにふたりの関係が窺える。
「僕はこの人から話を聞きますので」
「判りました。まぁ、それはそちらの範疇ですしね。回復魔法をかけたら、馬を借りますよ」
「お願いします」
 一旦アリアの側を離れ、男はヴェロナを抱え上げた。フロイドが慣れた様子で一際大きな木の下、短い草の生えた柔らかな場所に野外用の寝具を置く。敢えて場所を選ぶ様子がないところをみると、彼らは少なくとも何日か、この場所で寝泊まりしていたのだろう。
 監視のためだろうか。ヒュブラやその一味が移動する先に、彼らのような人が配置されているのだとすると、事態は随分と進んでいることになる。そろそろ、知らぬところでヒュブラ達は追い詰められているようだ。
 やがて、ヴェロナを下ろして戻ってきた男は、アリアの前で姿勢を正して僅かに頭を下げた。
「乱暴なことをして、申し訳ありません。僕は、シクス騎士団、第三連隊所属のマリク・フェローと言います」
「シクス……? では、ここは、王都ですか!?」
「いえ、エンデ騎士団領に近い平原です。僕とフロイドさんは、個人的に頼まれて、ここの調査に。それよりも、あなた、何故あの移動陣から出てきたのですか? それに、」
「お願いです、すぐに、騎士団を派遣して下さい!」
 言いかけた言葉を遮り、アリアはマリクの袖を掴んで揺する。
「離宮が、大変なことになってるんです。お願いです!」
「ちょ……、待って下さい。落ち着いて」
 マリクは、宥めるようにアリアの肩に手を置いた。
「離宮の異変のことは、伝わっています。タラントの騎士団も動くはずです。それより、何故、あなたが離宮に? 何があったのですか?」
 問われて、言葉を詰まらせる。だが、躊躇っている場合ではない。ディアナの侍女ではなく使用人とだけ変えて、アリアはマリクに、離宮であったことをおおまかに説明した。焦燥感に急き立てられるように、早口になってしまったのは致し方ない。
「ヴェロナさんが捕らえられた経緯は分かりません。でも、理由無く閉じこめるわけはありません。彼女はグリンセス家の者です、何か、グリンセス公の企みを聞いたのかも知れません。お願いです、助けてあげてください!」
「落ち着いて。大丈夫です。彼女は、僕が責任をもって保護します」
「あとは、アッシュさんが……」
「!? アッシュとは、騎士のアッシュ・フェイツですか!?」
「そうです、あの、早くしないと、彼が……!」
「アッシュさんが、どうしたんです!?」
 突然、マリクが形相を変えた。剣幕に近い勢いで、彼はアリアに詰め寄り迫る。
「あの人、無事で?!」
「え?」
「生きてたんだ、――死んだんじゃなかったんだ、無事だったんだ」
 自分に言い聞かせるような言葉に、アリアは眉根を寄せた。無事も何も、今アッシュは危機にあると、説明したばかりではないか。
 だが、マリクは、そんなアリアの様子には気付いたふうもなく、泣きそうな顔で唇を震わせる。
「僕が――僕が、不甲斐ないばかりに」
 俯き、固く拳を作り、彼は低く呻き声を上げた。どういうことかと問うアリアに、ランスの村で魔物に襲われたこと、アッシュの手によって逃がされたことを彼は語る。
 聞くにつれ、茫然としたまま、アリアは立ちつくした。アッシュが語らなかった、彼の捕らえられた経緯にそんなことがあったとは。
 そうしてアリアもまた、彼によって逃がされたことを聞くと、マリクは額に手を当てて、その下で強く眉間に皺を寄せた。
「――莫迦だ、あの人は」
 自分ばかり、悪いくじを引いて。


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